カフェイン水戸の最終日。
2008年 11月 25日
今日もまた500人を超える家族連れで賑わっている。その様子を見ながらも、昨日子ども達と制作したエントランスに取り付ける鳥の作品の修理と撮影。
まだまだ盛り上がるかえっこ会場をあとにして、水戸市内の空き店舗や空き地などを使ったアートプロジェクトに参加中のかえっこ屋の最終日の現場に向かう。
ものすごい人ごみの現場を見てきたあとだけに、子ども達がゆっくりじっくりと遊ぶかえっこ屋がやたらと平和に思えてならない。4時半ごろ最後の客がひけて、水戸でのかえっこ屋の実験終了。
ここは水戸在住の横須賀君にまかせていたので、彼と茨城大学の学生がどれほどのことができたのかが気になるところ。彼らはちゃんと楽しめたのだろうか?
今回のかえっこ屋はカフェイン水戸の参加作品として出品されているが、そのカフェイン水戸を行っているMeToo推進室のスタッフとの関わりがほとんどなかったのではないかという疑問・・・。
かえっこ屋の店長の横須賀君は果たしてMeToo推進室のスタッフとどれほどの対話がなされ、協力関係がつくられていたのだろうか?
かえっこ屋の片付けを終えて、カフェイン水戸の反省会や打ち上げがあり、サポートスタッフがそれぞれ「充実していた「「面白かった」・・・との話をしている輪の中にかえっこ屋にかかわったスタッフはなぜだかだれもいなかった。
かえっこ屋はカフェイン水戸の参加作品だったがその運営を行っていたMeToo推進室はかえっこ屋を別のチャンネルのものとして捉えていたのかな?僕自身、そのあたりの判断ができない程度にしか関係できなかった。
たぶん、カフェイン水戸は街を舞台とした現代美術の展覧会だったんだ。
水戸で育ってきた現代美術ファンの市民達が、水戸芸術館の学芸員の指導のもとに、自分達の現代美術を企画して展示して盛り上がったワークショップのようなものだった。
確かに水戸芸術館の企画として行われていて、企画協力がMeToo推進室だった。
かえっこ屋をはじめとしていくつかの参加作品は水戸芸術館が仕掛けた直営の作品。もうひとつのチャンネルとして水戸の若手ががんばって自主的に仕掛け、運営をした作品。
カフェイン水戸を見た知り合のひと言がしみる。
「まちで行うアートプロジェクトって言っても、結局空き店舗とか空き地を使って臨時のギャラリーをいくつかつくっただけのことでしょ。」いや、ぜんぜん違うはずなのだが・・いや、そのような部分があってもおかしくはないが、もちろんそれだけではない。
街のさまざまな組織や団体、企業、人に絡みつつ、アーティストが感性をぶつける実験場なのだと思う。・・・守られた空間ではなく、むしろ予測不能な街という現場で・・・。
とにかく今回のカフェイン水戸が「空き店舗や空き地を使った臨時のギャラリー」と見られてしまったことは、現代美術ファンにとってみると、それだけよく美術空間になっていたということだから、ある意味成功だったのかもしれないが、あくまでも見た目の様子についてであり、現代美術のギャラリーシステムが水戸の街に導入されたわけではない。
水戸に水戸芸術館ができてもうすぐ20年なのだとか。水戸芸術館は少人数ながらも確実に地域に現代美術ファンを育ててきた。
まさにその人たちと次のステップに向かう現場が今回の実験だったのだと思う。
今回のカフェイン水戸のプロセスにおいて、実はさまざまな予期せぬ因子が発生している。各自がその因子をどのように展開させるのかが重要なのだと思う。
まちには何が足りないのか。逆にまちに必要のないものであふれていないのか。
まちは地域の重要なツボである。地域の過去における、あるいは現在の、もしくは将来の文化とは何なのか。言い換えれば、高齢者世代の、あるいは現在の世代の、そして子ども達の世代の文化とは何なのか。それをしっかり探る視線がまちに向けられることは美術館の視線として必然のことだと思う。
しかし、まちの文化をつくるのは美術館ではない。MeToo推進室のようなまちの人の活動のエンジンが大切なのだと思う。
そこと美術館が連携しているというあり方は今の段階ではうらやましい。
やっぱり、水戸という街がいかに多くの「ファンタジー」の舞台になるのか・・・ということなのかな?
