作品性・表現・芸術性
2018年 03月 17日
作品性・表現・芸術性
藤浩志(アーティスト)
Q. 藤さんは「アーティスト」を名乗っていらっしゃいますが、思わぬところでいろんな活動が派生することが多いですね。
藤:面白いですよね。僕はほとんど関与していないんです。でも知らないところで何かが起こっていて、別の活動が始まり、その活動が勝手に面白いことになっている。「イザ!カエルキャラバン!」のキャラクターが、沖縄ではカエルからヤモリになっていたり、インドネシアではバンビちゃんになっていたり。それを面白いなって思っちゃうんです。プラス・アーツも「かえっこ」からだんだん外れていくし、「イザ!カエルキャラバン!」でも「かえっこ」をやらないようなのも出てきてますが、それはすごく正常な気がします。
「かえっこ」を芸術の文脈から見て作品性があるとすれば、「仕組みとしての表現を提案している」というところです。いろいろな活動が誘発される仕組みを、美術表現として提案してるという点にしか作品性はない。みんながやっている「かえっこ」は皆さんの活動で、そこには藤浩志の作品性みたいなものはないと思っています。それが作品かどうかという問題は、結局アートの制度の中でしか問題にならないと思っています。「かえっこ」等の作品性は仕組みとして提案されているので、それが僕の作品というところから離れて、全然違う形で展開していくことについて許していますし、むしろ楽しみに思っています。その辺の作品性についてはなかなか理解されにくいんです。
Q:藤さんは「表現」という言葉をよく使われますが、「表現」とはどういうものなのでしょうか。
藤:今までの自分自身をちょっと変えようとする、超えようと試みる、そういう行為が「表現」だと思っています。ふだん絵を描いていない人が絵を描き始めることは「表現」ですが、毎日同じ絵を日常の延長として疑問なく描き続けることは「表現」といえるのか疑問です。逆に、日常的に絵を描くことを自分に課している人が、自分の中でその意味を問い始めることは「表現」だと思うんです。自分がやっていることを客観的に見て、それを続ける意味を考え始める時に、それが表現行為につながってゆくと思います。そこに意志が働くんですよね。
例えば、障害のある人の中には、自分を自覚的に表現者と思っていない人もいますよね。客観的に自分がやっている行為を理解していない場合もあります。子どもの行為もそうかもしれません。ただそれは、コラボレーションという視点で捉えることで納得できると思っています。彼が描く行為とは何なのか。その客観的な視点を持つことができる支援者が横にいることによって、単なる描くという行為が表現に変化するんです。そこが重要だと思っています。何かをずっと描いているだけだったら描くという行為でしかないのですが、横にいる、たとえば福祉施設の人が、展覧会に出してみようかなとか、何か飾ってみようかなとか、みんなに配布し始めようかなとか、彼が描くという閉じた行為について、なんらかの形でリリースすることを考え始めた時、表現行為が始まるんのだと思います。それは、2人のコラボレーションの作品として成立することになります。
表現行為というのは、些細なことでいいと思うのですが、日常の行為に満足していたら発生しないと思うんです。自分自身にのあり方や日常について疑問を持ち、自分を変えようとしていたり、あるいは周辺との関係のあり方や、暮らしている社会環境などについて、何かちょっと違うという違和感を抱いていたり、そういう感覚があるから、どうにかしようともがくのだと思います。それが表現行為につながります。職場と家との往復だけの生活に疑問を持ち、少しだけ遠回りして散歩しようとしたり、日常とはちょっと違うところに行ってみようと思ったり、何かをやり始めようとしたり、その些細な行為に表現は宿っているのだと思います。
Q:「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」では、社会への違和感が顕在化することが比較的多いといわれていますが。
藤:逆に顕在化を考える上で、「アート性」(芸術性)が問題になってくるのではないでしょうか。僕にとってのアート性は、超えの度合い、跳躍の度合、その飛び抜け方のことです。僕らはよく「強度」と「深度」いう言い方をしています。日常の些細な違和感が表現行為へと繋がってゆくと考えていますが、その些細な表現行為が認識され、周辺との関係において存在するためには表現行為が強く、深くなければならない。受け取る側からすれば、表現行為は強く深くあった方が当然、面白い。心の揺さぶり度も変わってきます。
だから、作る側としては、ある種の表現の強度と深度を作り出そうとする。強度や深度の作り方は、物量、スケール感、意味性、物語性、表情、完成度、新鮮さ、ありえなさ等様々です。たとえば僕の「ザウルス」とか、「鳥」とか、「リング」とかって、いってみればおもちゃの破片でできた、へなちょこのものだけど、それが成立するバックグラウンドで「かえっこ」というシステムがあって、そのかえっこのシステムによる重層的な行為の結果集まってしまった素材のあり方において強度と深度が作られている。つまり、作品の構造の部分、ストラクチャーにおいて強度と深度を作っているつもりです。
家に集まってくるおもちゃ素材の中でも特に最近注目している「破片の大吟醸」と呼ばれるものがあります。幾度となく繰り返しておこなわれた「かえっこ」の結果、その運搬のための段ボールの底にたまった本当に小ちゃいおもちゃの破片の集合体をそのように呼んでいます。その「大吟醸」を机の上に色分けして並べているだけなんですが、とても強いんです。そのバックグラウンドにあるたくさんの人の行為や関係性の積層から生まれた存在だからだと思います。
例えば、なんでもいいのですが1、2個だったら見慣れた日用品でも、それが500個とか千個とかあれば、「何でここまで!」と心動かされたりします。逆に、わずかなもの、1本の線だけでも、その1本の線を引くための複雑なプロセスが提示されていたら、それはそれで強さになる。
ダムタイプの場合、活動において最先端の技術を用いて圧倒的な高音や低音とか光量とか、人間の感知できる限界の表現で強さにしようとしてた時期がありました。
スポーツの世界でも、ある選手のプレイに対して芸術的と呼ぶことがあります。サッカーでの「芸術的なシュート」とかイチローのヒットとか。その「芸術的」と呼んでいる意味と、アート性というのは同じだと思っています。「芸術的なシュート」は、長年のプレイにおいて常に客観的に自身の行為への違和感に向き合い、違う自分を作ろうと修練を重ねて続けてきた結果としてしか生まれてこない。料理だろうが何だろうが、職人だろうが同じだと思っています。日常の表現の結果、強度と深度を身につけ、様々な違和感は顕在化されりことになります。それによって人は心を揺さぶられ、涙を流し、感動するわけです。そこと関わっているのが芸術性だと思うんですよね。
「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」って考えれば考えるほど、取り立てていうようなことではないんです。多くの物事が自分たちの生活を取り巻く環境や状況に対して違和感を抱きながら表現してきた延長にあるものだと思っています。しかし、こうやって近年言葉として語られているいうことは、そうではないもので美術と呼ばれているものがあるということですよね。社会に接続していないような美術表現だけが純粋なアートとして美術市場に流れていっている状況に対して、「ちょっと違う」という感覚、つまり違和感が言葉になっているのだろうと思います。しかし逆に自分の活動に対して「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」というふうに呼ばれることに対しては、「どうだろうな」という疑問は感じます。自分で自分を規定したいわけではないですし、自分を作り変えてゆきたいから活動しているわけですし。
藤浩志 ふじ・ひろし
美術家、秋田公立美術大学大学院教授 京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・副学長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。http://geco.jp
