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現場はここなのかと疑いチュウ

表現の現場はどこなのかということと、同時代性とはなにかということ。時代によって表現の手法も変わるし、表現の現場も変わる。何が描かれているか、何が表現されているかとことは時代の変化で変わるし、何に表現されるのかということも変化する。それを受け取る人の感性も変化し続けている。
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フジのノートの記述を見ると、1980年代は貸し画廊全盛の時代だったことがわかる。ホワイトキューブと呼ばれる白い空間で作家の自由なイメージを形にする表現が流行っていた。「現場はどこか?」という視点で作品を捉えるとすれば、1980年代は美術の現場のひとつとして貸し画廊というものがあったということがわかる。

このノートの記述はフジがはじめて大阪のギャラリーで個展を行うことになり、そのためのイメージを描いたもの。

80年代美術を先導するように1979年、品川に原美術館が開館した。日本にはまだ珍しい現代美術を見せてくれる美術館として注目された。ホワイトキューブの公立の現代美術館ができるのはその10年後、1989年の広島市現代美術館、そして1990年の水戸芸術館。90年代に入り、91年に猪熊弦一郎現代美術館、95年東京都現代美術館と続く。フジの活動の経歴を見ると原美術館と水戸芸術館に大きな影響を受けていることがわかる。実際に群馬のハラミュージアムアークでの展示経験を合わせると、合計8室で展示を行っている。彼の世代の作家にとって、美術館の空間一部屋を使って展示を行うことをが当たりとなっていたのだろう。しかしながら同時に1951年に最初にできたと言われる神奈川県立近代美術館以降の日本全域に数多くできた公立の美術館は日本の近代美術の成立が西欧の近代美術史の影響から始まっているために、その歴史をなぞるようなコレクションを主流としてきた。

 日本におけるはじめての民間による近代美術館として代表的な大原美術館が当時大切にしていた同時代性の作品を収集するという方向性よりは、西欧の近代美術をなぞりつつ、それに影響を受けたご当地ゆかりの美術作家の遺作をコレクションし、それを保存するための美術館としてつくられてきた。その為、今、ここで活動をつくろうとしている現代の作家達の先端の表現に対しては目を向けにくい状況だったと思う。同時代の美術を紹介し、積極的に収集してきた美術館が全国にどれほどあったのだろうかと思う。fそれを阻害してきたのは何なのだろう。
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そこが扱う作品の多くは、明治の文明開花以降の西洋美術、あるいは日本画や工芸を中心とする近代美術。その学芸員の多くは近代の美術状況の現場を作品や様々な資料から研究分析し、次の世代に残してゆくという仕事をしている。考えてみると、どの時代にも作家にとっての表現の現場は様々にあった。前衛美術の作家たちの現場は街中だったかもしれないし、絵描きにとっては自室のアトリエやその周辺の生活の場だったり、画廊やコレクターとの関係だったり、クライアントの自宅や企業だったり、映画や映像、雑誌や広告の世界だったり、教育の現場だったり・・・。もちろん時代の状況に対して、政治に対して、そこを現場として表現する作家も少なくなかった。
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今回、展覧会(2020年あわいをたどる旅)を行う予定の秋田県立近代美術館は1994年に作られた近代美術の研究を専門とする美術館。美術館の空間そのものが現場ではないのでそれに対応できる建築空間になっていないし、現在の社会状況を見渡しその中で先鋭的な活動を作り出している表現者を研究できる環境でもない。日本国内においては1990年以降、現代美術を専門とする美術館も数々登場し、今の時代背景や状況を俯瞰しながら先鋭的な作家を探るキュレーターも増えてきた。(まだまだ少ないけど・・・)その連鎖もあり、独自の現場で稀有な表現を実践する作家も面白い展示の機会を得ることもある。さらに2000年以降、国際芸術祭やアートプロジェクトの現場が多様、多層に増えてきた。しかしこのノートの記述は1983年。空間の作品、インスタレーションがあたりまえになりつつあった頃。フジは自分の表現の現場としての画廊や美術館という空間にも興味を持ちながら、同時に違和感も抱き、まだ見ぬ現場を求めて旅を重ね続けている・・・。(チュウタ)

by fuji-studio | 2001-11-22 16:31 | 【チュウタの観察帖】