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表現は自由なのかな

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に関する一連の情報を目にして、なんだか黙っている自分も嫌だし、自分の中で考えてしまうことをぶつぶついいたくなったので、久しぶりに雑感を書いてみたら長くなった。 


表現できる環境はあるのか?


そもそも、表現は縛られていると考えている。過去においても、そして現在においても。だからこそ、自由な表現を求めるし、それが実現できる社会を求めてしまう。様々な表現を実現し、あるいは体験できる環境を作るための努力こそが必要なのだと考えている。もちろんそれは私たちの権利でもあるし、人が「生きること」に関わる環境をつくりだしているすべての人の責任でもある。その意味で、教育の責任であり、行政の責任であり、国の責任でもある。


人が苦しい時に苦しいと言えず、行きたいところに行けず、言いたいことが言えず、喜びも悲しみも抑圧される社会に暮らすことを望む人はいない。しかし、現実はどうだろうか。


「表現する力を持ちたい」と強く思ったことがあるだろうか。どんな時に人は表現したいと思うのか。そしてそれは許される環境にあるのか。人は生まれてすぐから、家庭の中で、学校や職場で、地域社会で、様々な現場で表現しなければならない状況に直面してきた。

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小学校の授業時間にトイレに行きたくなっても、クラスメイトの視線や中傷が気になり我慢する。なかなかトイレに行きたいということが言えない。しかし、いよいよ我慢できなくなって・・・


炎天下の中、体が熱くなり、意識が遠のき、座りたかったり水が飲みたくて仕方ないけどなかなかそれができない。忍耐が必要だと教わりじっと我慢し続けついに意識を失ってしまう。


高齢者の無意識の交通事故によって登校中の小学5年の娘の命が奪われてしまう。その現場に居合わせていない両親だが加害者以上にその現場の様子を何度も思い描き苦しむ。


津波の被害で両親や妻を失った男性の唯一生き残っていた娘が放射能汚染事故の影響とも思える白血病に苦しみ治療を受け、死への恐怖と怒りと闘う日々を過ごす。


人は誰でも経験したことのない新しい課題に直面したとき、未知の世界に足を踏み入れたとき、時として災害、事故、事件に出会ったとき、あるいは敵が目の前に現れたとき、それをどうにかして乗り越えるために、想像力、行動力、技術、経験を欲するものだと思う。言葉の力、表現の力を身につけておけばよかったと後悔する。


人は喋ったことのある言語でしか言葉にすることはできないし、使ったことのある道具しか使うことはできない。それと同様にこれまで経験してきた表現力しか持っていない。だからさまざまな表現手法や表現の力について日頃から接し、学び、体験し、試行錯誤を重ねる必要がある。それは日常生活での会話の表現もあれば、企業や組織としての表現、批評や批判、メディアやネット上での発言、政治的表現、スポーツや芸術、知財創造などさまざまにある。それらを複合的に用いながら新たな表現する力を模索することが大切だと思う。


当事者が表現する力を持つ必要もあるが、問題はその環境にある。言葉を発することが許される環境が用意され、ちゃんと向き合い、対話できる状況が用意されなければならないと思う。そのために地域社会はさまざまな試みを行う方がいい。

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表現は抑圧されている?


表現行為はそもそもあらゆる面で縛られている。だからこそ、表現者を志す者は様々な束縛と闘いながら自由な表現を求め試みているのだと思う。本来、誰もが表現者になるべきだと思うが現在の社会はそれほど優しくないし、許される環境ではない。何が私たちの表現を縛り続けているのか。


1、自分の経験や意識が表現を縛る。

表現行為において最大の敵は自分自身だと思っている。自分の経験や意識、常識、これまで受けてきた教育、培ってきた環境が自分自身を束縛する。従って表現者は時として自分自身が築き上げてきた様々な蓄積から逃れ、新たな表現を求めようと苦悩する。


2、言語が表現を縛る

言語は概念の現れであり、意識を語るうえで当たり前のように使われるが、必ずしも100パーセント言語化できているわけではない。言葉から伝えられる意味はその人の経験によって全く違うのだということも思い知らされる。自由という言語についても学者、活動家、公務員、企業人、学生、政治家では使っている概念は全く違うのだと思う。平和という概念が戦争や混乱の地域でこそはじめて浮上してくるように、表現の自由ということがあらためて問題になっている現在、不自由な状況が蔓延しているということを示しているようにも思う。言語での表現ではない手法、つまり音楽やパフォーマンスや絵画立体映像などの表現においては言語の束縛から解放されるという側面もあるはずなのだが、言語を超えて感じる力を持ち得ていない受け手(鑑賞者)の状況も浮かび上がる。

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3、システムやフォーマット、法律や条例が自由を縛る。

さまざまな表現は原稿用紙なりキャンバスなり舞台なりホールなり、なんらかの支持体が必要になるが、その支持体にはさまざまな制約がある。絵画はキャンバスや絵の具という材料の特性からくる制約があるし、彫刻や立体にはその作業加工上の制約や運搬・安全という制約もある。映像表現にはテクノロジーや電源などの制約もあるし、それを展示する空間にはそれが街なかであれ、山や川、森や海であれ、美術館やギャラリーであれ、インターネット等のデジタル空間であれ、アートプロジェクトや芸術祭であっても、それぞれ管理者がいて条例や法律があり、さらに消費と流通の構造があり、市場や経済の流れがあり、さまざまに自由な空間や環境を作り出そうと努力し続けていたとしても、どんな環境にもかならず制約はある。だからこそ、人が様々な制約から解放され自由な表現が可能な環境の整備を様々な手法で試み、経験を重ねなければならない。


4、歴史や常識、縁者や空気が表現を縛る

多くの人は家族や友人、職場の同僚や上司によって自由な振る舞いが束縛されている。愛情に溢れた両親でさえも、こどもに対して誰よりも、利口に・正しく振る舞うことを求める。教師は子どもたちの自由な表現についてはみ出ることを恐れ、上司は部下の破天荒な振る舞いを嫌がる。常に平均化と調和が求められる環境の中で、感情をあらわにしたり、激しく拒絶したり、主体的に自由に振舞ったり、常識を外れた行動を行うことに対して寛容ではない。

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そもそも表現行為とは何だろう?


まず、原初的な表現行為として生理的、本能的、感覚的に「拒絶しようとする行為」を失ってはいけないと思う。アレルギー反応や吐き出す行為や無視する行為を通して自覚することもある。生命を守る、あるいは精神状態を維持するためにとても重要な表現行為だと思う。拒絶する感情を抱くことの日常的な訓練も必要であり、それに対してどのような言葉を発するかの経験も必要だと思う。「怒り」「悲しみ」などの感情もまたこの表現につながるので、表現の仕方によっては犯罪などにつながる可能性もある。だからこそ、多くの経験を重ねて、情緒、感性、イメージする力を身につけ、拒絶することに対する表現力を持つ必要がある。


そして「つながろうとする行為」。生まれたての赤ちゃんが母親の存在を手探るように、あるいは興味関心のある世界や自分が繋がりたい世界に対して触れようとしたり、手を伸ばしたり、顔を近づけたりする行為は文字や言葉が発生する以前においてもとても重要な表現行為だと考える。「心地いい」「楽しくなる」「期待感」「よろこび」「安心」等の感情等が発生するので暮らす上でとても大切だと思う。無意識を意識化しようとする行為でもあり、未知の世界に向きあおうとするとき必要となる。この表現の振る舞いや技術の延長に新しい表現は生まれてくると信じている。


そして「伝えようとする」行為。多くはこのことだけが表現行為だと思われていることに不満だが、言語化された意識を伝えようとする行為。どのような言語を選択し、どのような手法で伝えるのかその技術と編集能力などが問われる。伝えようとする多くの場合、対象者が見えている場合が多い。誰に伝えるのか、どのように伝えるのか、何を伝えるのか、その結果どのような連鎖が起こるのか。それをイメージする力を身につけるには相当な修練が必要となる。

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多くの失敗を重ねること。


いずれにせよ、表現の先には受け手がいる。その受け手がどのように感じるのか。それをイメージする力、考える力が必要となる。表現することとはそれほど簡単なことではない。しかも、これまでにない手法で、これまでにないイメージや意識を表現という形にするのは難しい。ひとつの形が生まれるまでにさまざまな試行錯誤が必要となる。僕自身多くの失敗を重ねてきた。表現力を持たないことで孤立して育ってきたし、未熟な表現のために家族や友人の心を傷つけてきたと反省することも多い。必死に作ってリリースしようとした作品が担当者の心を傷つけ、観客の心も傷つけたこともあるが、それ以上にその時々で言葉にならない感情の苦しみを抱いていたし、それを形にしようとしてきたのも事実だ。それもまた失敗だったかもしれないが、それを重ねることでしか表現力は身につかないと思う。


表現作品に対し、無断で撤去されたこともあったり、主催者が断固として撤去したこともあった。一方で観客の苦情にもかかわらず、苦情と闘い続け、展示を守り続けた公立の美術館などもあった。自由な表現ができる環境を築こうと努力し続けている自治体もあるし、公共施設も多いが、残念ながら、それはまだまだ一部の特別な意識を持った首長や担当者のいるところでしかない。

日常暮らしてきて、本当に失敗が許されず、自由なつぶやきさえも避難される息苦しい世の中になってきたと感じている。そのなかで今回のあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の展示の終了についての様々な意見は、今の環境を象徴しているように思えて苦しい。なぜこうなってきたのかとこれまでの人生を反省せざるを得ない。何も変わっていない。それどころか、やばい。


あいちトリエンナーレのような芸術祭もそうだが、このような国際展、アートプロジェクトは様々なジャンルを超えて、既存の価値観を超えて、新しい表現手法や意識、様々な角度からの思考法などと出会えるまたとないチャンスだと思っている。そしてそれは多くの人に開かれていて、さらに開こうと努力されて作られている。

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表現と出会う機会


特に若い頃、自分でも表現力を持ちたいと思っていて、新しい表現の手法を模索し、表現そのものに飢えていた頃、時間の隙間があるたびに、むしろ時間をこじあけて、新しい表現、強い表現と出会いたいと思い、数多くの寺社や仏閣、庭や美術館や画廊、ホール、様々な展示室などを巡りまわった。当時は何十年も前に評価された近代美術や保存されてきた工芸品、彫刻、絵画などがほとんどで、現代美術や新しい商品や舞台などほとんど見たことがなかった。社会人になり、現代美術や先端的な表現に出会おうと主要なギャラリーや国内外のアートセンターや現代美術館などをめぐるようになり、多くの時間を費やして、100に一つぐらい、心震える表現に出会い、それが喜びだった。展覧会場に100点ほどあったとしても、一つ心にひっかかれば儲け物だと思うようになった。そんな経験を重ねてきたものにとって、主催者がしっかりお金をかけ、様々な角度の専門家が知恵を絞ってつくってくれているこのような大型展はとてもありがたい。楽して妙なものにである確率がとても高い。当然つまらないと思うものも、今の自分の体力にあわないものも、精神状態には迷惑なものも多い。それでも、何か一つ、もう一つ、出会うことがあるとすればそれはかけがいのないことだと思っている。そして、多くの気づきや共感、もちろん反発、嫌悪もある。そのうえで、このような苦しい世の中だからこそ、苦悩を守り越えようと表現を試みている人たちのエネルギーを感じることが必要だと思う。何れにせよ、現代のさまざまな歪みのようなものが表現されている作品群と直面し、多くをイメージし、考える機会が失われたことに対してとても残念だと思う。この問題の背後で「本当に傷ついてきた人は誰なのか」をイメージすることが大切だと思う。

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今回の展覧会中止の圧力裏側にはいろいろな思惑がみえてくる。まさに自由が束縛された過去の事象が問題になっている作品の展覧会だったと思う。
ここにリンクされている記事はとてもわかりやすいので、必読。これもまた表現。圧力もまた表現。


※写真はこれまで撤去されたり、圧力をうけたり、非難されたり、リベンジしたりした僕の懐かしい作品 関係の方々、色々ご迷惑をおかけしました。


by fuji-studio | 2019-08-07 11:18 | ・思索雑感/ImageTrash