つくる時間を楽しむ。(再考3)
2012年 06月 03日
つくる時間は何かを期待する時間だと思う。少なくとも何かができるという希望に向かっている時間である。
希望が持てない時間にいるとすれば、とりあえず、なんでもいいから作業に没頭してみるのがいいと思う。そこには不思議な時間が発生する。
子どもの頃、喘息が苦しくなるとプラモデルをつくって苦しみから逃れる技術を学んだ。
とにかく、プラモデルをつくる時間が好きだった。箱に描かれたイメージを目指してバラバラの部品を組み立て始める。一旦組み立て始めると夢中で作っていた。
しかし出来上がってみるとイメージしていたものとはなんだか違う。こんなもんかな?と 箱に描かれた絵と見比べてみるが、なんだか違う。
プラモデル屋の店先に飾られたリアルな模型の数々に刺激を受けて、それなりに塗装し、汚し塗装も覚えて頑張った時期もある。その時が一番楽しかったかもしれない。
特別な材料や技術を手に入れ、なんでも作れるような錯覚を楽しんでいた。しかし、そのうち限りなく上の世界の技術と出会い、自分の限界を知りいつのまにか遠のいてしまった。
プラモデルを作りはじめた小学一年の頃、父親がまだ難しいだろうと横から手を出して作ってしまったことがある。この時ほどのショックはなかった。
完成したプラモデルをもらっても何の楽しみもない。楽しみのすべてをもぎ取られた感覚は今でも残っている。
住宅や家財道具、家庭生活全般にしても同じかもしれない。
本来生活のすべてを自分でつくることほど贅沢な時間はないとわかっているのに、すべての技術を身に着けているわけではないので、専門家に頼んだ方が良質のものが揃うことを知ってしまっている。
しかもつくる時間なんてどこにもない。せいぜい仕事をして稼いだ給料で格安のモノをそろえて生活らしさをつくることで納得しようとする。あらゆる情報を追っかけるだけで日々の時間は過ぎてゆく。
父親や母親が子どもの為にとせっせと家庭らしさを購入して揃えていった時期もあったと思う。
揃えてゆく側は楽しいに違いないが、ただ押し付けられた子ども達はどうなのだろう。何が楽しいのかなにが有難いのかさえ分からなくなってしまっているのだと思う。一緒に生活をつくる時間をはたしてどれだけ楽しんでいるのだろうか。
まちについても同じことがいえるのかもしれない。
つくるプロセスにおいて、様々なコミュニケーションが発生する。それがとても貴重だということは理解していたはずだ。
素材や道具と向き合う深いコミュニケーション。自分の感覚や常識とその場とのコミュニケーション。そして一緒につくる人との様々な質のコミュニケーション。
つくる時間がもぎ取られているとすれば、それはコミュニケーションそのものがもぎ取られていることになる。
全国各地で様々な形で発生しているアートプロジェクトを、地域の中に「つくる」プロセスを発生させる新しいシステムとして注目してみてはどうだろうか。
決して完成することのない地域活動にふさわしく、様々なつくる時間を発生させるシステムとしてアートプロジェクトはある。
そこには多層でさまざまな質のコミュニケーションが生まれ、予期しなかった関係が発生する。そしてそこから様々な活動の連鎖が生まれてゆく…のではないかなぁ。
※写真はプラモデルをつくる写真と20年以上前に購入した中古のシンクに組み込んだカウンターテーブルのイ上の使用歴10年以上と5年以上のなじんだ醤油さし、そして全国初?制作中の総ぬいぐるみ断熱の壁。