小山田徹と高嶺格だけど・・本当はもっと多くの複雑な関係が・・・
2010年 08月 09日
小山田徹は以前もこのブログで紹介したことがあったが、とにかく二人での出来事を本にしたとすると数冊は必要なほど関わりが深く、彼が高校に入学してきた時から始まり・・・嵯峨野のアパート、上桂の一軒家と生活もともにしながら、クラブ活動での演劇部、バレーボール部と一緒にすごし紆余曲折・・・。
そんな時期に鹿児島で開催されていた高校生対象の美術系の実技講座の講師をしていた時期に学生として受講していたのが美術部の後輩の高嶺君。
彼が3年になった時、日本に帰国してから大学のバレーボール部のOBとして長野県での夏合宿に顔を出したり、金沢での四芸祭(4つの公立美術大学のクラブ活動の交流会のようなもの)に参加したりして後輩達と一緒にすごし、改めて高嶺の本領を知り始める。
実は小山田と高嶺の間に何人もの関係する後輩たちがいる。
出身高校は違うが、鹿児島の美術実技講習会で教えることで出会い、京都市立芸術大学に入った瞬間から無理やりバレー部、演劇部と入部させられ、活動に巻き込まれ、表には絶対立たないながらも創設当時からダムタイプと深く関わっているT君とか、高校美術部の後輩で演劇部には巻き込まれずにすんだものの、バレー部に巻き込まれてそのまま工芸の世界に入ったU君とか、同じ講習会経由で知り合い、京都の家で浪人生として過ごし、当時のプロジェクトをいろいろ手伝ってもらいつつ京都芸大に入学し、バレーボール部に入学した高嶺と同級生のKさんとか・・・いろいろな関係がそれぞれの活動の連鎖を生み出し、それぞれにとって大切な生活を構築してきた。
鹿児島出身ではないにしろ、当時バレーボール部と演劇と掛け持ちしていたメンバーはぼくの同世代で4~5名したし、後輩たちになるといろいろな時期の違いはあるが10名ぐらいはいたのかなぁ。
京都情報社というシクミがメンバーを固定していない緩やかなつながりで成立させていた活動だったので、演劇部とかバレー部とか染織科とかの枠組みとは関係なく、それぞれが、それぞれの手法で人の繋がりに頼りながら、とにかくいろいろな活動を加速していた感じがある。
個人的にはバレー部・演劇部を引退してからも、漫画研究会や軽音楽部に関わってバンドのようなことをしていたり、漫画をつくってみたり、自宅の2階に茶室をつくり、軽茶倶楽部(カルチャクラブ)という学外の部活のようなものを作ったりしていたので、活動の巾はより複雑になっていた。
当時できたばかりの京都駅新幹線口の商業施設での何度か行ったゴジラ系パフォーマンスとかにも、バレー部に入部してしまった伊達伸明とかヤノベケンジとかがいきなり手伝わされてしまったり、当時はバレー部でしか接点がなかった藤本隆行とか江村耕一とかは、結局数年経ってからそれぞれの卒業後の経験を活かしてダムタイプのメンバーとなったり、キュピキュピの活動を立ち上げたりとなんだか戻ってきた感じがしていた。
京都情報社で中心的存在だった中島隆章の活動の連鎖から発生したようにも見える石橋義正が作った映画「狂わせたいの」ができた当時、バレー部をはじめとして昔の知り合いがたくさん関わっているのでのけぞってしまったこともある。
ひとつは誰と話すかによって語るべき内容が変化してゆくということ。
活動が連鎖してゆく段階で情報の中では無名だけど、実はとても要な人が横にいたということ。
活動が加速する状況には横で無条件に面白がってくれている視線と、厳しく批判しもっと大切な活動へと導く視線が並列しているということ。
大きなビジョンとか価値観とか、どうあるべきか・・・とか重要なコンセプトだとか、権威だとか・・・とにかく勝手な振る舞いを抑制しようとする重石をかわせる状況にあること。
それぞれが何かを引き受けた瞬間からかなり強い意志を持ってなんらかの形にしようとする態度を持ち、多くの時間と労力を費やすことに疑問を持たないこと。
僕の周辺にはそんな人が多かったような気がするなぁ。