六本木クロッシングとダムタイプ。 ヒトとシクミと・・・
2010年 04月 04日
15年ぶりに彼らの姿に出会って涙が止まらず…いろいろな記憶や想いが駆け巡る・・・
1995年に古橋悌二君がHIV感染後の発病で亡くなった。
ちょうど地下鉄サリン事件がおこり、阪神淡路大震災がおこった年・・・もう15年経ったんだ・・・。
そのことは業界の一部の人にとっては重大な出来事だったが、その裏側で彼の死の一週間前に悌二と同じ病原体によって僕らの友人のまさみ君がアメリカで静かに息をひきとったことはあまり知られていない。
・・・・・・敵は突然、目の前に立ち現れる・・・・・・
いろいろな活動が発生し、連鎖する裏側には必ずキーとなる重要人物が存在する。
しかし、多くの重要な人については語られることがなく、・・・少しズレていても・・・声の大きな人や雄弁に語り、言葉にしやすい人のことだけが記録され流通するという事実・・・。
僕らがいた80年代の京都市立芸術大学から異端な表現者が多く発生している背景として、まさみ君の存在が重要だった・・・と、僕は確信している。
もちろん、彼ひとりの力ではない。多くのキャラクターが複雑にネットワーク状に関係していたのも事実・・・。
まさみの影響を第一期とすれば、その連鎖の悌二の影響を第二期、その周辺の影響を第三期と捉えている。(・・・もちろんそんなに単純に分けられるものでもないが・・・)
そして、不思議なことに、その感覚は世代を超えて一部の若い作家にも浸透していると感じることがある。
彼は作家として作品を残しているわけでもなく、(僕の自宅には彼の写真作品を大切に飾っているが・・)作家としての活動経験を持っているわけでもない。
だからこそ・・・何にもとらわれず、自由な立場で振る舞い、人が積み上げてきたものをいとも簡単に否定し、打ち崩し・・・自分の中に発生する違和感に向き合う感性は当時そこに関係していた人・・・当時彼が在籍した構想設計の映像設計(写真や映像の専攻)の中でも劇団の中でも・・・多くの人に、じわっと染み入る影響を与えていたと思う。
そして彼は多くの人に愛されていた。(僕にとっては憎めない天敵のような存在だったが・・・)
大学卒業後、彼は一流商社のバイヤーとしてニューヨークで天性の仕事と出会い、活動するようになり・・・アメリカでの影響力を持つようになり・・・
S/Nの記録映像の中でまさみとの再開のことを語る悌二の姿が・・・何かを必死に超えようとして語りかける姿が・・・僕にとっては感動的に美しく、涙なしでは見られなかった・・・。しかし、美術史において彼のことが語られることはない。
ダムタイプのことを語り、悌二のことを語り、関西のアーティストのネットワークについて語られる機会があっても、誰もまさみについて語らない。そのことに対する違和感・・・それがひとつめのキーポイント。
僕が大学に入学し、クラスわけされ、たまたま近くに座っていたのが高校卒業したてのまさみ君。
それから彼に巻き込まれ、クラスの仲間と一緒にパフォーマンスのようなことをし始め・・・、大学の劇団に入団し、彼のわがままに振り回されて大学時代をすごし、何よりも僕自身が大きな影響を受けている。
演劇活動を手段としつつも、僕らは彼の感性を通して、それぞれのセクシャリティに向き合い、悩み、闘った。
社会通念や常識とされていることを疑い、自分達の活動をつくろうともがいた。(もがいているだけで、形になるものはつまらないものばかりだったが・・・)
・・・そして懸命に演じていた・・・
そんな最中、1981年、僕らが大学3年の時に入学してきたのが悌二とか小山田とかbubuとか・・・その後ダムタイプと名前を変えて活動を展開するメンバー。
悌二は当初劇団活動には消極的で、むしろ音楽のライブ活動で際立ったパフォーマンスを見せていた。一緒に音楽をやっていたメンバーが僕らの活動に引き込まれ関わるようになり・・・彼もズルズルと僕らの活動に引き込まれていった。
当時周りで流行っていた劇団の集団活動的ありかたに僕らは疑問を持っていて、新しい活動の方向性を模索する中・・・当時演劇界で注目されていた国際演劇祭「利賀フェスティバル」に出会い、夏合宿の名目で毎年通い始める。
そのことがキーポイントのふたつめ。
彼ら後輩達は利賀フェスで出会った海外のパフォーマンスに感銘をうけ、大きな影響を受けはじめていた。
僕らが4年の秋に劇団を引退し彼らに引渡し、僕は劇団とは別の、ゆるゆるのパフォーマンスユニット「京都情報社」をつくり活動をはじめ、街での活動へと志向していった。
そんな1983年8月・・・僕の同級生と後輩の学生を中心に事務局をつくり、京都市内の5箇所のギャラリーやライブハウス、商業ビル、そして商店街、鴨川を使ったいわゆるアートプロジェクト「ART NET WORK'83 さまざまな相互作用」というシクミを企画し、実施した。
僕がこいのぼり事件をおこしたのはその展覧会のオープニング当日。
そのオープニングレセプションの会場で、当時大学3年だった悌二君が友人とのユニット「古橋悌二ORG.」でパフォーマンスを行うことになった。パフォーマンスは人がくぐれるぐらいのフレームに仕掛けられたゴムに悌二自身がからまって・・・そこから逃れようとする姿を・・ライブ演奏の中で繰り返すというもの・・・
その姿が印象的でそのときの彼の表情がそのときのライブハウスの喧騒のイメージとともに僕の記憶に刻みこまれている。
彼は自分を取り込もうとする社会の常識やシステムに対抗し、そこから抜け出ようともがいているいように見えた。
劇団を解体し、ダムタイプシアター(のちのダムタイプ)が誕生するのは翌年のこと。
彼はその後の活動も一貫して自分自身を成立させている境界線をいじってきたのだと思っている。
ここで僕が話せるのは残念ながら彼の表現についてではない。
僕の興味は表現のシクミとそのフォーマットに向かってしまう・・・。
個人的な表現行為が社会的な活動として加速するにはその時々に魅力的な社会的なシクミが必要だということ・・・。
六本木クロッシングの関連ディスカッションでキュレイター達が話しているのを聞きながらも、90年以降の表現活動の周辺のシクミについて語られていないことに対して違和感を持った。
ダムタイプが活動を発生、連鎖、継続、展開してきた背景には80年代以降の国際演劇祭というフレームが大きく関与していると思っている。利賀村で知り合った人の連鎖が彼らを海外の国際演劇祭へと導いた。
今回の六本木クロッシングの出品作家を見渡してみると、90年以降に定着してきた表現活動にまつわる様々なシクミが見えてきて興味深い。
海外でのアーティストインレジデンス、ビエンナーレなどの国際展、地域系アートプロジェクト、オルタナティブスペースやライブハウスでの活動、インターネット上でのYouTubeやUstreamなどのシステム、国際演劇祭や映画・映像祭、そしてストリートカルチャー等様々なサブカルチャーの独自のネットワークシステム・・・
ギャラリー、美術館、アートマーケット、公募展というしくみと並列に、実は様々な表現活動のシクミが発生し、それらが地域社会に深く浸透し、更新されている事実。
そこについて深く語られることが・・・なぜだか少ない。
・・・・・
15年ぶりに語る悌二やbubuや後輩達の姿を見て、彼らの若さに涙し・・それらの活動がまさかこんな形で2010年の今に活きるとは・・・と、まさみをはじめ多くの人の連鎖がもたらす力を確信し、同時にそれを加速する表現のシクミの多層化への興味がふつふつと湧き出てきた・・・
六本木クロッシングはなんと7月4日まで展覧会が続きます。
その会場の最後の部屋にダムタイプのS/Nの記録映像が出品されています。
85分の長編ですが、是非時間をとって見てほしい映像です。
確か20時30分からの上映が確か最後の上映だったと思う・・・。
※80~82年頃のまさみや悌二の写真をランダムに掲載してみました。この画像に関しては無断転載などしないでね。
