新潟で部室ビルダーな人たちが集まってミーティング
新潟の水と土の芸術祭まであと一か月をきってしまった。

a0010575_9542599.jpg今回出品する作品(?)は部室ビルダー「かえるぐみ」という部室をつくるという概念とネットワーク。

システム型の新しい展開・・・のつもり。


a0010575_95514.jpg今回の水と土の芸術祭のメイン会場となる水産会館荷上げ場跡の一角の小さなスペースと、新潟の古町という中心市街地の商店街のど真ん中と、沼垂というお寺と市場の素敵な人の匂いのする古くからの街のエリアの3か所の空きスペースを部室として利用することになった。


a0010575_9554258.jpg全く違うタイプの3つの部室が新潟の水と土の芸術祭で展開しそう。

今のところ、「手部」「クリエイティ部」「カリ部」の3つが部活の拠点、部室として使う予定。


a0010575_9561483.jpg手部は水と土のメイン会場で芸術祭のサポーターを中心に、芸術祭に来るアーティストと楽しく過ごしつつ、手作業を重視した部活をやるのだとか。「クリエイティ部」は古町や新潟のまちなかの風景や人に関わり、なんだかすごいことをする部活なのだとか。


a0010575_9563785.jpgそして「カリ部」はカリブ海の海賊にあこがれる沼垂の海賊団を目指す部活をやるのだとか…。

そしてそこに前橋とか氷見とかいわきとか十和田とか(?) ほかの地域の様々な部活や部室の活動とのネットワークを作り…

どうなるんだろう・・・?
# by fuji-studio | 2012-06-17 23:39 | ■新潟での活動
コンピューターを使い始めた世代だからかなぁ…(再考…というわけでもないが…)
僕が普通に仕事にコンピューターを使い始めたのが1988年。マッキントッシュのIIFxというグラフィック系の仕事でつかえるマシンが会社に導入され…でもまだCADはコマンド入力でAutoCadを使っていたし、ワープロは専用のワープロマシンがあった時代。



おそらく、88年ぐらいから急激にデザイン事務所ではMacを導入しはじめていたが通信ネットワークはまだこれからというかんじで、当時名刺にe-mail アドレスを入れてみたが、ほとんどの人が「何それ?」という感じで無視された記憶がある。

僕自身コンピューターの知識があるわけではなく、仕事でとにかく使わなければならないという事情から、使い始めた訳だが、いろいろな考え方が新鮮で、当時の、あるいはその後の僕自身の考え方に大きな影響を与えてしまった。

そのひとつがOSというありかた
いろいろなアプリケーションを起動させるための基本システム。オペレーションシステム。

ちょうど当時まちづくりとか地域計画のコンサルタント等を行う、都市計画事務所に勤めていて、地域に主体的な活動を作るデザインのようなことを考えていた頃、このOSという概念がぴったりときた。 

a0010575_22401584.jpg当時行政はハードとソフトという言い方をしていて、いわゆる箱モノ行政といわれるハード整備事業に対する批判が出てきて、世間ではソフト事業だと言い出して行政がイベントなどのプログラムに着手し始め、「いや、そうじゃないでしょ。OSを作らなければならないのであって、アプリケーション作っちゃいけないでしょ!ソフト事業は民間がいろいろ提案できるような基本システムを作らなけばならないのに…」と独り言のような突っ込みをいれていたが、当時はささやきにもならなかったし、ほぼ無視された。

それを美術の業界に持ち込んで、OS的なという言い方をしていたが…モノやコトをつくるだけではなくて、シクミを作ることで空間が成立するということに対して興味を持ち始め、その具体的な例をつくろうとしていた時期もある。その感覚や概念はOSが発明された以前にはなかった概念だと思っていたので、とにかく新鮮だった。

a0010575_22401124.png地域でのアートプロジェクトはまさに地域の多種多様多層なプログラムを起動するためのOS的なものだと考えるとわかりやすいと思う。決して汎用性のあるOSではなく、地域独自のOSだと思うが、重要な点は更新されてゆくというところにある。コンピューターのOSの寿命はせいぜい5年ぐらいだと思うが、地域のアートプロジェクトのOSも更新してゆかなければならない質のものだと思っていた方がいい。

そして、レイヤー(層)という概念。

CADを使い始めたときに出会ったこの概念には相当助けられている。 地域を考えるとき、いや、物事全般のあり方を考えるとき、このレイヤーの感覚を持っているのとそうでないのでは相当変わってくる。

先にちらりと言葉でつかってみたが、まさに多種、多様、そして多層な視点でとらえ、それに時間軸を加える感覚が必要なのだと思う。

先日書いた拠点と仕組みの話でも、平面的な感覚で考えていたら、それが見せるための拠点なのか、つくるための拠点なのかと二者択一の話になりがちだが、実は多層な視点を持ち込むことでそれは同居できることになる。 つくる施設なのか、見せる施設なのかは平面上のどちらがいいのかという問題ではなく、層の全く違う問題なので、それぞれの層を考える必要があると捉えることができる。

そしてアンカーポイント

アンカーポイントはイラストレータというアプリケーションを使い始めた1989年に出会った概念。イラストレータというソフトを使ったことのある人なら知っていると思うが、いわゆる曲線を描くときに曲線の変わり目となるところを指定するポイントのことで、画面上にアンカーポイントを打ち、そこに次のポイントへのベクトルを指定することで、曲線を描く。

a0010575_22411491.jpgそれまでは曲線を描くときは座標上で連続する点を集合させることで曲線に見えるようにつくるデータであったのに対し、このアンカーポイントによる曲線(ベジェ曲線というらしい)は曲線の曲がりどころにポイントを打ち、次に向かうベクトルの属性を与えることで曲線を描くという画期的な考え方だった。コンピューターのシステムのことなんかさっぱりわからなかったが、とにかくこの曲線の描き方には感動した。

当時「アンカーポイントの旅」という詩のような文章を書き、1992年の大阪での展覧会には空間一部屋使ってそのタイトルのインスタレーション作品を展示したほどの入れ込みよう…

一番何に感動したのかというと、…アンカーポイントで描く曲線を…自分の活動の紆余曲折に例えるわけだが…、現在打つアンカーポイントのベクトルの方向と強さによって、過去からここまで来ている曲線の表情が変わるという点だった。ひとつ前に打たれたアンカーポイントには座標とベクトルが与えられているわけだが、座標は変わらないのだけれども、曲線の表情は変わる。

つまり、このアンカーポイントの打ち方次第で過去の意味が変わるという点に気付き感動した。

人は生まれてから死ぬまで、時間軸をひたすら進むとすれば、後戻りできない一本の曲線を描いているようだと感じ、何かどこかの場所で何らかの表現をするということはアンカーポイントを打ち、次のベクトルを表明することなんじゃないかと思った。強い意志のときは強いベクトルだし、自信のないときは弱いベクトル…しかし、ポイントを打たなければならない節目がその時々にあり、それをどこに打つかでどのような曲線が描けるかが変わる。似たような場所に弱いポイントをたくさん打つような時もあれば、突然とんでもないところに全く違う方向性と強い意志でありえないポイントを打つことだってできる。



次に打つポイントの座標とベクトルで将来の曲線が変わってゆくということはイメージしやすいが、実は次に打つポイントの座標とベクトルで過去、つまりひとつ前に打った座標からの曲線の表情が変わるという現象は、過去は変えれないことが当たり前だと思っていた考えを覆し新鮮だった。

過去の活動の事実は変わらないとしても、その意味変わる・・・過去に行った行動の意味は現在に行っている行動によって変わる…という事実を教えてくれた。

このアンカーポイントを打つという感覚はプレゼンテーションの作り方にも活かされている。僕はアンカーポイントの終着点を設定しないやり方…つまり目標とか到達点とかいわゆる「こうありたい」とかのビジョンのようなものをなるべくつくらず、活動の連鎖を重視しているので、最終的なイメージを求められることの多いプレゼンテーションでは説得力を失うことが多い。それに対して…おそらくこれは僕のオリジナルのプレゼンテーションの作り方だと思うが…過去と現在までの状況を説明したうえで、次のポイントの座標とベクトルを明確に、しかも説得力だけを盛り込んでつくることにしている。・・・とはいえ、最近はプレゼンテーション資料すら作ったことがないが…。

とにかく、OS,レイヤー、アンカーポイント…ずべて89年ごろ心に響き、影響をうけ、その後もずっとある意味更新されていない概念。

しかし、当時は通じなくて苦労した感覚だが、さすがにそれから四半世紀が過ぎて、これらの感覚が当たり前の世代が地域での活動を動かしている。そのあたりの感覚が前提になっているのはうれしい。

でも、そろそろ更新したほうがいいのかなぁ…。 今の30歳ぐらいの人は何に影響を受けて活動しているのかな…

なんだか最近、古い話ばかりですみません。

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秋葉原のアーツちよだ3331の設営3日目

ストラクチャル・アート?
# by fuji-studio | 2012-06-07 00:10 | ・思索雑感/ImageTrash
そういえば藤浩志企画制作室20周年記念日だった
6月6日はかえるの日だってことを知ったのは2000年ぐらいに福岡で「福岡かえる展」というかえる好きが集まった展覧会に出品することにいなった時に教えてもらい初めて知り、偶然の一致に驚いたことがある。

a0010575_9291376.jpg6月6日というと、このブログタイトルにもなっている藤浩志企画制作室という個人事務所の設立記念日。

実は、1992年に青山スパイラルガーデンでの当時にしては大規模な個展が6月に決まり、当時勤めていた都市計画事務所を辞めることにして、何か事務所名が必要かなと考えて、なんとなくつけた名称が「藤浩志企画制作室」

個人事務所を語ると設立はいつですか?と聞かれることが多くなり、実はしばらくしてから設立日を設定しようということになり、なんとなく6月6日に雨ザーザー降ってきての絵描き歌が好きだったので6月6日とすることにした。その日がまさか全国的にかえるの日として認定されているとは…。

その時制作していたのが当時一か月分の給料すべてで購入した一トンのお米が古くなり、それで2048匹のお米のカエル(かえるの形のおにぎり)を作っていたころ。2048匹のお米のかえるを作るためにサラリーマンをやめて、藤浩志企画制作室をつくったわけだから、その設立の日が「かえるの日」という運命に驚いた。


a0010575_9301177.jpgそしてなんとついに20周年。さらになんと…いまだにかえるを引きずっていて、この7月15日からはじまる展覧会のタイトルが「セントラルかえるステーション」どこまでもかえるから逃れられない。(展覧会は9月9日まで・・・あ、9月9日は息子の誕生日だ!)

十和田に来てみるとなんと十和田市では昔、全国かえるジャンぴょん大会なるものを行っていたとかで、街のあちこちにかえるがいる。かえるはずっと追っかけてくる。

それにしても・・・藤浩志企画制作室という名称をつけたことで、こんなことになったんだなと思う。企画室だったら、もっとちゃんとした企画事務所になっていたかもしれないし、ちゃんと流通を目指していたかも。


a0010575_931633.jpgあるいは制作室だけだったら、現場をまわることなく、いろいろ作品を制作するスタンスで結構売れる作家になっていたりして…。

もともと制作する時間を過ごすのがたまらなくいい。しかし何を制作するのかが自分の中から湧き出てくるタイプではなかったので、それを企画するのが重要だと思っていた。企画が決まれば制作に没頭できる時間ができる。本当は制作に没頭する時間を企画したかったのかもしれないが…いろいろな現場を回るうちにいろいろと考えてしまうので、OS的とか地域の主体性とか水の役割とか・・・結果として、もろもろの状況を作ることになってきた。

実はこの企画制作室というのを数年前から離れようとしていた。そもそも、この名称の裏側には藤浩志という自分自身を企画して制作するという意思を名前にしたもの。しかし、最近、その意思が色あせてきた。

もっと流れの中にあっていいと思うようになったからかな・・・。というか、自分自身の抱える素材が膨大になり、制作するべきものが膨大になり、もっと自分とか作品そのものに向かい合う時間がほしくなったのだと思う。

コアとしての自分をひたすらオープンにするためにはそのフレームすらもう必要なくなったのかも。

とにかく、藤浩志企画制作室20年、おめでとう。 しかし、そろそろ僕自身も「かえる」時かな・・・。
# by fuji-studio | 2012-06-06 06:06 | ・思索雑感/ImageTrash
仕組みが先か拠点が先か。それは問題ではなく、その在り方について(再考6)
地域の活動を作ってゆく上で、活動を作り出すための仕組みとして、アートプロジェクトというフォーマットがとても有効に利用できるのではないかと考えている。仕組みをつくることで、地域資源としての様々な場を使い、いろいろな表現が展開することで、そこから活動の連鎖を促すことができる。

a0010575_21174622.jpg仕組みがなければただの空き地だったり空き家だったりで、そこにまさに様々なアプリケーションが起動するかのようなOS的な仕組みを組み込むことで、場は活きはじめる。 

一方で仕組みをつくる為には様々な人とのつながりが必要だし、活動を作りたい人を集めるための場…つまり拠点が必要だという考え方もある。とくにまちをどうこうしようというのではなく、とにかく場を設けることでそこが吸引力となって面白い人たちが集まってくる。集まることで何かそこから活動が滲み出てきて、結果的に地域の活動の仕組みができてしまう。

仕組みと拠点の問題は鶏が先か卵が先かの問題で、地域のプロジェクトの現場では必ず論議される時期の来る問題だと思う。実はどちらが先かなんてことはあまり重要ではないじゃないような気がする。実はたぶん、何らかの形で成長する段階でどちらもが必要になってくるのだろう。問題はその在り方だと思う。

a0010575_21181514.jpg拠点をもたない仕組みの場合、不必要に集まるところや集まる時間がないがゆえに、目的志向の会議、目的志向のイベントになりがちで、不必要な、無駄な要素が排除されがちになる。目的に合致した要素を集めることができても、目的以外の要素は集まりにくい。場を持たないメリットももちろんある。 場所の運営費用に束縛されないという面はとても大きく、予算を活動そのものにかけることができる。束縛されるものが少ないので、プロジェクト事態に色が付きにくいこともあり、変幻自在に変化してゆける可能性を持っている。また逆に自由であるがゆえにプロジェクトの継続性を保ちにくい面もある。

a0010575_730363.jpg一方拠点を持ちつつ運営する場合、いつでも常時予期せぬ誰かと出会う可能性が出てくる。その場の持つ空気感のようなものが人をひきつけ、こちらから声をかけなくても、場そのものが魅力的だった場合、そこに人が集まってくる。エネルギーを持つ人が集まるとそこから自然と活動は湧き出てくる。一方で家賃、光熱・通信費、その場を運営するための人件費などの問題も発生する。場を運営してゆくために活動を作らなければならないという束縛をうけることになりがちで、場の方向性に自然と色や傾向がつくことが多い。

この仕組みと拠点が成長してゆく段階でぶつかる問題…。それはそこで展開される表現の完成度や強度に対する意識との葛藤のようなものかな…。

ここで再認識する必要があるのは、「活動をつくる」ための仕組みであったり拠点であったはずだということ。しかし当たり前のように「しっかり見せる活動」も必要となってくる。

ここで再認識しなければならないことは、「完成された活動を見せる」ための仕組みや拠点とは根本的に異なる性格のものだということ。つまりそこに過去における美術館やギャラリーのシステム、あるいは劇場等のシステムや国際芸術祭などのシステムとは異なり、あくまでも「つくること」にベクトルがあるかどうかによる。ということじゃないかなと思う。

自分自身の活動を振り返り、「つくるための拠点」づくりと「つくるための仕組み」づくりにどれだけの時間とお金を費やしてきたかを考えるとぞっとする。そしてその運営のためにもろもろの右往左往を余儀なくされてきた。

僕自身の性質として、完成されたものを楽しむ時間よりも、つくるというプロセスにいる時間が好きなだけなんだと思う。もちろん完成されたものを楽しむ時間も楽しいし、生活の中には必要だと思う。しかし、つくる時間にいる面白さを捨てることはできない。だって誰かが作らなければ、次の時代の完成品はできないんだものね。

仕組みと拠点が車の両輪のように必要だとして、その縦軸に「つくる」ところと「みる」ところはやはり両輪のように必要なのだと思う。その限りなく「つくる」ところに近い現場にもっとも興味があるということだと思う。
# by fuji-studio | 2012-06-06 01:01 | ・思索雑感/ImageTrash
イメージはどこから来るのか。(再考5)
「自分の内側からイメージが湧き出てくる…。」

美術大学で美術を勉強していた頃、イメージというのはアーティストの内側から湧き出てくるものだとばかり思っていたし、そのように教えられているような気がしていた。(誰に教えられたのかさっぱりわからないが…)

確かに周りには自分の内側からイメージが湧き出てくる人もたくさんいて羨ましかった。

a0010575_23131486.jpgしかし、僕の場合、どうも自分の内側を覗き込んでみても何かを吐き出そうとしても、たいしたものはなく、自分の中には何もないということを思い知った。

自分の中から出てくるイメージはせいぜいアニメや漫画で植えつけられたイメージと、どこかで見たことのある教科書やメディアからの知識と、あまり思い出したくないような数々の体験の記憶と…。

とにかく自分の内側から湧き出てくるイメージなんてろくなものではないとあきらめた時から、意外な形でイメージが湧き出てくることに気付いた。

人との対話の中からイメージは湧き出て来る。場所との、素材との、様々な対話の中からイメージは湧き出て来る。

作家は自分の中からイメージを作り出すものだという教訓のようなものを無視して、むしろ作家なんかにならなくてもいいと思った頃から、興味深く実現したいと思えるイメージが後輩や友人との会話の中から湧き出てきた。

やりたいことがあったわけではなかった。「何かがやりたい。」という思いは強かった。自分自身をエネルギーの巨大なゴジラに例えるぐらい、単に動きたかった。動ければなんでもよかったんだと思う。

たまたま演劇をやりたいと思っていた友人が横に座っていたので、演劇をやりはじめたし、なにか面白いことをやりたいと思っていた後輩がいたから面白いことをやろうと思った。

劇団の仲間や後輩と嫌になるほどの対話を重ね、演劇空間に対しての対話をはじめ、その挙句に京都のまちとの対話の中で活動をつくってゆく面白さに出会い、右往左往して、パプアニューギニアの奥地で社会学者のフィールドワークという手法と出会う。

a0010575_23142781.jpg日本に帰り土地再開発業者・都市計画事務所での修行を経て紆余曲折の後…

地域のリサーチから始め、地域に対話の場をつくり、そこから出てきたイメージを地域実験として活動を立ち上げるという手法を導き出してみた。

ある時、イメージが立ち上がる前の状態があることに気づき、その状態を「モヤモヤ」と名付けてみた。

モヤモヤはイメージを作り出す種だとあらゆるところで話はじめると、そのモヤモヤという言葉が一部ではやり始めた。モヤモヤは個人の中にも、家庭や企業の中にも、地域社会の中にもいろいろな形であり、共感する人が多かったのだと思う。

モヤモヤはどこから来るのか。それは日常の対話の中で抱く違和感やズレのようなものから発生するのではないかと考えるようになった。多くの場合無視するように心がけている違和感やズレ。それが実はイメージを発生させる大切な種なのではないか。

あらゆる種類の対話の中でふと抱く違和感。それを無視することなく、それに向き合い、これを語ろうとする、なんらかの具体的な、具現化された形にしようとする。そこから実はイメージが発生するのじゃないかな…と思っている。

個人の違和感、地域の違和感をしっかり、なんらかのイメージとしてしっかり形にできるとすればそれはどのような手法がいいのか。それは様々な手段で表現しながら考える…というのがいいと思う。



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イメージはどこから発生し、どこにゆくのか?

3331での311のモヤモヤ会議
# by fuji-studio | 2012-06-05 23:15 | ・思索雑感/ImageTrash
地域で表現することとその仕組み。(再考4)
表現することって自分自身の日常の行為を超えることなんじゃないかなと考えている。

どちらかというと流されてしまっている日常の違和感をはたと立ち止まり疑問視して、客観視し、それを何らかの形として表に現す。

a0010575_23541638.jpgそれはどんな手法でもいいと思うが、それぞれに得意とする、あるいはフェチとする手法があるのだと思う。言葉を使うだとか、楽器をつかうだとか、行動で現すだとか、描いてみるとか・・・、しかし、その手法すらも、自分自身で決めてしまい固定されてしまっていたり、不自由になっていたりして、経験を重ねればそれだけなお、自分自身を超えるハードルが高くなる。

まったく絵を描いたことのない人が絵筆を持ち、自分の感情を画面にぶつける経験ができたとしたら、その人にとってそれは大きな表現だと思うが、描き始めた絵を毎日のように描き重ねるうちにそれが日常化してしまう。その状態に違和感を抱き、そこに向き合い、自分の感情を超えることができかどうか。それがつぎの表現となる。

その意味では表現はつねに相対的な行動の中にあり、連鎖を促す特質のものだと思う。最初から強度のある表現はできないが、表現を重ねることでとんでもないところまで行く場合もある。

それはおいといて、いま、ここでは注目すべきことは表現することで周りとの関係が変わるということだと思う。 関係が変わるということは存在の仕方…あり方そのものが変わるということ…

a0010575_23545524.jpg日常料理をしたことのない人が料理という手段を使って表現をしはじめるとする。今まで興味もなかった食材、あるいは調理器具、台所との関係が変わってくる。これまでは縁のなかったスーパーの野菜売り場や市場やあるいは畑までもが関係のある重要な場として輝き始める。

しかしそのうち料理は日常の行為になる。最初は自分の食事しか作らなかった人が周りの人の分まで作るようになるとすれば、それはまた表現だと思う。同居人や家族はありがたがるか迷惑がるかわからないが、年齢や嗜好や健康を考え食材や調味料を選ぶようになり、一緒に食べるという時間をつくることになる。さらに表現が深まり、10人分作りはじめたとしたら、ホームパーティを開催することになったり、料理のデリバリィをしはじめたり…関係はさらにとんでもない方向へと広がってゆく。

日常の行為をふと客観視し、日常を超えることで表現は始まり、それは次の表現への連鎖へと導く。

いつもの通勤路をほんの少し早起きして少しだけ遠回りして歩いてみる。それが日常化したら、今度はもっと拡大してみる。降りる駅を変えてみる。あるいは自転車で通ってみる。地図をつくりはじめる。写真をとってサイトにアップしてみる…。些細なことから表現ははじまり、それは日常の関係に変化をもたらす。そして、どこまでも連鎖を促す特質を持っている。

地域の中で様々な表現を展開するのはどうだろう。

表現することは何も絵を描いたり音楽を奏でたりすることだけではない。

地域の中で当たり前になってしまっている日常をふと見つめ直し、違和感に向き合い、日常を超える表現を試みることで地域の中の様々な関係が変わり、表現の連鎖がはじまる。

地域に日常には様々な地域素材があり、活きているものもあれば、眠っているもの、まだ誰もその価値に気付いていないもの、発芽する前の状態のもの様々にある。

地域素材にはいろいろな種類のものがある。産品と呼ばれる生産物素材。生産物に付随する様々な技術素材、あるいはそこから排出される廃棄物素材。もしくは歴史的遺跡や近代遺産、あるいは空き店舗、空き家、廃墟、個人的な思い入れのある様々な建造物素材。公園や河川、海岸、山林、鎮守の森、空地などの空間素材。歴史や伝説、言い伝え、風習も含む物語素材。そして様々な人材等々…。

それらが表現しはじめたらどうなるだろう。これまで関係のなかったものが様々に繋がり始め、些細な活動は活動へと連鎖をはじめる。

(それらのものと自分自身との関係が深まるということは、自分自身の在り方、存在の仕方そのものが変わってくるということをも意味する。)

様々な実験的な表現を展開できるかなり自由度の高い仕組みとしてアートプロジェクトというフォーマットはあると考えている。

・・・と書いてみたが、その一方で…表現なんかしなくていいんじゃないか、そのままでいいんじゃないかという意見も聞こえてくる。…まさにその通り。表現なんかしなくてもいい。 しかしせざるを得ない性質の場合、仕方ないんだと思う。…それと、関係を変えたいと思っている場合とか…このままではいけないと思っている場合とか…

まあ、仕方ないんだろうね。

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日常的な行為と表現行為との違い。
# by fuji-studio | 2012-06-04 23:59 | ・思索雑感/ImageTrash
つくる時間を楽しむ。(再考3)
つくる時間を楽しむ。つくっている時間が楽しい。つくっている時、何かの作業に没頭している時間がとてもいい。当たり前の話だが、完成してしまうとその楽しい時間はその余韻を残して終わってしまう。

a0010575_21102536.jpgつくる時間は何かを期待する時間だと思う。少なくとも何かができるという希望に向かっている時間である。

希望が持てない時間にいるとすれば、とりあえず、なんでもいいから作業に没頭してみるのがいいと思う。そこには不思議な時間が発生する。

子どもの頃、喘息が苦しくなるとプラモデルをつくって苦しみから逃れる技術を学んだ。

とにかく、プラモデルをつくる時間が好きだった。箱に描かれたイメージを目指してバラバラの部品を組み立て始める。一旦組み立て始めると夢中で作っていた。

しかし出来上がってみるとイメージしていたものとはなんだか違う。こんなもんかな?と 箱に描かれた絵と見比べてみるが、なんだか違う。


a0010575_211124.jpgプラモデル屋の店先に飾られたリアルな模型の数々に刺激を受けて、それなりに塗装し、汚し塗装も覚えて頑張った時期もある。その時が一番楽しかったかもしれない。

特別な材料や技術を手に入れ、なんでも作れるような錯覚を楽しんでいた。しかし、そのうち限りなく上の世界の技術と出会い、自分の限界を知りいつのまにか遠のいてしまった。

プラモデルを作りはじめた小学一年の頃、父親がまだ難しいだろうと横から手を出して作ってしまったことがある。この時ほどのショックはなかった。

完成したプラモデルをもらっても何の楽しみもない。楽しみのすべてをもぎ取られた感覚は今でも残っている。


a0010575_2112684.jpg住宅や家財道具、家庭生活全般にしても同じかもしれない。

本来生活のすべてを自分でつくることほど贅沢な時間はないとわかっているのに、すべての技術を身に着けているわけではないので、専門家に頼んだ方が良質のものが揃うことを知ってしまっている。

しかもつくる時間なんてどこにもない。せいぜい仕事をして稼いだ給料で格安のモノをそろえて生活らしさをつくることで納得しようとする。あらゆる情報を追っかけるだけで日々の時間は過ぎてゆく。


a0010575_2117395.jpg父親や母親が子どもの為にとせっせと家庭らしさを購入して揃えていった時期もあったと思う。

揃えてゆく側は楽しいに違いないが、ただ押し付けられた子ども達はどうなのだろう。何が楽しいのかなにが有難いのかさえ分からなくなってしまっているのだと思う。一緒に生活をつくる時間をはたしてどれだけ楽しんでいるのだろうか。

まちについても同じことがいえるのかもしれない。


a0010575_21174593.jpgつくるプロセスにおいて、様々なコミュニケーションが発生する。それがとても貴重だということは理解していたはずだ。

素材や道具と向き合う深いコミュニケーション。自分の感覚や常識とその場とのコミュニケーション。そして一緒につくる人との様々な質のコミュニケーション。

つくる時間がもぎ取られているとすれば、それはコミュニケーションそのものがもぎ取られていることになる。

全国各地で様々な形で発生しているアートプロジェクトを、地域の中に「つくる」プロセスを発生させる新しいシステムとして注目してみてはどうだろうか。

決して完成することのない地域活動にふさわしく、様々なつくる時間を発生させるシステムとしてアートプロジェクトはある。

そこには多層でさまざまな質のコミュニケーションが生まれ、予期しなかった関係が発生する。そしてそこから様々な活動の連鎖が生まれてゆく…のではないかなぁ。


※写真はプラモデルをつくる写真と20年以上前に購入した中古のシンクに組み込んだカウンターテーブルのイ上の使用歴10年以上と5年以上のなじんだ醤油さし、そして全国初?制作中の総ぬいぐるみ断熱の壁。
# by fuji-studio | 2012-06-03 21:18 | ・思索雑感/ImageTrash
アサヒアートフェス10年のアーカイブのためのいわき湯本での合宿
アサヒアートフェスティバルが10年経過し、その10年をまとめようということで、かれこれ1年前ぐらいからぼちぼち動き始めている。去年は10周年の本をどのようにつくるかという編集をスクール形式でおこなったが、その流れで、アーカイブはウェブ上で行ったほうがいいという話と、ちゃんとつかえるようなアーカイブや本の話を重ねてきた。

a0010575_9434294.jpgで、今年はウェブでのデジタルアーカイブについて専門家を招いて勉強会をしつつ、実際のアーカイブの制作に向かうというもの。

今回の合宿では今年参加の多い福島県のいわきの湯本の温泉ホテルで合宿し、実際に入力する「入力祭り」つき。入力していたのはわずか数時間で、あとはいろいろないわきの現場を見て回るツアー。


a0010575_9442220.jpg大型観光バスの運転手はいろいろ狭いとことを走らなければならないので不機嫌だったが、なかなか興味深いところを巡る。

その中で特に小名浜のUDOKというスペース。これはまさに僕が探していた部室を実践しているところ。


a0010575_945341.jpg晴耕雨読からネーミングをとっているが、晴耕を昼間の仕事の部分とすれば、雨読は仕事していないときのこと。それを場の名称であり、コンセプトとして、小名浜の街中にまさにまちに開かれた部室のようなあり方で存在していた。


a0010575_9453282.jpgメンバーを部員と呼んでいて、部費をちゃんと集めているあたりもまさに部活動。しかし、活動はそれぞれ様々で余計なものや余計な価値観に縛られていないところがいい。

しかもこのUDOKの中心メンバーはなぜだか新潟と縁が深い。

面白くなりそうですね。この部室活動。
# by fuji-studio | 2012-06-03 14:09 | ■福島・いわきでの活動
地域活動での土、風、光、水の性質について(再考2)
数年前、とある地域でのシンポジウム会場で「土の人」と「風の人」の話題になり、違和感を持ちながら聞いたことがある。いろいろな地域で活動を行おうとすると、外から来る人に対して「どうせすぐいなくなるのだから何も期待していない」と拒絶する態度と出会うこともある。その会場では地元の人を「土の人」と呼び、外から来たアーティストを「風の人」と呼んでいたのだけれど…。確かにそういう面もあるが、そう単純なものでもないと思う…。

土・風・光・水・4種類の性質

a0010575_8384010.jpg人にはいろいろな性質(たち)がある。何か面白い種を見つけると、自分で所有して育てたがる性質。何かに使えるんじゃないかと思い様々なところに運び何かに役立てようとする性質。その素晴らしさを広く多くの人に伝えたがる性質。自分の楽しみとしてその存在そのものを面白がる性質。人はそれぞれ複雑にいろいろな性格を持っているので、単純に分類はできない。しかし、それぞれ接し方に性質の違いがあり、自分自身がどういう性質なのかについてはその複合度合も含めて自覚してもいいような気がしている。

それを仮に種が発芽し成長するために必要な4つの要素に例えてみる。

土の性質 自分のフィールドで育てたがる
風の性質 いろいろなところに運びたがる
光の性質 いろいろな人に紹介したがる
水の性質 とにかく興味関心を注ぎ面白がる

地元で地域のことを憂い考え、何かしなければならないと考えている人の多くは土の性質が色濃くあると思う。しかし地域の歴史も含めた様々な地域遺産に光をあて、地道に研究、発表している光の性質の人も地域には数多くいる。

地域の内側からは見えにくいかもしれないけれど、地域の特性や面白いものをちゃんとほかの地域で語り広げようと外で活動している風の存在も忘れてはならない。そして最も注目したいのはいろいろな興味深い活動に必ず登場し楽しんでくれる水の存在だと考えている。

土の豊醸化

a0010575_8392347.jpg土の性質の人は土地に根差している人が多いものの、意外と外からやってきたり、あるいは一度外に出て帰ってきた人も多い。その土壌の質について客観的に捉える視点を持っていて、愛着を感じつつ、そこで活動を育てようとする。

問題はその地域の土の質なのかなと思う。肥沃で豊饒な土地であれば問題はないが、荒れ果てていたり、傷だらけだったり、病んでいたり、枯れていたり、薬漬けにされていたりする場合もある。「文化なんて無縁の不毛の地だ!」と自嘲する声も聞こえるが、実は地域の豊醸化(ほうじょうか)は小さなきっかけから動き出す。

地域でなんらかの表現行為を行うことは、苗を植える行為に近いんじゃないかと考えてきた。

仮に開花しなくても、実が収穫できなくても、その苗は枯れて土に戻り、養分になり、つぎの苗の開花に繋がる。そのように考えると無駄な表現行為は一切ないんだと思えてくる。どんな些細なつまらない表現行為でもなんらかの養分として、その土地の経験として蓄積されるのだと考えれば、なんだってやってみたほうがいい。

まったく閉じた環境にある場合でも、土が熱を発することで上昇気流が起こる。突然、なんらかの要因でその地域に光があてられはじまる場合もある。あるいはその地域で何か事件がおこり、ヒートアップする場合もある。もしくは地域で誰かが動きだし、何かが始まり発酵し、それが地域の熱になることもある。

とにかく土が熱を帯びはじめると上昇気流が生じ、風が吹く。その風に乗り様々な人、モノ、情報等が流れ込んでくる。たまには新しい種を運んでくる。あるいは風は雨雲を運び、地域に水を注ぐ。適正な水と適正な光があり、土に十分な養分がある場合、種は発芽し、成長し、開花し、実る。もちろん開花しなくてもその繰り返しののちに地域は豊饒化に向かい、いずれ花は咲く。

そもそも種は地域に多種多様に眠っていると考える方が自然なのかもしれない。何らかの要因で、土の中に深く眠っていたり、光の当たらないところでじっと発芽を待っている。それが外的要因で、外からの種の為に耕され、光があたることで地域の環境が変わり、眠っていた種が地域の中から様々に発芽する。

水の存在の特性と重要性

a0010575_840126.jpgこの豊醸化のプロセスにおいて、あるいは種の発芽・成長においても、水の存在がとても重要であることは分かっているものの、地域における水の存在についてあまり語られてこなかった。

土の存在はすべてを育てるベースとなるので地域の主体として語られる。また風の存在は珍しいモノ、情報、人、意識を運んでくるので話題になりやすい。光の存在はまさに活動そのものに光をあてるメディアであり、助言や批評であり、影響が見えやすい。土、風、光の存在は仕事に直結している場合も多くそれぞれの立場に束縛されてしまうこともある。

しかし、水の存在は仕事上の立場に束縛されることなく興味・関心の範囲で自由に動くことを志向しているので、いいものはいい、ダメものはダメと利害関係を超えて明確に発言してくれる。その意味ではとても信頼できる存在なのだが。興味を失うと何のためらいもなく他のところへ流れてゆくので、名前が残ることが少ない。

そもそも水のあり方も様々で土壌の発酵の為の湿気であったり、発芽の為の水分であったり、朝露であったり、あるいは蒸発して大気に溜まる雨雲であったり、注がれる雨であったり、流れる川であったり、常に状態を変えて変化し続ける触媒の存在ということも興味深い。

水の在り方が地域の風土をつくる。

a0010575_8405165.jpg地域の風土を知るには地域の水の在り方を認識しておくことが大切だと思う。砂漠にも熱帯雨林にも低湿地帯にも文化は育つ。その在り方の違いは水の在り方、人と水との関係の在り方の違いなのではないかと考えるようになった。

水の流れは濁流になれば多くの文化を破壊する恐怖にもなる。あるいは一見清らかな清流には養分はなく生物は存在せず、淀みの中に多くの生物が生息する場合もある。ささやかな流は和みにもなり、安らぎにもなる。水は感性に直結している存在のような気がする。生きる上で水は必要不可欠なように、地域活動にも水の存在は不可欠だということがあまり語られてこなかったように思う。

とにかく興味や関心を注ぐ水の存在がなければ、どのような活動も発生することもなければ育つこともないのかもしれない。

何か些細な活動を思いついた人がいたとして、その人の横で「面白いね」とささやく無名の誰かがいたからあらゆることは動き始めたのだと確信している。

※一部の写真はいわきの田中さんちの田んぼ

過去の関連ブログとか・・・
水…か。風土…土と風をつなぐものだな。
Miracle Waterについて
東京事典でのインタビュー「水の溜まりと水栽培」
# by fuji-studio | 2012-06-02 07:30 | ・思索雑感/ImageTrash
イイという価値観について(再考1)
イイ家族とか、イイ作品とか、いい地域というときのイイという価値について、基本的に子どもの頃から周辺とぶつかってきた。ぶつかるかゆえに考えざるを得ないことも多かった。

a0010575_17384864.jpg僕は即答できるタイプではないので、多くの場合その場では答えられずに、黙ってしまい、その分じわっと抱え込み、かなり時間がたって自分でも忘れた頃、ふと自分なりの考えを思いついてしまう。その時には周辺の話題や関心は他に移っていて、だれも聞いてくれないこともしばしば。

イイという価値判断はだれがつくりどこから流れてきて、どのように定着しているのだろう?

イイという価値が大量にメディアや街に溢れ、あるいは先輩や先生から押し付けられ、とにかく濁流に流されているような気がしてならなかった。自分としての価値を考える前に多くの価値が与えられ、そのなかで上手に泳ぎわたることができなかったのだと思う。


a0010575_17394226.jpgイイという価値観は絶対的なものだという話もあったかもしれないけど、そんな幻想はもう通用しない。誰かにとってイイものが他の誰かにとってはダメなものはいっぱいある。ある人にとってのイイ関係でも他の人には迷惑な場合もある。

イイという価値観は相対的なものであり状況によって変化する。それを確信してから楽になった。そして…イイという価値は「誰と」語り合うのかによって一番変化するというあたりまえの事実に気付いてから目の前は明るくなった。

駅前に何十年もたち続けている裸の姿の女性像を具象彫刻を目指している作家とみると、その表現力の凄さ視線が行き凄い作品だなと思ってしまうけれども、女性の権利の問題を行っている人と見ると、女性を裸で立たせていることそのものが問題だと思ってしまう。思春期の子どもとそこを通るときはなるべく見ないようにして無視してしまう。


a0010575_17403595.jpg上質の水が湧き出る自然の泉の横でペットボトルに入った市販の水はほとんど価値がないと思われがちだが、その水の研究開発者といると、自然に湧き出る水よりペットボトルの中の水のほうが美味しく感じることだってある。砂漠の中でペットボトルの中に入った水はどう考えても貴重品で価値が高いが、横にペットボトル不買運動の厳しい人が登場するとペットボトルに入っていることそのものが悪いのでなんだか水の価値もなくなってしまう。

いつも通っている見慣れた駅前から次の通りまでの50mの通勤路を足の悪い両親と歩く。少しの段差が気になり交通量が気になり、信号の変わる速さにいらだつ。生まれたての赤ちゃんを抱えた妻と歩く。排気ガスと大気汚染が気になり街の騒音と下品な看板を迷惑だと思う。社会学・歴史学の専門家と歩く。まちにしみついている時間の襞がやたらと目につき石碑や表示物や地名を興味深く思う。


a0010575_17414874.jpgイイという価値は誰との関係の中で変化する。ということは何か行動を行う時に一番重要なのは、誰と行うかということだということがわかる。

あらゆることをネガティブに捉え、つまらないつまらないとつぶやく人といると何も作りたくなくなってしまうし、面白い面白いとつぶやく人といると、なんだかなんでも作れそうな気がしてくる。

地域づくりにおいても「誰と」つくるかの関係が変化しつつあるのだと思う。何をつくるかではなく、その前提として、「誰と」つくるのか。そのことが一番重要なのだと思う。

イイという価値はそれぞれの層によって全く違う。圧倒的にイイとされる大きな価値観を持ち込むのではなく、様々な層との小さなイイ関係を複層的に綿密に重ねてゆくイメージなのかもしれない。

ミルフィーユ的にじわっと積層された強度。そんなかんじかな。

でもイイは時代によってかならず変化し続ける。



※写真と本文は何の関係もありません。

これまでにブログに書いた関連記事もリンクしときます。
いいもの、いいところ、いいまち・・・の条件。あたりまえのことですが・・・。

学校の先生に向けて書いた原稿 「と」の関係性
# by fuji-studio | 2012-06-01 23:40 | ・思索雑感/ImageTrash
地域系アートプロジェクトに関する雑感の再考をしてみようかな。
アサヒアートフェスティバル(AAF)がかれこれ10年になるねと話をしはじめたのがもう2年近く前。

そこからなんだか単なる10周年の記録本とかつくっても面白くないよなぁと思い、ついついメーリングリストに投げかけた文章から10年本をつくるプロセスがAAFスクールという形になってはじまってしまった。それが去年。

a0010575_1931139.jpgいろいろ書籍とウェブの役割について日ごろから考えていることを編集者の影山君とかと話しているうちに同じことを考えている人が数多くいることに気付き、気が付いたら入江さんとかも参加してもらってAAFの10年をいろいろな角度から記録してゆくことが結構重要なのかなという話に拡がってきて、ウェブでのアーカイブのプロジェクトまで進みそう…

なんだかんだと紆余曲折あり、AAFスクールの参加者が全国各地のAAFの現場を訪れ独自の形で取材した文章もそろい、そろそろ原稿を書かなければならないというところまできた。

みんなの取材した文章はそれぞれ興味深く重要で、心に響くものばかり。それを横目で見ながら僕は僕でこれまで考えてきたことをまとめて文章化したほがいいということになってきた。

ちょうど…メルボルンの現場に滞在中で夜の時間は今のところこうやって原稿に向き合うことができるのでちょうどいいと思っていたのだが、ワードの作文の中にいると一人ぐるぐる考え込んでしまってどうも文章が暗くこもりがち。

で、いろいろな地域系アートプロジェクトに関係するような文章を再考するために、ここのところめっきり使うことのなくなったこのブログサイトを使って整理してみることにした。

いろいろ意見もらいながら書くのもいいのかなと。

ということで、再考シリーズ、これから夜な夜な、レジデンスの部屋で書いてみます。
# by fuji-studio | 2012-06-01 19:37 | ・思索雑感/ImageTrash
システムのための仕掛け・・・
ますますこのブログから離れてきた。 2004年からはじめたこのブログが僕の中で旬の時期が終わったのかもしれないが、なんとなく、2014年までは…10年は続けてみようと思う。

しかし、このブログで当初そうとういろいろな思いを言葉にしてきたし、いろいろな現場をプロセスのままレポートしてきた。

a0010575_8442890.jpg震災以降ツイッターの利用が加速し、その後facebookの利用がさらに加速し、今はほとんどfacebookに記述することが多いので、その分このブログサイトから離れているという理由もある。

特に4月以降、十和田に常駐するようになってから、移動する時間が無くなったこともあり、移動時間に書いていたこのブログから離れがちになっている。しかも十和田市現代美術館のブログも書くことになり、なんだか個人の言葉で書くことの難しさを知り、ここで自由気ままに書いてきた中途半端な言葉をうらやましく思う。

そんな僕の個人的なある種自由な呟きのようなここでの言葉を、同時代にそれぞれの地域プロジェクトの現場で活動してきたある意味の「同僚達」は、批判や共感の対象としたり言葉化するときのスケールのようなものとして利用してくれていたようで、おかげで・・・というか、面白いことにそれぞれの地域の現場にはかなり共感できる感覚が連鎖していることを感じている。

そのあたりの感覚をまさにこのブログを分析し、それぞれの地域の現場でのキーパーソンにヒヤリングなどして論文を書いていたのが東京芸大の大学院の中山亜美。

その論文が十和田に届き、ようやく一通り、目にした。

なるほど。これまでの活動の僕自身の知らなかった客観的な分析がとても参考になる。

読み進めてゆくごとに、それぞれの過去の現場の状況が記憶によみがえってきて面白い、本当にその都度、成り行きにかなり感覚的に対応しながら現場の行方を観察していた自分の態度を思い出す。

確かにその都度考えることは、ひとつのその時々でのベクトルだったと思う。どっちのほうにどのフックをかけるのか。

僕自身が行ってきた活動はまさに仕掛けであって、システムを作っていたわけではない・・・ということ。

この論文、どこかのサイトで公開していないの?
# by fuji-studio | 2012-05-22 08:44 | ・講座/対話/研究会
十和田での「わからないことだらけ」の一か月。
とにかく慣れないことはするべきだ。

a0010575_22335081.jpgそもそも慣れないことだらけの中で人生は始まっていたし、慣れない状態から自分がなじんでくるときの振る舞いの奥底に自分自身の大切な部分が垣間見れするような気がしてビビッドだ。

しかしどうしても時間が経つと慣れてしまうし、慣れてしまうということはなんだか「わかったような気になってしまう。」のでそれが気に入らない。

本当は何も知らないしわかっていないのに、わかってしまうような気がすること・・・それが一番危険な気がする。

自分自身は自分自身の思い込み(わかっているつもり)によって規制され、束縛されているのだと思う。

以前の僕の周りには時折「わかっている」人達がいた。「わかっている人」はそれ以上をわかろうとしないし、自分の考えを変えようとしないので、一緒に話していてもあまり興味を持てなかった。

しかし、わからない人と話をしていると・・・いや違う・・・わかろうとしている人と話をすると、とにかくいい時間が過ごせる。

しかし、人生せめて死ぬ前ぐらいにはなんだかすべてをわかった気になって死んでみたいと思っている。

a0010575_22344423.jpgそこまでどのような「わからない旅」を連鎖させるのか…に興味がある。

いい時間を過ごすために人生があるのだから、もっと「わかろうとする人」と過ごす時間・・・に価値がある。

逆転すると…自分自身が「わかろうとする人」にならなければいい時間は発生しない・・・のかもしれない。

この一か月、久しぶりにわからないことだらけ。

あれだけわかっていたつもりの「アート」も多分いま一番わからなくなっているのだと思う。

ちょっと以前の僕であれば「いや、アートはわかるべきものではなく、感じるべきものだったり味わうべきものだったりだから・・・」と説明していたかもしれない。

しかし、今はわからなくなっている状態がとてもここちいいかも。


一度「美術館」についてここで語りたいですね。・・・っていうか、動画にしようかな。しかし、さもわかったように話す自分が嫌だな。
# by fuji-studio | 2012-05-06 22:21 | ・思索雑感/ImageTrash
青森県の十和田市でなぜ暮らし始めたのか。
なんだかんだと慣れない生活をしているうちに10日が過ぎた。

a0010575_20474319.jpg3月末に十和田に入ってその日から新規採用の面接だとか引継ぎだとか、とにかく美術館という器の運営に立ち会って、それを平穏に動かすことを見つめながら右往左往しているうちに休みもなく10日が過ぎた。

久しぶりに休みたいと思ったが、実は家の中の荷物はそのまま、しかもいろいろな個人の仕事が山積みで自分の時間は混沌状態。


a0010575_20512145.jpg特別企画展として4月21日からはじまる栗林さんの設営を手伝いたいと思いつつも、実際はそれどころではなく、設営はその道のプロたちが集結していてとても手際よく物事が進んでいて、うらやましく横目でながめるばかり。

美術館の空間を巨大な装置と組み替えるようなアーティストの仕事を久しぶりに目の当たりにして、自分自身、忘れかけてきた「空間に向き合う感覚」が刺激される。


a0010575_2053116.jpgこの10年、特にビニプラ、かえっこ以降、自分自身でがっつり作りこむことを避けて、とにかく全国各地にいろいろな種まき活動をしつつ・・・それはそれで、僕にしかできない、大切な活動もあるだろうと自分を納得させつつも、なんだか大きな方向転換をしなければならないと感じていた。


a0010575_20584516.jpgとくにこの5年ほど、急性膵炎で入院したことがきっかけとなって、仕事やりかたを転換したいと切望していた。

動き続けて、年間の半分は移動時間に費やす日々を変えるきっかけがほしかったのだと思う。

それと、これまで行ってきた地域フォーマットのアーツに類する活動も次の段階に確実に入ってきていて、特に震災以降…というか、原発の事故以降、これまでの活動を文章にまとめつつ、個人的には次の段階に動かなければと思っていた。東北を活動の拠点にしたほうがいいのではないかとの発想が頭をよぎったこともある。


a0010575_213952.jpg…そんな時期に…というかほんの一か月ぐらい前のことだが…豊島区の雑司が谷の鬼子母神を朝お参りしているところに…ちょうど消防訓練をしているのを眺めているとき…信頼している稀なアーティストの友人からの電話。

その発想に思わず面白がってしまった。草の根的な地域活動の立ち上げを仕掛けてきたアーティストが地域のアートセンター(美術館?)の運営に関わるという発想。


a0010575_2133982.jpg地域のアートプロジェクトにおいて、しくみづくりと拠点形成は卵と鶏の関係とされ、そのあり方について深める時期にきているのも確か。

これまでの立場のように、風の立場として移動しつつあらゆる情報や種や意識を運ぶ存在も重要であるが、深く一つの地域に入り込み、しくみの内部からの視点で、地域に対して何が可能で、何が重石や束縛なのか・・・。

それを見極め、新しいあり方を模索する土や水の存在の視点を持つことにも興味はシフトしていた。

文章にしても、しゃべり方も、行動のとり方もそうだが、なんだかついつい遠回りをしてしまう癖がある。回りくどく遠い周辺から核心に迫ろうとしてしまう。スパッと直接の行動がとれない。

その結果…十和田市現代美術館と称されるアートセンターに常勤するという予想ですらできなかった展開。

しかもこの僕が「ナンジョウアンドアソシエイツ」の社員という立場。

そこが一番うける。地域系アートプロジェクトは確実に次の段階に来ているという証のようなものかな。

とにかく青森の十和田を拠点に何ができるか。東北を盛り上げるきっかけにもなればいい。

※写真前半は十和田市現代美術館からドライブしてはじめていった十和田湖の様子。まだ氷が張っていたがぼちぼち解け始めている様子。
# by fuji-studio | 2012-04-11 19:42 | ■青森&十和田での活動
十和田市現代美術館を拠点として活動することになりました。
青森の十和田市は人口6万5千人の町。

そこに4年前に開館したのが十和田市現代美術館

a0010575_0152366.jpg創造的地域に繋がってゆくためにつくられたアートセンター。

おそらくそこに必要なOSを探ることが必要なのだと思う。

これまで鹿児島や福岡を拠点にいろいろな地域を巡りながら風の人としてふるまってきましたが、昨日の4月1日よりとりあえず1年、面白くなりそうならば3年間、十和田という地域に向かいながら土の役割と水の役割についてじっくり考え活動してゆきたいと思っています。

ということで、とりあえずのあいさつ。

今日は消防や近隣へのあいさつなどから始まり、ドイツ・ベルリン在住の坂戸館長を含めて新しい体制のスタッフとのミーティング。

じわっと動き出します。

どうなることやら。 乞うご期待!
# by fuji-studio | 2012-04-02 08:36 | ■青森&十和田での活動
豊島区の雑司が谷のモコモコラボ最後の日
豊島区で去年の10月に突然たちあげたMiracle Waterという概念。

a0010575_021472.jpgその概念のネーミングを活動チームの名前として活動をはじめ、その活動のひとつとして雑司が谷の駅の中にある としまアートステーションZの一部に「モコモコラボ」というぬいぐるみ素材を自由に扱える自由工房をオープンしていた。

a0010575_0271142.jpg今回僕が十和田にゆき、実質的にあまり活動に参加できないのと、アートステーションの性格からいろいろなアーティストに活動をバトンタッチしてゆくということで、一旦ミラクルウォーターは凍結、あるいは蒸発するということで、それにともないモコモコラボもクローズすることにした。

a0010575_0284310.jpg本当はモコモコラボはZを離れたあとに豊島区の雑司が谷の周辺の空き家や空き店舗などを利用して部室的な場としてどこかに移転するイメージをもっていたが、としまアートステーション事業がまだしっかり事務局として動いていない面もあり、候補地を探したりいろいろな交渉をしたり、予算を確保したりの動きは全くできない様子だったので、今回それは見送ることに。

a0010575_03134.jpgとりあえず3年後、事業がパイロット事業からもっとちゃんとした本格事業として動き始め、事務局もちゃんと動ける体制になったところでいろいろ仕掛けたいということになった。

その3年間、僕としてはアートサンターが地域に果たす役割を十和田という地域でその可能性について内側から考えることになる。

ディスカッションの現場にこれまでかかわってきたメンバーや参加者の他に次に僕のバトンを受け取り、新しい活動を行う新しいアーティスト、岸井大輔もやってきて、この手のプロジェクトとしては珍しい引き継ぎが行われる。

さらにとしまアートステーションZにはモコモコラボのベクトルの延長に…なんと!衣装いじり系のアーティストのひびのこづえさんが登場するのだとか。

なんだかおもしろい展開になってきましたね。

おそらくこれから数年後、池袋はもう2段階ぐらいを経て・・・面白くなるんだろうなぁ。
# by fuji-studio | 2012-03-29 12:09
被災地にソフトクリームは役に立つのか!シンポジウム
宮城県のえずこホールで東京都文化発信事業が宮城県内で行ってきた文化事業による被災地支援事業の報告会とパネルディスカッションが開催され、かなり興味深い話が飛び交った。

a0010575_041585.jpgなかでも最大のキーワードはソフトクリーム。

女川で活動する岡さんの登場し、ソフトクリームの話を熱弁。

いやー、ソフトクリーム、昔から力はあると思っていたが、・・・なるほど。
しくみや場にはツールが必要という話で、ソフトクリームのパワーは意外とすごいという話。

そのうち詳しくお話しできるかな・・・。
# by fuji-studio | 2012-03-24 23:36 | ■宮城・えずこホールとの活動
内側の壁も水道も流しもないまま、しかしようやく引き渡し。
福岡の西の端っこの海水浴場、筑前深江海水浴場。

a0010575_0221883.jpgそこの海の家の土地にずいぶん前から計画し、ようやくできた(?)海の家スタジオ。

あまりにもシンプルな図面だが、建築コストを削ってゆくのに3年近くかかる。工事もなぜだか9月から半年間かかり・・・ようやく引き渡し。実質工事してたの2か月半ぐらいかな・・・・。


a0010575_0234355.jpg引き渡されたものの、まだ内壁はなく、トイレの壁もなく排水パイプがひとつ床から飛び出している状態。

とりあえずそのあたりに落ちていた流しをつけてホームセンターで買ってきた最安値の水栓をつけて・・・水を出そうとしたが…まだ水道のメーターがない。


a0010575_0242587.jpgこのまま内装工事を数か月かけていじりたいところだが・・・なんともうすぐ十和田に行くことに・・・。

とりあえず一年は十和田拠点に動くことになるのだけど・・・最長3年は十和田にいることになるのかな。

だから・・・内装がおわるのは…5年後ぐらい・・・。

今年から糸島でアートプロジェクト・・・「糸島アーツファーム」が始まろうとしているのにその現場に立ち会えないのもつらいなぁ。
# by fuji-studio | 2012-03-20 23:26 | ◎福岡・筑前深江での活動
高知県立美術館でのレクチャー
高知県立美術館でまちづかいのレクチャー。

a0010575_0363294.jpg福岡から高知に向かう飛行機トラブルで大変な目にあって、結局愛媛県の松山空港まで飛び、そこからレンタカーで2時間半とばして美術館への到着はレクチャー開始の10分前。


a0010575_0373710.jpgJALの言うとおりに一旦羽田まで飛んで高知へ向かう便におとなしく乗っていたら、レクチャーーに一時間45分遅れる予定だった・・・。


a0010575_0384736.jpg事前にどのような参加者かなどの確認をしなかったので、話の焦点がなかなか定まらず、実は相当ピンボケになった話だったと思う。

高知のみなさんごめんなさい。


a0010575_8305319.jpgしかし高知の人は熱い。

その熱さ、なんだか血が騒ぐ。

日本列島の端っこのエリアのネットワーク、興味がありますね。


a0010575_8322086.jpgところで写真は高知の宝物、沢田マンションのほんの一部。高知県立美術館とは関係ありませんが、ある種のアートセンターのあるべき姿かな・・・。


a0010575_8335035.jpg空間をいじるという作業を数十年という時間をかけて重ねている。

建築物の魅力を引き出そうと限界まで挑んでいる態度が素晴らしいのだと思う。


a0010575_8344361.jpgしかし、建築物が態度を持ってしめしているというのは凄い。それをいじったり使っている人たちも凄いが、それが存在する高知はやっぱり教務深いところだなぁ。
# by fuji-studio | 2012-03-19 23:19 | ・講座/対話/研究会
3331での311のモヤモヤ会議
3・11をどのように過ごしたのか・・・という自分自身の行動や思い、ありようを客観視することで、なんだかその人の本質的な部分が理解できたり、そのひとの置かれている状況がわかるような気がする。

a0010575_0465544.jpg僕自身は東京のアーツ千代田3331で行われてる震災復興関係の展示の仕込みに悩みつつ、案のじょうモヤモヤしつつ、モヤモヤはなんだか次の「イメージの種になる!」などと言い訳をつけながら、「モヤモヤ会議」なるものを行って、モヤモヤしていた。

a0010575_0474192.jpgモヤモヤは現状に対する違和感やズレからくる「言葉にならないなんとも居心地悪い中途半端な状態」だけれども、そのモヤモヤを形にしようと…「右往左往しつつ作業に没頭すること」…はかなり面白い状態を獲得できる。

だからといって、そのモヤモヤに直接答えが出るわけではないのだけど、確実にもやもやの状態はスリップする。そしてスリップの向こう側で別の課題や作業が発生し、モヤモヤがいつの間にか別のイメージに繋がる。

とにかく、モヤモヤを無視することなく、モヤモヤをいじろうとすることが大切だと思っているし、その向こう側に次のイメージが発生し、・・・それは必ずしもモヤモヤへの直接の答えではないけれど次のイメージへの連鎖の種になる…という法則。

そもそもモヤモヤはもやもやであって、具体的な問題とか課題ではないので、それでいいんじゃないかなってこと。しかし具体的な問題とか課題がある場合は別でしょうね。

でもでも・・・具体的な問題や課題だと思っているその命題そのものや仮定や前提条件が間違っているかもしれないことを思うと…モヤモヤだよね。

ああ、モヤモヤ。

でもモヤモヤは可能性の始まりだと・・・そう思おう!
# by fuji-studio | 2012-03-11 23:11 | ・思索雑感/ImageTrash
地域とアートについて話し合う一日。
「地域とアート」という言葉がどのような時期からどのような関係の中で語られてきたのかもう忘れてしまった・・・ということはそれをアーカイブする時期が来ている・・のだと思う。

a0010575_11264524.jpgというか、インターネット利用が日常化し、ビジュアルサイトや動画サイトを直ちに手元で検索する生活が定着し、ウェブ上に存在することだけが存在するようになってきた現実を考えると、地域とアートの重層的な過去の試みもちゃんとアーカイブするプロジェクトは、相応のフォーマットを模索し整備し、広くネットワークし、多くの関係する機関が枠組みを外して構築しなければならないのだと思う。


a0010575_11272788.jpg今日はたまたまお昼に地域創造が行っているの全国の地域系アートプロジェクトの事例集や提言書のまとめの検討会議に出席し、夜にはアサヒアートフェスティバルの10年間の蓄積された全国の事例をどのようにアーカイブし、出版するかという課題を話し合う企画会議に出席した。


a0010575_11294315.jpg対象となるプロジェクトは相当かぶっている。しかし、一方は自治体の首長に向けてのかなり専門的な視線と分析から切り込んでいるのに対して、一方は地域でプロジェクトを始めようとしている市民に向けての好意と興味からにじみ出てきている感じがある。


a0010575_1130965.jpg僕にとってはどちらの視点も興味深いが・・・というかそもそも地域とアートについて多くの社会人が出席し、普通に会議されていることに対しての妙な感じもある。

僕が活動をはじめた大学時代、おそらく1970年代後半から1980年代の前半、当時の先端的なアート志向の学生のトピックは、野外彫刻から社会彫刻へ、さらに彫刻という概念が拡散し、空間へのアプローチの手法、インスタレーションという手法への興味だったように思う。


a0010575_11303919.jpgその興味を満たすべく貸しギャラリーのシステムと並行して一般的な屋外や公共空間、空き家、空き施設を利用したプロジェクトタイプがたまたま地域の中で試みられていた記憶がある。

当時、空き地や空き施設を利用して活動を志向した理由は大きく3つあった。


a0010575_11311372.jpg1、ギャラリーには収まらないスケールの作品制作に対する欲求。

2、金銭的に貸しギャラリーを借りれないという理由。

3、美術関係者外部の人等への接触に対する興味。


a0010575_11314446.jpg僕自身は先端的なアートに対する興味は全くなかったがたまたま美術大学にいて、周りの友人の影響を受けながら、おそらく1と2と3+αの理由により、地域と関わることになった。

しかし当時は「展覧会をおこなう」というフォーマットしか知らなかったし、地域のシステムを読み込む知識なんてまったくなかった。


a0010575_1132147.jpg・・・なんて昔話を始めると相当長くなるのでやめよう。

詳しく知りたい人は、なぁがぁ~~~~~いインタビューがあるので根性があればご覧ください。

とにかく、そこからじわーっと連鎖して発生したシステムが地域のアートプロジェクトというフォーマットなの
だろうが・・・まさかここまで・・・次の時代の風景を変えてしまうほどの重要なシステムになる可能性の入口まで来てしまうとは…。

僕としてはまだまだ入口で、何も行っていないし、できていないという感覚が強い。

だからもっとちゃんと、もっと深く、もっと凄い現場を作りたいという欲求だけは大きい。

とにかく、次の動きをしなければ…。

ようやく次の展開が見えてきた。がんばろ。



※おもいっきり昔の作品写真を使ってみました。1983年の京都三条大橋の下の鴨川に自作のこいのぼり13点を無許可で設営したときの記録です。
# by fuji-studio | 2012-03-09 11:34 | ■東京での活動
鹿児島のイイテラス302号室でジェンダー吉永の展覧会。
鹿児島市荒田(あらた)という地域の鹿児島交通局電停前という路面電車の停留所の目の前が僕の生まれ育ったところ。昔は川沿いの荒れた田んぼだったんだと思う。

a0010575_85267.jpg1950年代後半にそこに建てられたコンクリート2階建ての住宅で生まれ育ったが、そこを改修してイイスペイスという手作りのカフェを経営していたのが1989年から1996年の7年間。もう四半世紀も前の話・・・


a0010575_8524110.jpg1993年の鹿児島の水害の都市整備の問題で鹿児島県といろいろぶつかり紆余曲折の末、1998年そこにつくられたのがイイテラス。その空き部屋を利用してなんとなく302という貸し部屋が誕生したのがこの1月。


a0010575_8532142.jpg本当はだれかに借りてほしいが…シェアオフィスでもいいし、シェアスタジオでもとにかく家賃収入がないとやばい…

とにかくそこで、この半年間桜島に暮らして桜島の火山灰を使って桜島のシルエットの絵を描いたジェンダー吉永の桜島の展覧会がスタートした。


a0010575_853481.jpg展覧会場としては初めて使ってもう空間だったので、その展示に立ち会い、・・・プレオープニングとして急遽ソークイベントのようなことを夜の7時ぐらいからなんとなくゆるりと始める。

しかし、ちょうど吹上でのアートプロジェクトが終わったあとで、山中カメラさんが別府に帰る前ということで、吹上出品作家関係者がぞろぞろと集まってきてくれて…以前取手プロジェクトでお会いしたことのある奥中さんとか吹上で頑張っている博多君とか蒲生でお世話になった永里君とか…


a0010575_8542784.jpgとにかく面白いメンバーで吹上の報告会のようなディスカッションが始まり…吹上の山中カメラの音頭にやられた水脈系の人もいろいろ集まってきて…ずるずると出入りがありながら…なかなか終わらず・・・気づけば夜中の2時。

語り始めると終わらないなぁ。

とにかくいろいろな活動は、本当に思いもせぬところで微妙に繋がり、そしてここからまた繋がってゆくんだろうなと感じている。

イイテラス302でのジェンダー吉永の展覧会はたぶん10日までだったかな…13時ごろから夜の7時ごろまで作家本人がいるかも…ぜひお越しください。入場無料。お茶もセルフですが…飲めます。鹿児島です。

10日にエンディングを行うという噂。
# by fuji-studio | 2012-03-03 23:49 | ○イイスペイス@イイテラス
舞鶴の八島アートポートでクリエイター養成講座のレクチャー
舞鶴は学生時代になんどか車で通過したことがあるまち。そこを拠点に活動しているのがまいづるRB

a0010575_2325837.jpg数年前からアサヒアートフェスティバルの関係で活動については耳にしてきたし、なぜだか、日比野さんとか小山田君とか山田創平さんとか周辺の人がたくさんかかわっていて興味をもっていた。


a0010575_2326393.jpgそこで地元の人に向けての「つなぐこと」がテーマのレクチャーシリーズがあり、2時間という短い時間だけどそれなりに思いをぶつけてみる。

それにしても、確かに地形的に、歴史的にとても重要なところ。


a0010575_232631.jpgそれがゆえにかなり重い重石や手枷足枷でがんじがらめで窮屈な印象のところだったが、しかし、その中でいろいろ闘っている気骨が見えてくる。


a0010575_23273118.jpgそれはそうと、それなりに改装された赤レンガ群の中で…ありえなく魅力的で重要な…しかし、組織の都合上手つかずで重石と枷だらけの赤レンガ倉庫の一部に…ここは僕の作業場の倉庫ではないかと勘違いするほどの…ペットボトルを利用した「まちかざり」の部品の山…興味深かったなぁ。


a0010575_23282573.jpg僕がペットボトルを利用した活動をはじめて12年経つのだからまあ、一般的に流通しててもおかしくはない。

不思議な体験でした。2時間の予定が結局3時間しゃべりつつけたレクチャーに参加したみなさん、お疲れ様でした。
# by fuji-studio | 2012-02-27 23:06 | ・講座/対話/研究会
京都文化ベンチャーコンペティションの最終審査と表彰式
a0010575_082627.jpg京都府の主催での京都文化ベンチャーコンペティションの最終審査会と表彰式が開催される。

なかなかの力作、面白いアイデア、可能性がいっぱい。
# by fuji-studio | 2012-02-27 01:31 | ・講座/対話/研究会
北九州の建築系の学生の合同合評会
北九州のスペースワールドの横にあるイノベーションギャラリー北九州の建築系の学生の団体、tonicaが企画する合同好評会で学生との対話を楽しむ。

a0010575_1015427.jpg一緒に講評した建築家の質が高く面白く、それぞれの現場をとても楽しめた。

学生がいろいろと食いついてくるのが印象的。

いいなぁ。経験値が少ないだけにそれに反比例して可能性はたくさんある。


a0010575_10155228.jpgかれらの今後20年間で培う意識がその後の20年間の風景をつくることになる。

美術と同じように建築にもいろいろなシステムがあり、(いや、建築周辺のほうがもっと多層だな。)・・・それぞれまったく違うフォーマットがあるが…あたりまえだけど、学生はまだその違いについて知らない。


a0010575_10171271.jpgしかもそのシステムは変化し続け、学生が活動する時代の本流のシステムは未だにない…かもしれない…というイメージをだれも持つことはできない。 

結局その現場に立ってみないと見えないんですよね。その現場の生臭い匂いは…


a0010575_10175989.jpgだからこそ、今の建築にまつわる状況に違和感を抱く学生は現在の建築の様々なシステムを疑いつつ、孤立感を感じつつも、その中途半端な…仮設暮らしの気持ちを抱えながら活動を連鎖させ続ける強さが必要になる。 


a0010575_10214948.jpg結局、どの時代もそうやって来たのだと思う。 

今日の学生の中から建築の概念を変える次の時代の建築家が登場するのだと思うと本当に楽しい、
# by fuji-studio | 2012-02-24 23:52 | ・講座/対話/研究会
茅野市民館での「小さなアートプロジェクト」の実験ワークショップ
長野県の茅野市の茅野の駅前にある茅野市民館

a0010575_8241824.jpg茅野駅に直結している図書館とホールと美術館等の複合施設だが、その公共部分…つまり、普段は使われていないホールやギャラリー以外のところを使って参加者が各自活動を行うというワークショップを開催する。


a0010575_9405935.jpg茅野市は地理的条件から氷点下になる日数が多い地域ということで、寒天の里として有名だとかで…この建築物も寒天を相当意識してデザインされている…のかな?


a0010575_8245073.jpgとにかく空間的には魅力的な隙間が多く、何か仕掛けたくなるところもい多いので、参加者を募って「2時間だけの小さなアートプロジェクト」の実験というフレームをもうけてみた。


a0010575_8262285.jpgアートプロジェクトはいろいろな形の表現活動を包括できるフォーマットとして注目している。

絵画展なら壁のあるフォーマットが求められるし、パフォーマンスならば広いフロアか広場かが求められ、演奏するなら音の響きのいい観客が停留できるところが必要だが、茅野市民館にもいろいろなフォーマットに利用できる場がたくさんある。


a0010575_943294.jpg小さな…というタイトルは時間的にもわずか二日間のワークショップで、それぞれの準備時間も2時間程度、発表時間も2時間程度ととても短いものだということを意味しつつ…


a0010575_9422598.jpg実は、プロジェクトは本来地域の様々な場で展開されるべきものであり、それを繋ぐ拠点としてこのようなアートセンター的文化芸術交流拠点はあるべきだと思っていることを暗示している。


a0010575_9414885.jpgたとえば、茅野という地域にアートプロジェクトというシステムがインストールされることで茅野市民館そのものが単にホールとか美術館という過去の概念を超え、地域に対して大きな期待と可能性をつくる施設として成熟するような気がしてならない。


a0010575_9401277.jpg地域に潜在する様々な魅力的な場、空間、施設、構造物、歴史、素材、人材、組織、風習・・・もろもろ・・・に対してそこに暮らす人やこの地域に魅力や関心を持った人が深くかかわり…これまでの常識的な関係を超えてさらに深くかわり…


a0010575_9394893.jpgその結果としてにじみ出てくるもの、できてしまう現象、変化、些細な物語の蓄積が大切なのだと思う。

というか、そのような魅力にあふれる地域素材があまりにも使われていないし、忘れられているし、がんじがらめに束縛されている様な気がしてならない。


a0010575_9403486.jpg経済発展という束縛や文化財という束縛、活性化、有効利用という錘が、様々な可能性を排除してきたような気がしてならない。

あるいは「文化・芸術」というキースレーズそのものが重石となって新しい感性の発生を抑えてきた状況もあるのかもしれない。


a0010575_9391959.jpgそこに暮らす人が解放され、深く、興味深くかかわる経験の蓄積が次の新しい何かに連鎖するのだと信じている。

今回のワークショップはわずか2日間で2時間単位のワークショップ。


a0010575_9412666.jpgここに数か月とか数年という時間軸を持ち込むことで相当なことになるのではないかと期待する。

この秋の終わりから冬にかけて次の段階の、、、もう少し大きなプロジェクトの発生を促す拠点づくりのデモンストレーションを行う予定。


a0010575_8304024.jpg全国の美術館やホールなどの文化交流施設がこのような視点を持ち、地域に「なにかを作ろうとする態度」が広がってゆくといいのになぁ…と思いながら…地域に当たり前のようにある可能性の広がる現場…病院、学校、福祉施設、消防、警察、防災センター等に本当に深くアーツが浸透するとどうなるのかというイメージを妄想する。

それが当たり前になる時代への展開が必要だな…。
# by fuji-studio | 2012-02-19 09:49 | ■長野での活動
金沢美術工芸大学で二日間の集中講義
僕がまだ京都の大学の学生だった頃、千葉県の我孫子にスクオッターズハウスギャラリーというアーティストが運営するギャラリーがあって、そこの企画で行った我孫子市内の数か所で行った展覧会「残暑見舞」

a0010575_2323285.jpgこの時僕が行ったのは 「ナマズの群像建設未定地」という何かをつくるふりをするという活動だった…という話は随分前にこのブログでも紹介したことがある。その時に一緒になった作家が今回のレクチャーの仕掛け人の中瀬さん

中瀬さんとは長い間お会いすることがなかったが、今回この授業に呼んでいただき久しぶりに時間を過ごし、この我孫子での夏の体験やここで知り合った東京芸大彫刻科…どちらかというとラグビー部系の遺伝子が僕の活動の初期的体験として重要だったことを思い出した。


a0010575_23235998.jpgそこから随分長い間…、それぞれ全く違うアプローチで活動を続けてきたが、かなり多くのシンクロする価値観を持っていて興味深い。

講座とワークショップをということだったので、最近気にしている「フェチと表現と編集技術」についての超論を無理やり「彫刻論」という授業の中で行い、金沢美大の学生に僕の粗削りな言葉でぶつけてみた。

反応がすごくいい。


a0010575_23242259.jpg今回は編集について学ぶためにFacebookを利用して、参加した学生がそれぞれ簡単な行為を画像、あるいは文章としてアップロードしてもらう

夜は打ち上げを兼ねて、外部にもオープンにして、そのネタを見ながらディスカッションをする企画をKapoの一階のmojoで行い盛り上がる。

皆さんお疲れ様でした。学生の感性は予想よりはるかに面白く、本当に期待に満ちた時間だったな。

ありがとうございました。
# by fuji-studio | 2012-02-09 23:35 | ・講座/対話/研究会
北本の雑木林でのクスタケシの展示。
北本市での日本文化デザインフォーラムの開催はかれこれ3年目…かな。

a0010575_10523857.jpg雑木林での取り組みもじわじわと広がってきている。(全体の活動が見れるサイトはどこ?)

僕の北本との関わりはさらにその前からで、ここでもまずはじめにディスカッションの為のキャンプを企画した。

a0010575_1053589.jpgそこに関わった多くのアーティストや市民活動のグループとの関わりが、今の北本の活動へと変化しながら繋がり続けている。

その裏側には多くの葛藤や悩みや苦しみ、挫折もある。運営事務局も行政も皆素人なので多くの誤解も迷惑も渦巻いている。

a0010575_10533460.jpgしかし、その紆余曲折(プロセス)が地域の風景を作り出し、そこで人は変化し、活動も変化する。

北本でのアートプロジェクトをイメージした時に、外からの作家が大型のプロジェクトをやるような越後妻有タイプではなく、この地域の周辺の何かを作りたいと思っているエネルギーが集まってきて、ここから何かが発生するような状況を作るべきだと強く思っていた。

a0010575_1054142.jpg荒川の広大な河川敷きと雑木林が点在し、果樹園と桜が印象的で、空気と水の流れを感じるの東京近郊のこの地は、何かを作り続けて暮らしたいと考える創作者にとって魅力的な場であるはずだし、そもそも、この周辺にはそのような創作者がたくさん生まれ育ち、暮らしているに違いない。

a0010575_10543492.jpg当時は今のような「水を集める」の概念はなく、むしろ「土を開拓する」イメージだったのかもしれない。

まちの変化は世代単位で変化する。

その単位にいかに新しいベクトルを作るのかが重要だと思っている。

a0010575_1055643.jpg僕の個人的な常識では1世代は33年。66年で2世代。

今の北本のまちの風景は2世代前と1世代前の価値観によってつくられてきた。

ここに定着する人が何を考え何を行うのかで風景は変わるはずだが、時間の感覚が長いので自覚的にそれを捉えるには一生かかってしまう。

でも確実に風景はつくられ変化してゆくので、その変化に関わる人の意識がどのような経験をするのかが重要だと思う。

a0010575_10553027.jpgで、北本に関わりかれこれ4年ぐらいは過ぎているが、今回はじめて、目に見えるいわゆるブツとしての作品を展示してみる。

単純にブツが作品なのではなく、僕としてはかなり入り組んだデモンストレーションの為のブツなのだが、そのストラクチャーに興味を持ち、それを読み込もうとする人はほとんどいない。

a0010575_10555132.jpgまあいい。ブツを目にすると人は安心するし、喜んでくれる。

特にこのかわいい眼の無垢そうな動物たちに惑わされ、「かわいい」「おもしろい!」とのツイートの数は多い…だけど…

a0010575_7441647.jpg根本的なところでディスカッションしたいと思っているし、話したいこと、実践すべきことも山ほどある。

そこからわかりたいこと、知りたいことがたくさんある。そのような場を作らなければならないんだけど…

仕組みに関わる人が育つのは難しいね。

僕自身、まだまだ力不足だなー…
# by fuji-studio | 2012-02-05 10:56 | ◎埼玉・北本ビタミン
クスタケシを演じることでクスタケシの工房という場をつくることになる。
埼玉県の北本市の雑木林に魅かれて北本氏にやってきた架空のB級動物彫刻家クスタケシ。

a0010575_11592465.jpg彼が雑木林に隣接する一軒家の納屋に間伐材を使って動物をつくる工房を作ったとの設定で彫刻をする。


a0010575_11535620.jpg雑木林に落ちていた間伐材を利用して、いかにもつくりそうな動物を数点制作する。

そのプロセスの結果…納屋には、木彫の為の道具や材料がそろってゆくことになる。


a0010575_11544015.jpgそれを収めるところを…やはり間伐材の枝で作りたくなる。それがなんとも楽しい作業。いままでもそちらに力を入れてきた。

僕の場合…作品を作ること以上に作品を作る環境をつくることに執着する性質がある。

彫刻はそれなりに作るながら…切れ端の枝を繋いで作業がしやすい空間を作ってゆく…その作業に数日没頭する。


a0010575_11552194.jpgその工房を…雑木林の枝に
興味を持った人が自由に使える木工の部室…クラブルーム的なたまり場にならないかなと考えながら制作する。

今後の活動で行いたいことはこの「部室」的な半分オープンな…しかし個性の充満した活動の為の場づくりだと確信している。それをどのような仕組みに組み込むのかが大きな課題。


a0010575_11563930.jpgクラブルームというと更衣室的で汗臭そうだし、クラブハウスというと高級感が漂い、なんだかその間のいい言葉が欲しい。

クラブボックスという呼び名を大学時代は使っていたが…このあたりが検討しどころ。


a0010575_11561311.jpgどちらにせよ、その空間をつくる為に活動を行い、実際に制作しながら結果として空間ができてゆくというプロセスが重要な気がする。


a0010575_11575358.jpg様々な地域に絡む活動に参加し、一緒に活動することで結果として空間が作られ、その空間をどのように開いてゆくのかのシクミをつくることが課題なのだが…北本ではこのシクミまで考えれる余裕がない。


a0010575_11583273.jpgとにかく、雑木林の枝がとても魅力的であり、可能性と期待が大きいことは確かで、その枝は生活の中からとても遠いところに行ってしまった地域社会であることも確かですね。

# by fuji-studio | 2012-02-04 12:06 | ◎埼玉・北本ビタミン
AAFSchool AAF10年本の為の「物語をよみとる」講座
4回連続のAAF学校。前回は2日連続だったが今回は一日のみで最終回。会場はなじみ深いアーツ千代田3331。

a0010575_012528.jpgデザイナーで仕事研究家の「自分の仕事をつくる」の本で有名な西村佳哲さんをゲスト講師に招いてのインタビューから出版までの流れを事細かに編集者の影山さんが質問する形で進む。

アサヒアートフェスティバル(AAF)は全国各地で行われているアートプロジェクトのネットワークで、それぞれのプロジェクトの現場では絶対に報告書などには登場しない小さな、しかし大切な多くの物語が潜在している。


a0010575_0131625.jpgそれをどのように導き出し、本としてどれだけ面白く大切なものにできるかが問題・・・

西村さんの話はとてもよかった。西村さんのインタビューする側の態度についての話、心構えのような話は30年前に聞いておきたかった話。

いつでも聞き手は強者の立場であり、語り手は不安要素を抱えた弱い立場にいるということへの自覚。聞き手のやってはいけない態度。そしてさらにインタビューした素材をどのように文章化するのかの秘密のメモまで公開していただき本当に興味深かった。

インタビューと取材の違い。思考レベルを聞き出すのではなく、感情の前にある感覚、その根底にある何らかの存在に気づき、感覚を引き出すような生の話に向き合う態度のような話。

全く考えてみたこともない。そういえば、感じていたのかもしれないが…。

それと読み手を飽きさせない文章の構成の話。やっぱり文章もデザイナーの視点で描いているんだなと深く関心する。

参加者も大いに満足した5日間、全4回のスクールだったが…さてここからが本番。どうやって10年本作ろうか…

それにしても…
こうやってスクールやってからいろいろな記録本見ると…本当にちゃんと読み手側に立った編集の視点で作っている記録集って少ないなぁ。

デザインはいいのだけど…といのも多い。

確かに読みにくいですよね。多くの記録集は。なんだか…わかっているような気になっている状態が一番恐ろしいんだなと最近感じる。わかっているようでも実は何もわかっていない。わかっていないことに気づき努力するところから次の状態のものは生まれるが、わかっているようでいるとそこからは結局たいしたものは生まれていない。

しかし、みんな大量に納得して大量にわかっているつもりで大量に作っているんだなぁ…

経験を重ねてくるとそこに大きな罠があるんだと思う。嫌だねえ。
# by fuji-studio | 2012-01-29 22:59 | ・講座/対話/研究会