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北本ビタミン おもしろ不動産ツアーとディスカッション

埼玉県の北本市での北本ビタミンが行っているおもしろ不動産。

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いろいろな創作家の活動の現場にしてもらおうと、一般的な常識では使えないような空き家等をいろいろな職能を持つ創作家に紹介して利用してもらうプロジェクト。

a0010575_1937275.jpg2年前から仕掛けられてきたいろいろなプロジェクトを中心に集まった若い創作家達が北本の各所に制作スタジオを構えはじめ、面白いことになってきている。

北本団地での宝の原石のような活動、北澤潤の「リビングルーム」も熟してきて、北本ビタミンプロジェクトというシステムでしか発生しえないイメージも見えやすくなってきたし、wahから発生した団地の子どもたちが中心に行っている「はみだし探検隊」の活動も、将来の展開が見え始め熟してきた。a0010575_18565096.jpg

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単に地域イベントとしての地域型アートプロジェクトフォーマットではなく、事務局も、参加スタッフもアーティストも一緒に活動する市民も含め、生活の中での「つくる」時間と空間を共有してゆくような生活圏浸透型のアートプロジェクトフォーマットのイメージがようやく立ち上がりつつある。a0010575_18585363.jpg
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しかし…相変わらず現北本市長の活動に対する対抗市長候補チーム絡みのバッシングが、あるいは行政内の管理者としての重責が、地域の中で面白いことを行おうとしている極めてピュアな若い人たちの気持ちを抑圧し、邪魔し、重箱の隅をつつくようなあらさがしに時間を費やし…

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とにかくいろいろな現場に不愉快の悪雲を落としてゆく。

いかに市民の活動を発生させるかと考えることをせず、いかに市民活動を規制し、管理するかということで長年昇進してきた人の性質なのかな?
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もったいないし、つまらない。
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by fuji-studio | 2011-02-27 13:25 | ◎埼玉・北本ビタミン
大阪近代美術館(仮称)でのアーティストトーク。
KIITOのでワークショップを終えて、急いで大阪の心斎橋に向かう。アーティストトークの時間はすっかり終了していたが、まだ展示が続いていて、トーク後の話を楽しんでいる来場者も多かったので、急遽、館内アナウンスをしてもらい、アーティストトークを行い、その後新世界の三好へ。
by fuji-studio | 2011-02-26 23:30 | ◎大阪・新世界等での活動
神戸のKIITO準備室でボーダーエリアについてのレクチャーとワークショップ
今日と明日、神戸のKIITOの準備室で中間領域・ボーダーエリアについてのレクチャーとワークショップ。

a0010575_13595912.jpgここから何かがはじまりそうな…




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by fuji-studio | 2011-02-25 16:25 | ・講座/対話/研究会
大阪・ブレーカープロジェクト 絶滅危惧・風景の設営
大阪市立近代美術館(仮称だとか)の心斎橋展示室(僕らにとっては以前、出光美術館だったところというほうがわかりやすい)で明後日からはじまる「絶滅危惧・風景」の設営作業

a0010575_10503380.jpg新大阪から御堂筋線にのり、座席にすわると目の前にはってあるポスターがいきなりこの展覧会のポスターだったので驚く。

そうか。大阪市の事業なので大阪市の地下鉄にはこのポスターが貼られているのか。

NPOベースの街系プロジェクトではこういう広報が予算的にできないのだが…自治体がこのような部分で協力してくれると本当に助かる。

この展覧会は美術館で開催されるこれまでの展覧会とはかなり質が異なる。

2003年から大阪の新世界を中心に地道に活動を重ねてきたブレーカープロジェクト。

そのうち2009年から行っている「絶滅危惧・風景」で、各作家が行ってきた活動の結果が素材として近代美術館フォーマットに再編集され、それぞれの作家の作品として出品されている。

街でのアートプロジェクトに美術館が積極的に関わる関わり方について、地味であはあるが、ひとつの方向性を示しているんじゃないかな。

それにしても西尾君も下道君もトーチカもパラモデルも本当に活動自体が面白いし、みんな編集能力が高い。

特に下道君の編集能力には感服。凄いな…。僕のはダメだな。

僕は編集作業のツメが甘い。完成させる編集がそもそもできない。

この展示の裏側にある2003年からの新世界での街へのアプローチの深さを読み取る人がどれほどいるのかが疑問だが…。街の人との信頼関係がこれらの活動を実現させていることは見えてくるのかな…。

それにしても面白い展示だと思うなぁ。(…僕の以外は…)

もっともっと新世界の深い部分にこれから入り込みつつ、アジアの各都市の深層の部分とネットワークしてゆく…その気配。

今後の大阪に乞うご期待!
by fuji-studio | 2011-02-24 23:23 | ◎大阪・新世界等での活動
自分の時間に向かい合うツール
PCの画面に向き合うようになってもう20年以上…

インターネットのサービスが始まるはるか以前に最初にパソコン通信のネットワークサービスに加入したのが1988年だったのでかれこれ23年前か…。

a0010575_012980.jpgそれ以前は自分の時間に向き合うツールはもっぱら書籍とノートだった。

情報を書物とか雑誌とか新聞とかから得て、ひたすら自分なりの考えをノートに記する日々。

それが情報ツールの変化とともに徐々に変化していったことになる。

このブログを使い始めたのが2004年3月。ブログ以前はウェブサイトの利用は情報の検索や閲覧とメールと掲示板、会議室への書き込みでノートと向き合う時間もまだまだあった。


a0010575_023649.jpgしかしブログを日記代わりに使い始めて時間の隙間がブログの書き込みに費やされるようになり白いノートのページと向き合うことが少なくなった。

特に僕が気に入ってずっと使い続けていたコクヨの定番のノートのデザインがリニューアルされ、何かこころのよりどころのようなものを失い、B5版の無印のノートを使ってみたり、A5サイズのシステム手帳を使ってみたり、スケッチブックを使ってみたり…紆余曲折しながら、自分と向き合うツールを模索し続けてきた。…ってことは以前書き込んだこともある。
ツイッターを使い始めるようになり、情報の入り方、書き込み方はまた変化した。


a0010575_03467.jpg真っ白のノートに向き合う時間は外からの情報は極力制限され、過去の自分の記述の痕跡の連鎖から思考や発想ははじまる。

もしくは自分自身の内部と向き合うことから始まり、思考と指先を経由してインクの表情を通してぼくの内部は表出されるプロセスをたどる。

ちなみにそれは…行為としてとても心地いい。時間として豊かな時間だと思っている。

一方たとえばツイッター等ソーシャルメディアなどへの書き込みは、まずはじめに他者の発言が目に入り、一度脳を経由して、それへの連鎖から発言がはじまる。

あるいはモバイル端末のトップ画面を経て、アプリケーションの画面を経てキーをたたくことで言葉を探し、…正確には言葉の変換を思いながら…というプロセス。


a0010575_043386.jpgちなみに行為としては…僕にとっては不安定で焦燥感と同居し、疲労感と空虚感を伴う…かも。

前提としてノートに向き合う時は原則非公開でプライベートだが、ブログやソーシャルメディアへのつぶやきは公開…。

そのフォーマットの有効性と魅力を感じながらも、一方で自分の思考を強制する危機感もある。

やはり基本的にノートと万年筆に向き合う時間の中からしか絞り出すことのできないイメージが存在するという幻想を大切にしたいし…、それでもソーシャルメディアが持つ力の魅力も探ってゆきたいとは思っている。

それにしても、ここにきて…もしかすると相当いい付き合いになるかもしれないノートと出会った…ような気がする。

ずっと昔からあるのになぜか使ったことがなかった。

ツバメノート社製のA4サイズの無罫のノート。

なぜA4かというと、単純にちらしとか書類とかが貼り付けられる。スクラップやバインダー代わりにもなる。

しかも紙が中性紙フルースという…何?10000年の耐久性!?

イメージプランを写真にとり画像処理して企画書にするときにいつも罫線が邪魔になっていた。

どうせ、罫線通りに文字を書いたことがないから罫線はいらない。

ツバメノート株式会社というのがなんだかとても信頼できそう。万が一いい落書きができたとしたら、美術館は喜ぶかも…。

ツバメとペリカンという組み合わせもなんだかとてもいい。

…ということで、僕がディスカッションの間とかにずっとノートをとっている姿に違和感を持った人も多いと思いますが…実は手を動かさないと頭が動かない性質なんです。

だから余計にこのノート…いいかも。

とりあえず通販で10冊ぐらい買ってみようかな…

そうそう。もうひとつ。分類されて並んでゆくのがたまらないんです。これが10年後何十冊と並んでいる姿を想像すると…たまらん。
by fuji-studio | 2011-02-23 23:59 | ・思索雑感/ImageTrash
mori yu gallery 東京での展覧会
mori yu gallery 東京での展示が今日からはじまる。

a0010575_12424894.jpg2008年、サイトサンタフェ・ビエンナーレでの出品の時に、サンタフェのオペラハウスの駐車場のプロジェクト参加者が制作した作品を、最終的にドローイングとして僕が描き、サイトサンタフェの美術館で展示した後、制作者にそのドローイングをプレゼントするということを行い、新しい連鎖の形を模索しはじめた。

参加者が主体となってつくる風景や活動の体験そのものに大きな意味もあるし、同時に一枚の素描や絵画が物語るイメージにも大きな意味がある。


a0010575_12414892.jpgその後の水戸芸術館での展示の後、展示の中から抽出されたイメージを素描として落とし込みギャラリーでの展示作品として行ったのがmori-yu galleryで行った初めての展覧会。

それから2年と少し。

地域での活動とギャラリーでの活動の双方向の編集方針がようやく見え始めた…という段階かな。


a0010575_12455026.jpg地域での活動の結果発生したイメージをその記録として素描として落とし込み、再編集するという流れは、まだまだ未完成で未消化のままだが…、ここにきて素描や作品のあり方が変化しつつあり興味深い。

去年の夏に瀬戸内海の豊島で行った「藤島八十郎をつくる」という活動。


a0010575_12462175.jpgこの時は藤島八十郎が絵本作家を目指すという設定を前もって与えることで、藤島八十郎をつくるプロセスの中から発生するドキュメントを文章とともに素描として描いてゆくことが想定されていた。

結局、藤島八十郎の活動はドキュメントされる手前の状態で妙にスローペースモードに切り替えられ、活動もまだまだこれから始まる以前の状態に戻り…実際に行われたドキュメントの素描化はできなかったが…


a0010575_12465559.jpgそれでも「藤島八十郎をつくる」という活動が僕のこれまでの活動に別のベクトルを作り始めていることは確かなのだと思う。

今回のmori-yu galleryで展示されたものは「藤島八十郎をつくる」活動の中で、それぞれ役割をはたしたツールであると同時に、八十郎に託した僕自身の中に潜在するイメージでもある。

少なくとも僕自身が抱えてしまっているkaekkoシステムと八十郎システムの上にしか生成されることのないイメージであることはゆるぎない。


a0010575_12481693.jpgこのイメージを引き出すツールと地域のプロジェクト現場に作られるイメージと、僕でしか描くことのできないイメージが、ようやく整理されはじめ…まだまだ表現技術的には追いついていないが、この手法の延長に新しい地域での活動の方向性が見えはじめていることは確か。

もっともっと動きたくなったのと同時に、もっともっと描きたくなってきた。

このまま加速すればいいのに…

まだまだだなー…
by fuji-studio | 2011-02-19 12:47 | ◎ギャラリー等での活動
製品と廃棄物の中間領域 (b_a)その2
僕が1997年に出会った福岡の養鶏場跡。

もともと9m×60~100mぐらいの養鶏舎が10棟あり、養鶏を廃業した大家さんがその利用法を模索しているところに出会った。

a0010575_1575886.jpg制作スタジオとして必要な分だけ借りれるシステムを模索し、僕がそこで作業を始めると、いろいろな人の利用が連鎖し、みるみるうちに空き鶏舎は制作スタジオに変わっていった。

結局、数十名の陶芸家、木工家、大工、施工スタジオ、造形スタジオ、人形劇団、バイク工房、倉庫等いろいろな人が利用を始め、木工家が共同でギャラリーをオープンしたり、教室を行ったり…ついには大家さんがダンススタジオを手作りしてその利用が活気づいたり…気づいてみると最近の地元の地図には「芸術村」と表記されるようになっている。正式名称はRSミサカなのだけれど…。


a0010575_164417.jpg 利用しはじめて数年がたち、建物の利用が活発になり、空き部屋が無くなりつつある頃、大家さんに中間領域を作って欲しいと提案して、現在でもそのまま利用されている。

ここでの中間領域ははっきり言うと廃材置場

廃材置場には基本的に廃棄処分するにはもったいないと思われるものをこの芸術村の利用者は無料で置くことができるし、芸術村の利用者ならば、だれでもここにある素材は利用していいということになっている。

※写真は2003年頃の写真。懐かしい。当時はまだ夕方になると乗馬用の立派な馬が放し飼いで散歩していた。一人で作業しているときとか癒されたなー。 


a0010575_15111055.jpg 鹿児島の実家の改装で出てしまったたくさんのアルミサッシ(窓と窓枠)も、廃棄処分するにはあまりにもったいなかったので鹿児島からトラックで運んできて、そこにおいていた。結局大家さんがダンススタジオを作るときに全部使ってくれた。

僕もたまに木材とかパネルとか、家の隙間風を埋めるのに利用したりする。


a0010575_15114969.jpg 学生時代に廃材置場からいろいろなものを拾ってきて制作に利用したし、大学の近くには秘密の廃棄物置き場があり、これも秘密だが、後輩たちはそこに忍び込んで利用できそうなものを拾ってきてイメージづくりに役立てた。

廃材置き場には思わぬ出会いがある。


a0010575_15122555.jpg 今の地域社会のシステムではこの廃材置き場に類する中間領域がない。

去年、地元の小学校の体育館の建て替え工事に伴って体育館の床材を処分すると聞いて相当欲しかったのだが、もちろん、無視された。

※写真のグランドピアノの廃材は亡き伝説のパフォーマーの風倉匠が福岡でパフォーマンスに使い、その後作品としてミュージアム・シティ・福岡に設置した作品の処分されたもの。廃棄されるのがあまりにももったいなくてしばらく置いときました。<br clear=all>

a0010575_15132464.jpg 先月、家の横の防風林の松の木の植え替え作業をやっていて、相当立派な松の木が何本も廃棄処分されていたが、運搬の手段と置いとくところさえあれば全部もらいたかった。 

商品や製品は安全でなければならないという裏側で廃棄物は危険であるというのが常識で、廃棄物には特別な資格をもった者しか会う使うことができない…のだと思う。そこに中間領域はいまのところ用意されていない。


a0010575_15155850.jpg廃棄物処理場は廃棄物処理法によってつくられた施設であるという縛りから…だと思うが…危険な場ということにして、一般人は立ち入ることができないが、製品と廃棄物の中間領域が社会的に位置づけられることで状況は変化するのだと思う。

この養鶏場跡のスタジオも養鶏場から廃墟の間のボーダーエリアにあるとも言える。確固たる常識的な領域にないし、どこまでいっても完成することなく変化し続ける「つくる現場」でもあるし。


a0010575_15272772.jpgそのように考えるとkaekkoのシステムもVinyl Plastics Connectionのシステムも、この製品と廃棄物のborder area(b_a)から発生した活動なのかも。

昔から地域に根付いている廃品回収などのリサイクルシステムも、ある意味中間領域だが、リサイクルという単一の価値観ではなくて、もっと新しい可能性を作り出す領域として多彩に深める視点があってもいいと思う。


a0010575_1525146.jpg使わなくなった台所用品や洋服、家電、家具などを廃棄処分、あるいはリサイクルする前に、無料でやりとりできるリアルフリーマーケット(完全に無料でやりとりできる場)のようなシステムも地域には必要だと思うし、これからの大きな課題のような気がする。 


a0010575_15281320.jpgたとえば、中心市街地の商業施設の巨大な廃墟ビルが東急ハンズのような品揃えで、全く無料でやりとりできる現場ができたとしたら、そこに人はいろいろなものを持ち込み、そこからいろいろなものを持って帰る。

少なくとも人が集まる現場はできる。それをどうやって流通に結び付けるかは人と物とお金の動きをつくるマネジメント力であり、それを形にするデザイン力だったりする。


a0010575_15295162.jpgモノを作ってモノを売るという発想ではなく、クラウド的な…地域社会全体の中のネットワーク上で動く大きな経済流通の中に位置づける視座が必要なのだろうと思う。

いや、単純に「会員制のリアルフリーのゼロバザール」のよな場をつくるだけでもいいような気がするが…。

「リアルフリーのゼロバザール」いい響きだなー。使えそうですね。

ググってみたけど、ゼロバザールという言葉はまだ見当たらないですね…。やったー。リアルフリーはビールとかでありそうだけど・・・。

…そういえば、僕の周りは…生活空間にせよ仕事仲間にせよ、中間領域ばっかりだな…。
by fuji-studio | 2011-02-16 10:20 | ・思索雑感/ImageTrash
作業と仕事、そして労働の違いとその間・・・中間領域(b_a)について
先日の川西市の廃棄物処理場でのトークの時もその話をしていたし、西成でのディスカッションでも、近江八幡でも話をした。

a0010575_13919.jpg…去年の夏の豊島の現場でも感じていたモヤモヤ…中間領域…ボーダーエリア=(b_a)について。

常識的にくっきりと線引きされ、意図的に、あるいは無自覚に排除されてきたのが(b_a)なのではないかと…

たとえば、商品あるいは製品から廃棄物に移動する間の(b_a)、就学と就職との、国と国の、海と海岸の、作業と労働の、私有地と道路の、就業者と退職者の、友人と恋人との、境界線によって明確に分ける理由は管理上の都合によるのだろうと思う。おそらく法律とか規制とかと税金とか責任とか義務とかと無関係ではない。


a0010575_1394436.jpg豊島もそうだったが、地方には「仕事がない」と多くの人が嘆く。実際にそこで充分な現金収入を得ることができる仕事の選択の幅は狭いのかもしれないが、実は膨大な量の「作業」が潜伏している。

先人が開拓してきた棚田をはじめ、田畑に手をいれる作業。

人が暮らすことがなくなった空き家や空き地の草刈りや庭いじりや掃除整備。墓守や伝統的祭事。

森林の間伐や海岸清掃、道路や共有地の清掃整備…


a0010575_1403154.jpg清掃整備に代表されることだと思うが…単純に乱雑で荒れ放題の人の手を離れたところに手を入れる作業はその場の質を変えてしまう。

台所の掃除をするだけでも家族の中での妻との関係が少しは良くなるように、作業の積み重ねは周辺環境を変化させ、周辺の人との関係を変えてくれる。

自然成長型の(荒れ放題ともいわれる)庭を好んで抱えていた僕としては何度も経験していることだが…荒れ放題の庭は近隣に暮らす人に不安を不満を与えるが、上手に手入れされた庭を嫌がる人はいない。


a0010575_141470.jpgとにかく、作業は周辺との関係をよくするという意味でも自分自身の気持ちを豊かにしてくれる。

それが仕事に繋がるかどうかは別の話として、活きるうえで(生きるうえで)とても大切な行為が作業だと思う。

言葉のイメージとしては「仕事」とは「仕えている」事なのだろう。(字のままじゃん)

根が仕事人間だし、濃厚な仕事人間遺伝子を受け継いでいるので体に染みついている言葉。自分のためではあるが、成長のためとか収入のためとか責任感であるとかと無縁ではなさそう。しかし、仕事を重ねると収入と直結しているイメージがあり、英語だとbusiness。

その収入と直結したイメージがあるために、収入のない仕事を行うことは許されない気がする。


a0010575_141442.jpg労働という言葉も嫌いではないし、性質として労働者の類だと思っている。英語のイメージではLaborかな。

なんとなくしんどそうだし、労働という言葉を聞いただけで労働後のおいしい一杯のイメージがこみあげてくる。

それだけにねぎらう(労)べき働きだろうから大変そうでどちらかというとやらされている仕事のイメージがあるし、重たいイメージもある。

苦を労ったり、働きを労ったりとのイメージからだと思うが、大変な分だけそれだけ大きな対価を得てしかるべきというイメージがある。


a0010575_1422760.jpgことばのイメージからするとしんどさでは作業<仕事<労働だし、対価の大きさでも作業<仕事<労働…しかしこれは僕の感覚で、それぞれの体験により、実はその感覚は人それぞれ全く違うのかもしれない。

とにかく、対価や収入に関係なく、作業は自らを豊かにし、周辺との関係を変えるという事実が地域社会の中で無視され排除されてきたのではないかという疑問…


a0010575_143512.jpg地域社会にはやるべき作業で溢れているというのに…仕事と労働の束縛で作業の機会と時間が奪われているのではないか…とか…

労働と仕事から得る金銭の束縛が無償の作業から拡がる自分自身の可能性を奪い取っているのではないかという疑念…

労働には労働基準法があり、いろいろと社会的に多くのフォーマットがあり、社会的に保障がありそうな気がするが、逆に作業についての規制は緩やかな分、保障とかもなさそう…。


a0010575_1475232.jpgもちろん僕のモヤモヤは言葉の問題にあるのではない。

個人的な業を作る「作業」と「仕事・労働」の間に無限に広がる様々な社会への関わる態度について。

仕事や労働の常識や法律などによって見えなく隠れている膨大な作業周辺のボーダーエリアに何かが隠れているのではないかという感覚である。

全国各地のプロジェクトの現場で無償の作業に没頭し、それぞれの生活の深みや豊かさを模索する多層な年齢の人々の態度に出会う度、金銭では買うことのできない貴重な時間の存在を確信する一方で、過酷な労働や仕事に従事し、金銭的対価を多く得ている人ほど、商品化された娯楽の時間を当たり前のように高額で購入するものだと信じさせられている人が多いのではないかと感じたりもする。

さらに…釜ヶ崎等に集まる高齢者が求める労働の対価として存在する見えない搾取…

働けば働くほど奪われてゆくものがあるし、働かなければ失ってゆくものもある。

他人ごとではなく、僕自身についても…何を奪われて何を得ることができているのかを見極めるのはとても難しい。

その答えはボーダー(境界)を見つめることで見えてくるような気がしている。

…いや、単に…個人的になんでもない領域、ボーダーが好きなのかもしれない。

もっと厳密に言えば…何でもない領域からなにか凄いことを作り出すのがやめられない性質なのかな…

※写真は先日西成の釜ヶ崎周辺を歩いた時のスナップ。窓を眺めて中の部屋の様子を想像してみると興味深い。釜ヶ崎そのものがボーダーエリア。作業したい。いじりたい。

by fuji-studio | 2011-02-14 23:21 | ・思索雑感/ImageTrash
近江八幡のボーダレス・アートミュージアムNO-MAでの小暮さんとのトーク
近江八幡のボーダレス・
アートミュージアムNO-MA
の活動はたまに情報の中では耳にしていたが、足を運ぶのははじめて。

a0010575_22153657.jpg小暮さんとのトークセッションも実ははじめてだったのだけれど、なぜだかとてもリラックスして、家族や旧友達と久しぶりに話すような雰囲気でのディスカッション。

特に何を語ろうと決めていたわけでもなく、プロジェクターも用意してもらい、画像も必要に応じていつでも出せる状態にしながらのトークセッションだったが、実はほとんど画像を使うこともなく、ただ小暮さんとの話のテンポを楽しんだ。


a0010575_22161411.jpg青年海外協力隊の同期のランドスケープデザイナーと出会ったり、昔僕らが行っていた演劇を思い出すようなテンションのパフォーマーに出会ったり、なんだかとてもいろいろな面でシンクロしているのが興味深かった。

トークの後で、近江八幡に新しい人格を発生させるプロジェクトの話が飛び出したりしたが、いやー、やりたいなー。そういう場があれば、ぜひ。


a0010575_22163698.jpg瀬戸内の豊島とリンクして…あるいはほかの地域とリンクを作り出す「藤島八十郎系列」の面白い活動のネットワークを作るイメージが見えてくるのだけど…。意外なところで「近藤八十郎」の登場とか・・・?

そういえば藤島八十郎にほとんど毎日手紙を出し続けてくれたハルハルさんも滋賀在住だったよね。

・・・ちなみに僕が話た豊醸化は造語ですが…お酒が醸し出される醸すという字を個人的には好んでいます。豊穣でも豊饒でももちろんいいのですが、豊醸の方がよだれが出そう…
by fuji-studio | 2011-02-12 23:48 | ・講座/対話/研究会
九州新幹線開通をきっかけとした九州アートツーリズムの勉強会。
福岡のアイランドシティの福岡ビジネス創造センターで九州のアートツーリズムの研究会が開催される。

テーマは九州新幹線が開通直前に迫り、九州のアートツーリズムを考えるというような勉強会だったが、ゲストで登場した顔ぶれが興味深かった。鹿児島のテレビ局で音声を担当しているという万善さんと、熊本の中心市街地で本屋をやっている長崎さん。そしてミュージアムシティプロジェクト時代から福岡でのアートプロジェクトをコーディネートしている宮本さんと新博多駅の駅ビルの企画運営を行っている鮓本さん。

一見妙な顔ぶれでどこがアートツーリズムなんだろう…?と疑問が湧き出るが、実はそれがとても大切な顔ぶれたったことがジワーっと分かってくる。

鹿児島テレビが毎年2回づつ行っているナマイキvoiceのアートマーケット。それについての僕の報告ブログを見て今回のコーディネーターの徳永君が僕に連絡してきた。

テレビ局が番組制作の延長で行い始めたアートマーケットだが、もうすでにそれはテレビ局の番組制作の領域を超えて、鹿児島の表現者たちにとってとても重要なアートシステムとして連鎖しているという現状。

僕はこの勉強会のおかげで初めて知ることができたが、熊本の長崎書店。書店としてやるべきことは何かという課題にちゃんと向き合っているがゆえに、書店というあり方を超えてギャラリーをつくってみたり、ホールをつくってみたり、熊本出身者100名の推薦図書をいじりたおしたイベントを仕掛けてみたり…熊本の人達が感性を育てるうえでとても重要な拠点としてのみならず、ある種のシステムとして展開し、注目されている。

新博多駅も既成の駅ビルの概念を拡張し、九州各地に広がる魅力的活動拠点と連携をするための拠点として捉え、かなりオープンな受け入れ態勢を滲み出している。

そして九州アートゲートというシステムを模索する宮本さんは福岡でのあるいは博多駅でのアーティストの活動を仕掛けるというよりは、そのネットワーク形成のシステムを作り出そうとしている。

とにかく…それぞれがそれぞれの常識的な領域を超えて何かつぎの新しい地平を求め、連携の中で見えない価値を紡いでゆこうとしている態度がにじみ出ているディスカッションだった。

新幹線を動脈として捉えその血流がよくなると静脈や毛細血管の血流もよくなるはずだしそうあるべきだと思っている。

毛細血管の先にある九州各地に潜在するポイント(拠点?)…地域資源とそこで暮らす人とそこから発生する大切な活動に丁寧に向き合っている宝物としっかり適正な状態で繋がるような流れが醸成されることが一番たいせつなのではないかと思っている。

それが見えるステーションであって欲しい。
by fuji-studio | 2011-02-10 23:37 | ・講座/対話/研究会