カテゴリ:・縁の深い人・家族( 28 )
ついに手に入れました。涙出るほど 凄いです
a0010575_12155420.jpg1986年、僕がパプアニューギニア芸術学校で働き始めて、初めてかかってきた日本からの国際電話。そのとき繋がり難い電話の向こうで一生懸命話してくれたのが黒田さん。それが最初の出会い。

その後帰国して、日本の田舎で行われる小さなパフォーマンスや、かなりコアな思いもよらぬ現場で必ず出会い、不思議な人だと思っていた。

1994年、僕が鹿児島で石橋保存運動で疲弊している頃、鹿児島に黒田さんが訪ねてきてその秋に開催されるアジア美術展への出品を依頼された。

そのアジア美術展が僕の人生を変えた。

知らなかったアジア各国の状況に視点が移り、そこで活動する作家たちにシンクロするものを感じ、そこと関係を持ちたいと思った。

しかも…黒田さんをはじめ、当時の福岡市美術館学芸員は相当のカエルグッズコレクター…

結果として黒田さんが活動する福岡を活動の拠点とすることに決めたのが1996年。当時黒田さんは美術館の学芸員の仕事をしながら、福岡市内を利用したアートプロジェクト、ミュージアム・シティ・プロジェクトの中心メンバーとして活動していて、僕もそこで活動を始めた。

99年に福岡アジア美術館開館を控え、仕事が忙しくなる裏側で、黒田さんの興味とライフワークが九州派などのいろいろな地域で行われた前衛運動に集中している姿を目撃するにつれ、その視点と態度に共感しつつ、彼の視点の集積を期待するようになった。

そしていよいよここに登場!…という感じ。
黒ダライ児 「肉体のアナーキズム」
1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈

なぜだかとてもうれしいし誇らしい。

この本の中にはそれぞれの時代の…それぞれの地域の…これまでは大きな声で語られてこなかった大切な宝物が込められている。

それを丁寧に敬意をはらいながら集めていった黒田さんもすごいが、その情報を提供した関係者やその行動を行った活動者・表現者が闘ってきたことの厚みがすごい。

それぞれの表現者たちの人生の厚みと重みがこの本となって表現されていて…

とにかく、もったいなくて仕方ない。

特に僕にとってはこの時期…精神の支えの一冊を手に入れたことの喜びが大きい。

現代社会のズレの中で暮らす生活者として、表現の現場にかかわる表現者として、絶対に見失っていはいけない精神のありようがここにあるような気がして仕方ない…

まだ読んでいないんだけど…
by fuji-studio | 2010-10-06 12:15 | ・縁の深い人・家族
小山田徹と高嶺格だけど・・本当はもっと多くの複雑な関係が・・・
今回、青森の国際芸術センターで企画されている反応連鎖・・・

a0010575_11284215.jpg鹿児島の県立甲南高等学校の美術部の後輩で京都市立芸術大学のバレーボール部、演劇部といろいろな共通項が多いので今回不思議がられて企画され、家族という裏のテーマを持ちながら滞在制作が続いている。 

小山田徹は以前もこのブログで紹介したことがあったが、とにかく二人での出来事を本にしたとすると数冊は必要なほど関わりが深く、彼が高校に入学してきた時から始まり・・・嵯峨野のアパート、上桂の一軒家と生活もともにしながら、クラブ活動での演劇部、バレーボール部と一緒にすごし紆余曲折・・・。 

そんな時期に鹿児島で開催されていた高校生対象の美術系の実技講座の講師をしていた時期に学生として受講していたのが美術部の後輩の高嶺君。


a0010575_11293962.jpg実は彼が入学したと同時に僕はパプアニューギニアに2年間赴任していたので彼の1,2年の時期を知らない。 ただし、その時期ダムタイプが美術系の情報に載り流通し始めていたのでいろいろな角度から彼らの活動を知ることができて、その中に高嶺も関わっていることは知っていた。

彼が3年になった時、日本に帰国してから大学のバレーボール部のOBとして長野県での夏合宿に顔を出したり、金沢での四芸祭(4つの公立美術大学のクラブ活動の交流会のようなもの)に参加したりして後輩達と一緒にすごし、改めて高嶺の本領を知り始める。 

実は小山田と高嶺の間に何人もの関係する後輩たちがいる。

出身高校は違うが、鹿児島の美術実技講習会で教えることで出会い、京都市立芸術大学に入った瞬間から無理やりバレー部、演劇部と入部させられ、活動に巻き込まれ、表には絶対立たないながらも創設当時からダムタイプと深く関わっているT君とか、高校美術部の後輩で演劇部には巻き込まれずにすんだものの、バレー部に巻き込まれてそのまま工芸の世界に入ったU君とか、同じ講習会経由で知り合い、京都の家で浪人生として過ごし、当時のプロジェクトをいろいろ手伝ってもらいつつ京都芸大に入学し、バレーボール部に入学した高嶺と同級生のKさんとか・・・いろいろな関係がそれぞれの活動の連鎖を生み出し、それぞれにとって大切な生活を構築してきた。

鹿児島出身ではないにしろ、当時バレーボール部と演劇と掛け持ちしていたメンバーはぼくの同世代で4~5名したし、後輩たちになるといろいろな時期の違いはあるが10名ぐらいはいたのかなぁ。


a0010575_11301391.jpg演劇部ではないにしろ、バレー部の一学年下の後輩でかなり年上のT君は映画研究会の中心メンバーとして映画を作っていたので周辺のメンバーはクラブ活動を越えていろいろ関わっていたし、僕が演劇部引退後につくった京都情報社は当時バレー部に入部してきたメンバーとの関係で無理やり立ち上げた。

京都情報社というシクミがメンバーを固定していない緩やかなつながりで成立させていた活動だったので、演劇部とかバレー部とか染織科とかの枠組みとは関係なく、それぞれが、それぞれの手法で人の繋がりに頼りながら、とにかくいろいろな活動を加速していた感じがある。

個人的にはバレー部・演劇部を引退してからも、漫画研究会や軽音楽部に関わってバンドのようなことをしていたり、漫画をつくってみたり、自宅の2階に茶室をつくり、軽茶倶楽部(カルチャクラブ)という学外の部活のようなものを作ったりしていたので、活動の巾はより複雑になっていた。


a0010575_11305058.jpg同時にバレー部の繋がりで展覧会を行ったり、それを越えて京都市内でのアートプロジェクトを企画したり、東京芸大バレー部との関係で東京周辺都市での展覧会に誘われたり、クラブ活動ベースだった人の繋がりを核としていろいろな活動の繋がりが発生し・・・その頃から同時にいくつもの仕事をやりつつ、動き回りつつ考えつつ、完成しない活動の連鎖はその頃から続いているのだと思う。

当時できたばかりの京都駅新幹線口の商業施設での何度か行ったゴジラ系パフォーマンスとかにも、バレー部に入部してしまった伊達伸明とかヤノベケンジとかがいきなり手伝わされてしまったり、当時はバレー部でしか接点がなかった藤本隆行とか江村耕一とかは、結局数年経ってからそれぞれの卒業後の経験を活かしてダムタイプのメンバーとなったり、キュピキュピの活動を立ち上げたりとなんだか戻ってきた感じがしていた。

京都情報社で中心的存在だった中島隆章の活動の連鎖から発生したようにも見える石橋義正が作った映画「狂わせたいの」ができた当時、バレー部をはじめとして昔の知り合いがたくさん関わっているのでのけぞってしまったこともある。


a0010575_11312143.jpgとにかく、当時、大学生でありながら、学生の活動を越えていろいろ動いていた空気を共有していて、それは何なのかと昔からよく聞かれるたびに、その分析しづらい複雑な関係といろいろな出来事を語ろうとしてきたが、そのたびに感じてきたことがいくつかある。

ひとつは誰と話すかによって語るべき内容が変化してゆくということ。

活動が連鎖してゆく段階で情報の中では無名だけど、実はとても要な人が横にいたということ。

活動が加速する状況には横で無条件に面白がってくれている視線と、厳しく批判しもっと大切な活動へと導く視線が並列しているということ。

大きなビジョンとか価値観とか、どうあるべきか・・・とか重要なコンセプトだとか、権威だとか・・・とにかく勝手な振る舞いを抑制しようとする重石をかわせる状況にあること。

それぞれが何かを引き受けた瞬間からかなり強い意志を持ってなんらかの形にしようとする態度を持ち、多くの時間と労力を費やすことに疑問を持たないこと。

僕の周辺にはそんな人が多かったような気がするなぁ。
by fuji-studio | 2010-08-09 11:47 | ・縁の深い人・家族
六本木クロッシングとダムタイプ。 ヒトとシクミと・・・
森美術館で開催されている六本木クロッシングダムタイプの94年ごろのパフォーマンス「S/N」の記録映像が出品されている。

a0010575_9583523.jpg15年ぶりに彼らの姿に出会って涙が止まらず…

いろいろな記憶や想いが駆け巡る・・・

1995年に古橋悌二君がHIV感染後の発病で亡くなった。

ちょうど地下鉄サリン事件がおこり、阪神淡路大震災がおこった年・・・もう15年経ったんだ・・・。

そのことは業界の一部の人にとっては重大な出来事だったが、その裏側で彼の死の一週間前に悌二と同じ病原体によって僕らの友人のまさみ君がアメリカで静かに息をひきとったことはあまり知られていない。

・・・・・・敵は突然、目の前に立ち現れる・・・・・・

いろいろな活動が発生し、連鎖する裏側には必ずキーとなる重要人物が存在する。

しかし、多くの重要な人については語られることがなく、・・・少しズレていても・・・声の大きな人や雄弁に語り、言葉にしやすい人のことだけが記録され流通するという事実・・・。

僕らがいた80年代の京都市立芸術大学から異端な表現者が多く発生している背景として、まさみ君の存在が重要だった・・・と、僕は確信している。


a0010575_1226392.jpgもちろん、彼ひとりの力ではない。

多くのキャラクターが複雑にネットワーク状に関係していたのも事実・・・。

まさみの影響を第一期とすれば、その連鎖の悌二の影響を第二期、その周辺の影響を第三期と捉えている。(・・・もちろんそんなに単純に分けられるものでもないが・・・)

そして、不思議なことに、その感覚は世代を超えて一部の若い作家にも浸透していると感じることがある。

彼は作家として作品を残しているわけでもなく、(僕の自宅には彼の写真作品を大切に飾っているが・・)作家としての活動経験を持っているわけでもない。 

だからこそ・・・何にもとらわれず、自由な立場で振る舞い、人が積み上げてきたものをいとも簡単に否定し、打ち崩し・・・自分の中に発生する違和感に向き合う感性は当時そこに関係していた人・・・当時彼が在籍した構想設計の映像設計(写真や映像の専攻)の中でも劇団の中でも・・・多くの人に、じわっと染み入る影響を与えていたと思う。

そして彼は多くの人に愛されていた。(僕にとっては憎めない天敵のような存在だったが・・・)

大学卒業後、彼は一流商社のバイヤーとしてニューヨークで天性の仕事と出会い、活動するようになり・・・アメリカでの影響力を持つようになり・・・


a0010575_12281766.jpgS/Nの記録映像の中でまさみとの再開のことを語る悌二の姿が・・・何かを必死に超えようとして語りかける姿が・・・僕にとっては感動的に美しく、涙なしでは見られなかった・・・。

しかし、美術史において彼のことが語られることはない。

ダムタイプのことを語り、悌二のことを語り、関西のアーティストのネットワークについて語られる機会があっても、誰もまさみについて語らない。そのことに対する違和感・・・それがひとつめのキーポイント

僕が大学に入学し、クラスわけされ、たまたま近くに座っていたのが高校卒業したてのまさみ君。

それから彼に巻き込まれ、クラスの仲間と一緒にパフォーマンスのようなことをし始め・・・、大学の劇団に入団し、彼のわがままに振り回されて大学時代をすごし、何よりも僕自身が大きな影響を受けている。

演劇活動を手段としつつも、僕らは彼の感性を通して、それぞれのセクシャリティに向き合い、悩み、闘った。

社会通念や常識とされていることを疑い、自分達の活動をつくろうともがいた。(もがいているだけで、形になるものはつまらないものばかりだったが・・・)

・・・そして懸命に演じていた・・・

そんな最中、1981年、僕らが大学3年の時に入学してきたのが悌二とか小山田とかbubuとか・・・その後ダムタイプと名前を変えて活動を展開するメンバー。

a0010575_12285478.jpg悌二は当初劇団活動には消極的で、むしろ音楽のライブ活動で際立ったパフォーマンスを見せていた。

一緒に音楽をやっていたメンバーが僕らの活動に引き込まれ関わるようになり・・・彼もズルズルと僕らの活動に引き込まれていった。

当時周りで流行っていた劇団の集団活動的ありかたに僕らは疑問を持っていて、新しい活動の方向性を模索する中・・・当時演劇界で注目されていた国際演劇祭「利賀フェスティバル」に出会い、夏合宿の名目で毎年通い始める。

そのことがキーポイントのふたつめ

彼ら後輩達は利賀フェスで出会った海外のパフォーマンスに感銘をうけ、大きな影響を受けはじめていた。

僕らが4年の秋に劇団を引退し彼らに引渡し、僕は劇団とは別の、ゆるゆるのパフォーマンスユニット「京都情報社」をつくり活動をはじめ、街での活動へと志向していった。

そんな1983年8月・・・僕の同級生と後輩の学生を中心に事務局をつくり、京都市内の5箇所のギャラリーやライブハウス、商業ビル、そして商店街、鴨川を使ったいわゆるアートプロジェクト「ART NET WORK'83 さまざまな相互作用」というシクミを企画し、実施した。

僕がこいのぼり事件をおこしたのはその展覧会のオープニング当日。


a0010575_12294791.jpgそのオープニングレセプションの会場で、当時大学3年だった悌二君が友人とのユニット「古橋悌二ORG.」でパフォーマンスを行うことになった。

パフォーマンスは人がくぐれるぐらいのフレームに仕掛けられたゴムに悌二自身がからまって・・・そこから逃れようとする姿を・・ライブ演奏の中で繰り返すというもの・・・

その姿が印象的でそのときの彼の表情がそのときのライブハウスの喧騒のイメージとともに僕の記憶に刻みこまれている。

彼は自分を取り込もうとする社会の常識やシステムに対抗し、そこから抜け出ようともがいているいように見えた。

劇団を解体し、ダムタイプシアター(のちのダムタイプ)が誕生するのは翌年のこと。

彼はその後の活動も一貫して自分自身を成立させている境界線をいじってきたのだと思っている。

ここで僕が話せるのは残念ながら彼の表現についてではない。

僕の興味は表現のシクミとそのフォーマットに向かってしまう・・・。

個人的な表現行為が社会的な活動として加速するにはその時々に魅力的な社会的なシクミが必要だということ・・・。

六本木クロッシングの関連ディスカッションでキュレイター達が話しているのを聞きながらも、90年以降の表現活動の周辺のシクミについて語られていないことに対して違和感を持った。


a0010575_12314862.jpgダムタイプが活動を発生、連鎖、継続、展開してきた背景には80年代以降の国際演劇祭というフレームが大きく関与していると思っている。

利賀村で知り合った人の連鎖が彼らを海外の国際演劇祭へと導いた。

今回の六本木クロッシングの出品作家を見渡してみると、90年以降に定着してきた表現活動にまつわる様々なシクミが見えてきて興味深い。

海外でのアーティストインレジデンス、ビエンナーレなどの国際展、地域系アートプロジェクト、オルタナティブスペースやライブハウスでの活動、インターネット上でのYouTubeやUstreamなどのシステム、国際演劇祭や映画・映像祭、そしてストリートカルチャー等様々なサブカルチャーの独自のネットワークシステム・・・

ギャラリー、美術館、アートマーケット、公募展というしくみと並列に、実は様々な表現活動のシクミが発生し、それらが地域社会に深く浸透し、更新されている事実。

そこについて深く語られることが・・・なぜだか少ない。

・・・・・

15年ぶりに語る悌二やbubuや後輩達の姿を見て、彼らの若さに涙し・・それらの活動がまさかこんな形で2010年の今に活きるとは・・・と、まさみをはじめ多くの人の連鎖がもたらす力を確信し、同時にそれを加速する表現のシクミの多層化への興味がふつふつと湧き出てきた・・・

六本木クロッシングはなんと7月4日まで展覧会が続きます。
その会場の最後の部屋にダムタイプのS/Nの記録映像が出品されています。
85分の長編ですが、是非時間をとって見てほしい映像です。
確か20時30分からの上映が確か最後の上映だったと思う・・・。



※80~82年頃のまさみや悌二の写真をランダムに掲載してみました。この画像に関しては無断転載などしないでね。
by fuji-studio | 2010-04-04 23:45 | ・縁の深い人・家族
叔母のお別れ会と父の初盆と関係性のテクノロジー
今年のお盆は父親と姉の初盆とあって、はじめて体験する本気のお盆。

a0010575_8331427.jpg重ねて本家の叔母が皆既日食のころに奄美大島で99歳で亡くなって、そのお別れ会と本家の法要もこの盆の時期にあわせておこなわれる。


a0010575_23284748.jpgこれまでは本家の墓しかなかったので、お盆といっても本家のお墓と仏壇で爺さんと婆さんのお参りをするだけだった。
しかし、今年から父親の墓を新しくつくったので、それなりにちゃんとしなければならない気がして、いろいろと調べつつ、母親と姉達の意見を形にして、それなりの初盆をやってみる。


a0010575_23292196.jpg藤の花の紋の入った提灯を購入し、霊を迎え入れる棚を組み、きゅうりの馬となすびの牛を飾り、・・・いつごろだれが流通させたかわからないが・・・、とりあえず世間並の風習を構築することに。

13日より墓にも提灯をたて、玄関で迎え火を行い霊を迎え入れ、14日には朝から家族で巻き寿司や煮しめをつくり、親戚縁者が40名程度集まり、みなで食事会をし、お坊さんに法要をしてもらって、15日にはまた送り火のあと墓に提灯をたてて、霊を送る簡単な家族での食事会を墓で行う。


a0010575_2330959.jpgウェブサイトで調べると浄土真宗には「先祖の霊が戻ってくるというのはない」と書いているので、かなり矛盾した行動を行っているような気がするが、なかなか集まれない親戚縁者が集まって、いろいろ増えたり、成長したりする姿を確認しながら、自分と同じ遺伝子を持つイメージを共有するのはとても大切なことだと思う。


a0010575_23303829.jpg霊が戻るというストーリーをフォローするさまざまなツールや手続きは、一連の作業や行為に説得力をもたせ、それほどまでして、縁や関係性がいかに大切であるかということを行動として伝えようとしている。

精神や魂を個人の中に存在させるためにその関係性を作り出すテクノロジーだと捉えると深く納得する。

存在は関係の中にしかない・・・。


a0010575_2331551.jpg叔母と父親の法事のおかげでこの数日間に、いつもはなかなか会う事のない親戚縁者に何度となく顔を合わせ、対話を楽しむ。

それにしても・・・墓場で数千、数万の墓を眺めてみても、初盆の飾りをしているところは見当たらない。

僕らのやり方が一般的ではないのかもしれないが、この風習がなくなってきているのかなと思うと、親戚縁者の関係性を深める技術の衰退を知る。

特に場所の限られた都市部ではなかなか何十人も集まる自宅もなければ墓もない。場がなければシステムは起動しないわけだから、ますます無縁化は進行する。

つまり、血縁関係において、個人の魂の存在は関係性の薄れに比例して薄れているということか・・・。
by fuji-studio | 2009-08-15 23:56 | ・縁の深い人・家族
おさめつなぐところ。
お墓というと先祖代々の墓というイメージがあるが・・・僕自身は先祖代々の墓というものに縁がなかったことは以前話をしたことがある。

a0010575_0343761.jpg僕が子どものころ、父方の祖父母は元気だったのでもちろん墓とは縁がなかったし、父親は自分の祖父母の墓がどこにあるかすら知らなかった。

まあ、とにかく墓のシステムについてはいろいろと違和感はあるものの、父親が永代権を購入した墓地だけを残して他界したので、僕が新しく墓をつくることになり、この半年ほどいろいろ動いてきた。


a0010575_0362565.jpg結果として石材店の思惑を大事にした結果、余計な納骨部分の細工が付加されてしまい、最初のイメージに戻したいところも多々あるが、まあまあ、なかなかのお墓が結果として完成し、無事納骨が終了する。

この墓にはとりあえず僕も含め数名は入る予定があり、おそらくあと数十年はお参りされることになる。

・・しかし、それ以降はどうなるのかわからない・・・

墓があるにせよ、ないにせよ、僕がここにいるという事実は脈々と続く生命発生からの連鎖の結果であることには変わりはないし、この世での「活きる」結果が次の縁への連鎖を促す。

その人体を通した連鎖の記録をデジタルではなく、石碑という現在最も記録性が保障されたメディアでおさめつなぐ場なのだと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・

考えてみると祖父母はそれぞれ長男の墓に入るとしても、次男三男がそれぞれお墓を作っていったとすると、1世代でふたつの墓が増えることになる。仮にそれが50世代以上続くと地球のすべては墓で覆われてしまうことになる・・・

ありえない・・・。

たぶん3世代ほどで価値観は大きく変化し、まったく違う弔いの様式が常識化されているのだと思う・・・。

3世代前の人からすれば・・・葬儀屋が葬儀のすべてを仕切り、駐車場完備の葬儀場がそれぞれの地域の中心で際立った存在として日々賑わっている状況なんて想像できなかっただろうし・・・。
by fuji-studio | 2009-07-18 23:00 | ・縁の深い人・家族
7月の納骨に間に合わせるように墓を作らなければならないということで、鹿児島で墓石屋と最終的な打ち合わせ。

a0010575_039835.jpg墓地の都合やお坊さんの意見や家族親族の意見を尊重しながらも、墓石屋のボキャブラリーを参考にしつつ、墓石を含む墓地のシステムの違和感に向いながら、そのシステムから外れることなく・・・微妙な解に導かれてゆく。

そんなかんじ。

ことのほか石材店が乗り気で、それなりに質素で清虚で意思のあるものが見えてきた。・・・かな。
by fuji-studio | 2009-06-21 19:42 | ・縁の深い人・家族
水戸芸術館の森さんの最後の日の前日。
いわきからの帰り道、水戸芸術館に立ち寄る。

a0010575_2262525.jpg去年水戸芸術館で開催したかえっこフォーラムの記録集を印刷できそうだということで打ち合わせ。

その後、水戸芸術館の森さんの送別会があり、それに顔を出す。


a0010575_226538.jpg水戸芸術館の開館準備室から20年以上勤めてきたところを離れて東京都の仕事へと移動するのだとか。・・・と他人事のように話しているが、・・・実は他人事ではない。

水戸でもこれまでいろいろと一緒に仕事をさせてもらってきたが、どちらかというと、もっと本格的に一緒に仕事をする・・・かもしれない現場への移動・・・ということになる。

森司との付き合いは僕がパプアニューギニアに行く前の年、1985年からの付き合いになるので、24年・・・四半世紀・・・長いなー。


a0010575_2273715.jpg水戸芸術館ではこれまで、91年お米の砂漠、97年ヤセ犬の散歩、99年バクの夢、2002年Vinyl Plastics Connection、そして去年のHappy Forest、かえっこフォーラムと、僕自身の転換期の重要な節目で、僕としては疎遠になりがちな美術館との関係性の課題を与えられてきたような気がする。


a0010575_228494.jpgそれ以外に90年代後半のトヨタ・アートマネジメント講座での全国各地での現場や、筑前深江アーツキャンプ、去年のサイトサンタフェビエンナーレ北本アーツキャンプでも一緒に動いてきた。

なかなか周辺の人と共有することができない現在の美術にまつわる問題を、一緒に考えてゆける数少ない友人だと思う。

水戸芸術館を拠点としてこれまで行ってきたことの達成感と何かが始まる予感・・・そんなことを感じさせる送別会の現場に居合わせることができて、結構感動的でした。

お疲れ様でした。そしてこれからもよろしく。
by fuji-studio | 2009-03-29 23:54 | ・縁の深い人・家族
shimabukuの展覧会
もともと島袋だったが、最近はドイツ在住のアーティストShimabukuになりつつある。

a0010575_11511047.jpg外苑前のワタリウム美術館で島袋が展覧会を行っているという話は本人からも聞いていたが、東京まではゆくのだけれど、いつも東京を経由するときはほとんど時間の隙間がなく、美術館に行くことはなかった。

そういえば、90年代前半から後半にかけてよく家にも遊びに来てくれて、その頃の活動はよく知っているつもりだったが、国際的に有名な作家になってからの彼の活動をほとんど目にしたことはなかった。

東京に行くついでに一泊宿泊を前倒しして久しぶりに展覧会を楽しむことに。


a0010575_1153333.jpgさすが! ツボを心得た無駄のない展示。

僕がゴタゴタと余計な動きばかりをしているのに比べて、熟練工のようにそぎ落とされた作品が並ぶ。 

フィッシュとチップスの映像を見ていて、心が洗われるような妙な気になり涙が出てしまった。

ただのジャガイモが水中でぷかぷか漂う映像でしかないのに・・・迂闊にも・・・。


a0010575_11532836.jpg昔からサッカーファンを自負していたが、まさにスポーツ選手のようにそぎ落とされた振る舞いを目指して・・・それを身に着けてきたアーティストだったんだな・・・との感想。

とてもうれしくなる展覧会だった。

屋外階段のところに花のお茶を携帯電話で注文できるとの表示があったので、これも作品のひとつかなと思い、体験しないことにはなにも見えないので電話して注文してみる。

どこかで聞き覚えのある声で応対されて、実際にお茶をもってきたのは和多利浩一さん。

久しぶりだったので、そのまま話し込んで、地階のカフェでまた話し込んでしまって・・・あ! 300円のお茶代払うの忘れてしまった!

ワタリウム美術館での島袋道浩の展覧会は3月15日まで。
by fuji-studio | 2009-02-06 23:04 | ・縁の深い人・家族
15年ぶりのポートフォーリオ
韓国に新しいアートセンターができるのだとか。そこからポートフォリオを送ってくれと連絡が入る。

そういえば、ポートフォーリオなんて随分とつくったことがない。

a0010575_1828618.jpg学生時代からとにかく妙なファイルはいろいろ作ってきた。こいのぼり、ゴジラ、なまず・・・とビニプラ、かえっこにいたるまで、妙な古くなった作品ファイルはプロジェクトごとに50冊程度は残っている。資料などを閉じたファイルは100冊以上・・・。これってどうすんのかな。


a0010575_18282950.jpgところが作品がズラズラと見れるいわゆるプレゼン用のファイルは・・・1994年でとまったものが一冊。あ、かろうじて1996年までのファイルがあった。もう15年近くも作っていない。

昔は資料を送ってくれと頼まれればコンビニに走り、コピーをとって、100均で買いだめていたクリアファイルにどどっと挟み込み、速達で送っていた。結構毎週1冊ぐらいは頼まれていたような気がする。

2000年、ビニプラプロジェクト以降はインターネットのウェブサイトで資料を公開するようになり、2003年からgeco.jpのサイトを作りはじめてから、ぐっと資料請求が少なくなり、2004年以降このブログを公開するようになって、資料請求と同時にスケジュールの問い合わせも減ってきた。

プロジェクトごとにファイルを作る感覚でプロジェクトごとにブログを作ってきたんだな・・・。

・・・ということで、ファイルがサイトに変わったことをあらためて認識する。

で、韓国から資料をと頼まれて、仕方ないのでとりあえず、日本語ページだがサイト上にポートフォーリオ代わりのものを作ってみる。

しかし、この15年間、まともなポートフォリオなしで仕事していたなんて・・・営業したことがない証拠ですね。・・・ということは・・・貧乏な証拠ですね・・・。

で、ひさしぶりにウェブページをいじってみる。随分と放置されたままのページがあることに気づき反省しきり。ごめんなさい。ああ、ここにも時間がほしいな。

とにかく、凝りだすときりがないので、シンプルなレイアウトのページだけをドドドッツとつくってみる。

英語にしなければならないのかな・・・英語にして仕事が増えると嫌だな。だれか英語の得意な人、英訳してくれないかな。

とにかくこれで、資料を頼まれれば、このアドレスを教えればいいだけ。

しかし、文章がまずいな。文章のうまい人にも文章頼みたいなー・・・。

もっとちゃんとつくろう・・・。
by fuji-studio | 2009-01-23 23:06 | ・縁の深い人・家族
ほんとうに落ち着ける友人。
沖縄の出張から帰ると福岡空港で待っていてくれて合流。 娘の誕生日に付き合い、久しぶりに酒も飲まずに話し、翌日家族で鹿児島に向かう車に同乗し、途中、空港まで送っていって分かれた。
僕にとって、なんだか兄弟のような、不思議に落ち着ける心から信じれる友人のリーウェン。

a0010575_13283210.jpgイエローマンで知られるシンガポールのパフォーマー。

1994年の福岡のアジア美術展でたまたま出会い、なんだか意気投合してそのまま同じアパートの部屋で一ヶ月ほど一緒に暮らし、そのまま鹿児島の家まで一緒に旅し、その後車で四国の愛媛で一緒にパフォーマンスをやり、岡山の自由工場でレクチャーをやり、京都まで旅した。

その後彼は茨城に旅し、今のパートナーと出会い・・・。

1994年以降も、1996年のタイのチェンマイでのプロジェクトや、パキスタンのラホールでの禁酒が続いた一ヶ月のワークショップも一緒だったし、97年のメキシコのチャパスでの僕が血を吐きながら苦しんだ、石彫シンポジウムの一ヶ月も一緒だった。

僕にとっても彼にとってもお互いに人生の中で大きな節目をともに過ごした友人。

なんだか思考方法と波長がシンクロしているのだと思う。彼と話しているときはなんともしみじみとうれしい。

彼もシンガポールの中ではかなり重要な作家になっている様子。忙しそう。

忙しいわりにはお互いにいまだに金欠症だなー・・・。

そこまでシンクロしなくていいんだけどな・・・。
by fuji-studio | 2008-12-29 19:28 | ・縁の深い人・家族