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70年代「平面と立体」→80年代「空間」→90年代「場」→00年「システム」・・・とか?
今年の福岡アジアトリエンナーレのカタログに寄稿した文章の中にちょっとだけ書いてみたが・・・、僕の周辺には、地域社会のシステムに介入し、活動を発しているアーティストが増えてきたように思えて興味深い。

a0010575_12295046.jpg僕が美術史を語る立場にないことは承知しているし・・・、何よりも文章下手だし・・・、

それでも、地域での表現の現場に接してきて、1980年代以降の、日本の地域社会での美術表現の変遷を、・・・ある程度整理して捉えている自分に気づき・・・、乱暴に言い切ってみたのがタイトルの流れ。

特に美術の周辺で、表現者が何を問題意識としていじる傾向にあったのか・・・というようなもの。

僕が大学に入学した70年代後半はまだ「立体と平面」や「具象と抽象」の問題をいじる先輩たちが多く、その問題から「空間」の問題へと興味が移行しつつある時期だったような気がする。


a0010575_1742315.jpg80年代インスタレーション作家が多発し、僕もインスタレーション作家というレッテルを貼られ、それから逃れようともがいた時期もあった。

そのうち、「空間」をいじる延長で「場」の問題が輸入される。それが90年前後。 

どちらかというと僕自身も、「場と空間」の認識に翻弄され、違和感に向き合いながら、極めてまじめに動いた結果、見えてきたのが地域社会の「システム」の問題。 

同時にコンピューターとインターネットの普及により、OSという概念を含むシステムという考え方が急激に変化したのも90年代半ばで、いろいろなあり方が急激に変化していった時期と重なる・・・。


a0010575_1742266.jpg僕自身、地域に内在するシステムに関わる表現に興味を持ち始めたのが95,96年代であるが、2000年あたりから、「場」というよりは「システムやしくみ」をいじり、地域社会に介入しようとするタイプの表現が見えるようになってきたと思っている。

そして、近年の地域におけるアートプロジェクトの拡がり・・・。 

いろいろなアートプロジェクトを検討する立場で全国各地からいろいろなアートプロジェクトの内容を読み込むと、その参加作家のタイプが未整理で・・・企画者側もそのような作家の傾向も認識していないし・・・


a0010575_17425591.jpgいまだに地域に壁画という平面をかけたり(シャッターに絵をかいてチャットアウトしようとしたり)、立体を置いたりするプロジェクトを地域のアートプロジェクトとして・・・もちろん状況によってはそれが悪いわけではないが・・・それが地域の若いエネルギーの可能性を阻害する障害物として鎮座することも多い・・・

企画者がその表現の傾向を無自覚にいる状況について・・・それでいいのかな・・・と。

・・・・・ところで、これを表現を作品化するシステムのフォーマットで見てみるとさらにその関係性は興味深い。

平面・立体とか、抽象・具象とかが問題になっていたころのアートシステムは公募展や会員制が中心だったので、そのフォーマットはキャンバスだったり、サイズや材料を限定する規格型のフォーマット。


a0010575_18154064.jpgその後空間の問題意識の発生は貸し画廊や美術館などのギャラリーシステムが広がった時代と重なり、その時代におけるフォーマットはまさにホワイトキューブを象徴する概念型。

まちにおかれた無口な彫刻物が撤去できない吹き溜まりとなり、公害扱いされはじめ、サイトスペシフィックという言葉が語られ、場の問題が浮上しはじめたのが90年ごろ。 それと連動するように、地域にアーティスト主導の現場がポツポツと発生し、必然的に地域社会との深い関係のあり方が模索されはじめ、地域社会のシステムに対話型のフォーマットが発生する。それが地域におけるアートプロジェクトのさきがけ。


a0010575_18161751.jpgそして地域社会システム・対話型フォーマットのアートプロジェクトが大型のうねりとして流通し始めるのが2000年以降。

場の問題から離れ、その地域社会のシステムに介入しつつも、全国のアートプロジェクトに組み込み可能なシステムの問題やネットワークの問題をいじる作品も一般的になってきたのが今の現状。

フォーマットはまさに地域社会のシステムの中にあり・・・あるいは人の関係のあり方にあり・・・いわゆるネットワーク型・・・・

このあたりに論じている詳しい本などがあれば教えてください。

僕も勉強して客観的に捉える必要があるなー・・・。

特に、AAFとか、東京とか、大阪とか、福岡とか・・・地域づくりの戦略としてアートプロジェクトを語る人が増えてくる一方で、その前提としての共通認識があまりにもばらつきがあるようで・・・困ることもあるんです。

問題はこれからの可能性であることに、かわりはないのですが・・・。


※写真と文章はまったく関係ありません。

by fuji-studio | 2009-12-19 23:06 | ・思索雑感/ImageTrash
皆既日食の瞬間、常識を超えているようでありながら、公倍数が永遠に続くように・・・
a0010575_1254640.jpg 日比野さんと森さんに誘われて、時の芸術祭というアートプロジェクトに参加することになり、その結果、種子島の南の端っこのJAXA(宇宙航空研究開発機構)皆既日食を体験することになった。


a0010575_1263443.jpg幸か不幸かはわからないが・・・、残念なことにどんよりとした雲に覆われ、太陽は見えず、例のダイヤモンドリングとかコロナとかは見えなかった。

個人的には満月ですらろくに見えない視力しかないので、それほど期待していなかったのですが・・・。


a0010575_127866.jpgしかし、その時間・・・日食がはじまり、まだ午前中だというのに刻々とあたりが暗くなりはじめ、水平線近くや北側の空は明るいものの上空だけは真っ暗になる。

想像を超えた神秘的な雰囲気に、いてもたってもいられないような・・・、重くて深い高揚感のようなものに襲われ、言葉を失ってしまった。


a0010575_1275530.jpgそして、そこからありえないスピードであたりが明るくなり、鳥が鳴き始め、重いものに押さえつけられていた風景全体がみるみるうちに溶けてゆくような感覚・・・。

太古の昔から多くの人のイメージを掻き立て、神話を生み出し、あるいはまつりごとや司ごとに利用され、権威をつくる力として科学へと導いたエネルギー源であったのではないか・・・との思いつきを強く確信する瞬間。


a0010575_1281679.jpgものごとには常識を超えたありえないと思われていることでも起こる。

絶対に共通性がないように思われる数字に公倍数が必ずあるように、そしてそれは永遠に続く数が無数に存在するように、ありとあらゆる物事は、常識的なありかたや存在を超えてあるのだということを証明してくれた瞬間でもあった。

物理や天文や数学も面白いが、それを認識しようとしながら、その力を利用して人間の活動を作ろうとした人間のイメージ力もまた面白い。

しかし、そんな人間の小さな思惑とは関係なく、とてつもなく大きな力で動いている存在があるのだということもまた実感した瞬間。

おそるるにたるなぁ・・・。
by fuji-studio | 2009-07-22 09:28 | ・思索雑感/ImageTrash
編集。そこにあることと、どのようにあるかということ。
a0010575_15444479.jpg存在と存在性の問題というと、その字面だけでどうも引いてしまう人が多い。

あるいはいろいろ勉強している人にとっては、その言葉の持つそれぞれの意味や歴史が重なるので、さらにややこしくなる深い問題なのかもしれない。・・けど、そんなことだと思う。


a0010575_15452774.jpgしかし、そこにあるためにはそれを認識している人がいるからそこにある。

つまり関係の中にある。関係がない、つまり、無縁であると「そこにある」ことすらない場合がある。見えなかったり、無視されていたり・・・。

存在はしていても、ゴミとして存在する場合もあれば、厄介者として存在する場合もある。


a0010575_15455632.jpgとにかく、そこにあるかないかの問題ではなく、どうあるのかということが問題なのだと確信する。

つまり、僕にとっての問題は、「どのようにあるかという状態」をつくることが大切なのだな・・・と感じつつひたすら繋ぐ作業を続ける。

そこに意思を作用させたり、想像力と利用したり、編集という作業によってそにあるものはある状態を作り出すことになる。つまりどのようにあるかが変わってくる。

価値のなかったものが、あるいは存在すらなかったものが、存在し、新しい役割が与えられ、関係性のかなで価値が見出されてゆくプロセスがはじまるとしれば、その地道な編集作業の延長にある・・・と感じている。

今、ここで、具体的に、問題にしているのは、元山下家という旅館の廃墟のなかに捨てられていた壊れた座卓と汚れた刺身盛ようのまな板のことですが・・・。
by fuji-studio | 2009-03-08 23:00 | ・思索雑感/ImageTrash
珍しく夜中に夢で起きて、その延長で考えてみた。
僕にとってはとても珍しいことなのだが・・・夜中の3時ぐらいにずっと夢の延長で考え込んでいて起きてしまった。

意外と寝ながらいろいろな妄想しているんだろな・・・僕の知らないところで・・・。


a0010575_14212.jpgその10時間ぐらい前・・・、先日出会って以来、ずっと気にしていた埼玉の北本駅の近くの4階建ての元家具屋のビルを、借りる方向性で動き出したとの報告をもらった。

頭の中で、そのビルの使い方のイメージに思いを巡らし、こびりついていたのだと思う。

で、家に帰ると、水戸芸術館から秋に行った展覧会「日常の喜び」のカタログと掲載記事資料が送られてきて、ひさしぶりに水戸芸術館での展覧会を思い出していた。

水戸芸術館でいたく心を捉えられてしまったイスラエルの作家、ガイ・ベンナーの作品。

家具を組み替え漂流者を扮する作品や、IKEAという世界中に広がっている大型家具屋で撮影した映像作品。


a0010575_153620.jpgこの作品に水戸芸術館で出会い、スッポリ僕のツボにはまってしまった。

送られてきた展覧会カタログを見て作品を久しぶりに思い出していたのが原因だと思う。

夜中の3時頃に見ていた夢はガイ・ベンナーの水戸芸術館に展示されていたIKEA系の作品が、北本の家具屋にできたギャラリーで展示されているというものだったと思う。

それを夢だと気づく程度に目覚めつつも、そのイメージの面白さを考え続けていて、ついに絶えれなくなり起きてしまい、事務所の机に座り、暗闇の中、しばらく考えを巡らした。

そういえば、一昨年、秋田の大館でのプロジェクトでも、元家具屋の空きビルが展覧会会場として利用されていて面白い空間だった。


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全国各地の中心市街地にひとつぐらいは大きい家具屋はあった。家具屋は広いフロアを持っていて、ステップフロアだったり、エレベーターがあったり、展示室やワークショップルームとして再利用するには理想的。

ガイ・ベンナーのあのIKEAでの数十回に及ぶ無許可での撮影によるホームドラマの作品はこのような日本全国に潜在する中心市街地の元家具屋での展示すると、もっと面白くなるのではないか・・・。

そのような面白い作品をさらに面白く強烈にみせる状況をつくることがもっともっと可能なのではないか・・・。


a0010575_23325732.jpg僕が考え込んでいたのは、そのアイデアについてではなく、そんな面白いアイデアを実現させるシステムが普通に存在していないのかということ。

今回ガイ・ベンナーの作品を知ることができたのは彼がベネチアでの国際展に出品していて、それを水戸芸術館の学芸員が興味を持ち、美術館という場で紹介したから。

そのアートシステムの中に「中心市街地の廃業した家具屋で展示する」という発想は繋がっていない。発想がないのでそんなシステムがあるわけないが、発想があっても、システムがないから実現は不可能だと思ってしまう。

繋がっていない。関係性がない。つまりOFFの状態。

仮に、ガイ・ベンナーの作品と日本全国の元家具屋がONの状態で繋がっていれば、相当面白い状況が出来上がる。


a0010575_165456.jpgそれぞれの作品には、美術館の展示室以外に、もっと面白い状況になる場があるということで、その場とONな状態に繋がっているというシステムが重要であるということ・・・。

もっと作品性を深め、関係性を拡げたいと考えるキュレーターは、その可能性を引き出すシステムの中にいるべきではないか・・・ということを考えていた。

美術館が地域社会に対してONな状態であれば、たとえば、ガイ・ベンナーの作品に出会ったとき、地域の元家具屋の跡に作品をもっともいい状態で見せることができるというイメージを、いとも簡単に発想できるのかもしれない。

美術館で展示に要する経費を、まちに潜在する地域素材に手を入れる経費にすることで、もっと完璧に作品を見せ、さらに面白い状況をつくることができるようになると凄い。

美術館やホールを箱だと考えずに、地域社会にインストールされた文化創造系OSであると捉えるとそのことは無理ではないような気がする。

そのあたりのことまで考えて・・・頭が麻痺してきた。
by fuji-studio | 2009-02-12 04:15 | ・思索雑感/ImageTrash
無意識の中で・・・実は相当な妄想をしている。
今年2回目のスタジオでの数時間だけの作業。

a0010575_10454480.jpgこのために福島から福岡に戻ってきたようなもの。前回に引き続き、かえっこで回収分類されたおもちゃのうち、動物、恐竜系破片(腕がもげていたり、足が折れていたり・・・いがいときれいなものもある)を繋いでゆく作業。

これ、ドローイングすると相当面白くなりそう・・とわくわくしながらの単純作業。

作業中、次にどれをどのように繋ごうかとか、バランスをみたり、接合の具合を考えたりと、最初のうちは意識は作業に向いているのだが、だんだんと単純作業を繰り返すうちに、その意識の持ち方に慣れてきて、そのことをほぼ無意識で行えるようになると、だんだんと頭の中が心地よくなってくる。


a0010575_10512789.jpg静かで同じリズムの波長が流れているような感覚で・・・脳内で何かが分泌されているのか・・・とにかく頭の中が白くなったような無意識の状態になり心地いい。

実は僕にとって何かを作るという行為はこのためにあるのではないか・・・。何かを作るということよりも、この時間が持てるということが重要なのかもしれないとさえ思っている。

今日もわずか30分程度でその状態になり、ほぼ無意識の状態で作業に没頭している中、実はそのさらに奥底で相当量の回転数で無意識に、何か作業とはまったく関係のない別のことを分裂的に考えている状態に気づく。

そういえば、昔から単純作業の中、いろいろなことを考えていることは自覚していた。

しかし、それが無意識の状態の奥の部分で無意識に行われているという単純なことに気づいたことはなかった。

無意識なので意識していないし、意識したとたんにそれは無意識ではなくなる。・・・あたりまえか。

とにかく、この無意識の作業中、ふと無意識での思考を意識してみると・・・どうやら東京でのツアーカンパニーの妄想をしている事に気づく。

家に帰って別の作業をする予定だったが、どうもその無意識中思いを巡らしていたイメージがなんだかこびりついていたので、企画書におとしてみる。

そうか。この作業が大事なんだな。こうやって形が生まれてくるんだな。

Tokyo tour company・・・cobuta tour・・・

明日から東京経由で埼玉の北本のディスカッションに入る。

週末は北本で・・・何か始めたい人は是非ご参加ください。
by fuji-studio | 2009-01-28 23:19 | ・思索雑感/ImageTrash
どうもだまされているような気がして仕方ない。
a0010575_12501193.jpg30代半ばまでは単なる情動から来る違和感でしかなく、それに対してひたすら根拠なき反抗をするか、自分を言い聞かせて服従するかの選択でしかなかったような気がするが、最近は自分の違和感の正体がそれぞれの現場でなんとなく見えるようになり、それに対する応じ方の作法のコツがつかめてきたような気がする。


a0010575_12504217.jpgそれなりに社会経験も蓄積され、認識のボキャブラリーが増えてきたからなのか、反抗をすることで生じる摩擦で消耗するエネルギーが少なくなってきたのか、もしくはインターネットにより多くの情報や知識をブラウズできるようになったからなのか・・・。


a0010575_12511019.jpgとにかく「常識だ」とされることに立ち向かうも面白くなってきた。とりわけ大きなお金が動き、ほとんどの人が多くの経験をすることのない弱み・・・つまり冠婚葬祭的なモノゴトに関して、相当なお金が動くことが常識とされている。


a0010575_12513465.jpg「みなさん、多くの方はこのようになさっていますよ。」とか、「昔からのしきたりですから。」とかの言葉をついつい疑い、本当はどうなのだろう? と考えてしまい、僕なりの解を出そうとする。

どうもだまされているような気がして仕方ない。


a0010575_133297.jpgまあ、お金を持っていないので疑ってしまうのは必然的なことなのだが・・・。

本当のことを求めることに意味があるかどうかはおいといても、とにかく騙された気がしたまま、自分を騙して動くことはできない。

せめて清らかな虚を・・・ということか。


a0010575_12522653.jpg父親が購入した墓地に墓を建てるという自然の流れを自分自身でどのようにとらえて、特に戦後流通した商品や様式に騙されることなく、父親の遺骨を、あるいは自分の遺骨をどのような空間に収めるのか。

その問題を考えるだけで、いろいろなモノゴト、現実が見えてきて面白い。


a0010575_12525829.jpg僕自身の祖父祖母の墓も父親の世代につくったもので、昔から伝わる墓なんて知らないし、僕ら庶民には実は先祖代々の墓なんて縁がないということを意外と認識していない。

そもそも先祖の数を計算する話からすれば、祖祖父は4人、祖祖母は4人いて・・・祖祖祖父は8人、祖祖祖母は8人いてと考えると先祖は無限大の数の・・・鎌倉時代まで遡ると当時の日本の人口よりはるかに超えた数の先祖になるし・・・かといって、社会の圧力・父系列をたどる選択をとって考えてみると無名の起源の一人にたどるしかないのかもしれないし・・・


a0010575_12532231.jpg太宰府天満宮の宮司の西高辻さんは菅原道真の39代目ということらしいが、さらにそこから8代遡ると無名だったわけだし・・・


a0010575_1254499.jpgとにかく、人間が無限と感じれる長さがせいぜい99年の三世代程度で、祖祖父母程度、ひ孫までのことでしかなく、その縁に対してどのように接するか。その接し方の態度と行動を導き出すシステムをいかにつくるかということなのかな・・・と。

いろいろ調べているとウェブ上に墓をつくるという荒技も登場・・・そこまできたか。

ウェブサイトでの葬儀や焼香などももっと流通するのかな。

しかし、石は重いな。


a0010575_12542991.jpg態度として、今の常識のシステムに反抗することなく、かといってそのまま受け入れるわけではなく、ささやかに変換、超訳しつつ、システムにのっかりながらも、清らかに納得できるところで形にしてみよう。

代々残すというよりもは、次の世代にはまた変換されるかもしれないという余韻を残しながら。

この写真は1880年代生まれの祖父母と1920年代生まれの父と1960年代生まれの僕と。3世代が移っている珍しい写真。
by fuji-studio | 2009-01-04 23:12 | ・思索雑感/ImageTrash
それぞれにコアがしっかりしつつも、開放系であるかどうか。そこがポイントかな。
新世界・西成での“アー”ツクールな実験。「まちが劇場 準備中」の公開実験が無事終了。

a0010575_1454040.jpg拠点マメゲキでのエンディングのパーティには関係者40名ほどがあつまり、お世話になった新世界市場の中で仕入れた食事で深夜まで盛り上がった。

その瞬間の皆の表情と話ぶりから、そのプロジェクトがどうだったのかがわかる。

今回もまた、いい時間を実感する瞬間。

なんだかいろいろなものが溶けてゆく感覚。

今回の新世界でのアーツな実験は決して派手なものではなく、どちらかというと表現の強度としてはむしろ弱いものであったが、それゆえの興味深いことがいろいろと起こった。

なによりも、今後一緒にいろいろなことを展開できそうないろいろな人や場所、物事や素材、そして地域の団体やしくみに出会えた。

そしてそれらとの関係がじわーっと深まり、なんとなく期待度が高まった気がする。


a0010575_153213.jpg表面的な仕上げを重視するイベント性の高いアートプロジェクトに見られるような、完成形を目指すところに視点をおかずに、春からの地道なディスカッションと参加者の発想で実現した「地域アーツ実験」として位置づけていたので、それぞれがそのプロセスに視線と感性を配ることができたのが適正だったのだと思う。

途中、アートプロジェクトの束縛の罠を感じつつも、それなりに等身大の感覚を麻痺することなくそれぞれが動いていたように思う。

これはこれまでブレーカープロジェクトが6年間にわたり、この地域との信頼関係を地道に築いてきた結果である。

地域とアートが絡むアートプロジェクトは近年増えてきているが、いろんな疑問や違和感を抱えているアーティストや地域も多い。

地域でのアートプロジェクトは化学反応を引き起こす実験のようなものだと思っていたが、どうも何の反応も起こらなければ、あるいはマイナスな摩擦ばかりがおこり、消耗しきっている現場もあるという話も聞こえてくる。


a0010575_1461925.jpgその原因が今回のプロジェクトを通して見えてきたような気がした。

それはそれぞれが開放系であるかどうかということ

商店街に固執せず、街の人が仕事の領域を犯されまいと身構えず、あるいはアーティストとして固執せず、またはデザイナーとして領域を守ろうとせず、お互いが何かをそこから得ようとする態度と感性を開放しているかどうかということ

お互いがお互いを理解しあえるなどと、安直で嘘っぱちな状態ではなく、あくまでもそれぞれが理解困難な状態であることを理解しながら、常識的な商店街という枠組み、あるいは地域づくりという枠組みの殻の浸透性を高め・・・ちょっと緩めた状態なのかな・・・、同時にアーテイストや研究者やデザイナーもそれぞれのこれまで培ってきた概念や表現手法を崩す覚悟で・・・いっそのこと「なにものでなくてもいいんだ!」という態度と感性で、何かを一緒にやってみようかなとする状態。


a0010575_1465931.jpgそれがとても重要。

お互いが頑固な殻をもったままでは何も変化しないし、そこから新しい何事かは発生しない。

お互いに楽しもうとする余裕がなければ、何の感性も動かない。

それぞれがしっかりと与えられた役割を演じてこなす、分業の義務とノルマの社会システム・・・つまり、閉鎖系あるいは固執タイプもしくは、保守隠蔽系同士では摩擦はむしろストレスとなる。

これまでとは違う何かを求めようとすれば、自然に開放系になる。

逆に何か立場や建前を守ろうとすればどうしても閉鎖してしまう。

いかにオープンであるか。いかに開放型の人が交差する状況ができるか。

あるいはいかに殻を打ち砕き、開放へと向かう状況をつくるのか。

そこに重要なポイントを見つけたのだけど、どうだろうか。

あ、そうか、それは何もまちとアートのことだけではないですね。なんでもそうなんだ。家族との関係も、企業と、も。 行政と、でも。
by fuji-studio | 2008-12-21 23:32 | ・思索雑感/ImageTrash
鹿児島市立美術館についての鹿児島の新聞記事。
a0010575_1295510.jpg父親のお別れ会の為に鹿児島に行くと、数人の知人から鹿児島大手の地元新聞に僕の美術館に対しての意見が載っていたとの話を聞く。

実家にある新聞に目を通すと・・・確かに。こりゃ目立つ。

そういえば、先日東京にいたときに鹿児島の新聞社から電話がかかってきて、入館者数が伸び悩んでいる鹿児島市立美術館に対する意見を聞いてきたので、話せば2時間ぐらいかかりそうな内容について省略しつつ、早口で急ぎつつ、20分程度、意見を述べた。

それがなんだかクローズアップしされている。

新聞にその内容のほんの一部が紹介されていたが、少しはここでフォローしようかな・・・と思うが、・・・大変になりそうなのでやめておこうかな・・・。

でもちょっとだけ。

美術にマニアックな人はこちら。
by fuji-studio | 2008-11-19 23:54 | ・思索雑感/ImageTrash
ストラクチャル・アート?
水戸芸術館での展覧会「日常の喜び」オープンまであと2日。一日中空間をいじる。

a0010575_98581.jpg吊ものをじわじわいじったり、ライティングをいろいろいじってみたり、映像をつくってみたり、部屋の中で流す環境音のようなものをつくってみたり・・・

手伝いに来てくれた宇野沢君と越智君と三人で空間制作を楽しむ。


a0010575_172266.jpgやっぱりこの作業時間は僕自身好きな時間。

まさに日常の喜びなのかな。

実はこうやってなんでもいいので並べてみたり、配置してみたりして、納得の行く空間をつくるのが僕にとっての喜び。

並べるものは実は食器でもいいし、本でもいいし、柄でもいいし、石ころでも木切れでもいいのかもしれない。

その意味で、僕にとって「喜び」の部分ではおもちゃである必要はない。


a0010575_1724256.jpg空間をさわりながら、今回の出品作家が表面的な見え方(スキン)だけでも面白いのだが、・・・空間の成立を読み解くことで、そのストラクチャーがとても深く興味深いことに気づく。

おもちゃでなくてもいいのだが、おもちゃであるのはストラクチャ的に今回はそれでなくてはならないから・・・ということになる。


a0010575_1733722.jpgつまりどうやって素材が集められたのだとか、どのようにして展示されたのだとか・・・どうやって撮影されてどうやって形になったのだとか・・・

形になる前のプロセスにかかわるこことであり、表現行為が作品として編集されるときの構造の問題なのではないかと・・・。


a0010575_1743937.jpgそのプロセスの構造(ストラクチャー)がとても深く、興味深く、面白い作家が出品してるんじゃないかな・・・。

このブログでもたまに、ストラクチャーとスキンのことを口にすることがあるが、ストラクチャーがしっかりしているとスキンはその結果としてできてくる。


a0010575_1753951.jpg今回の出品作家を語る上でこのストラクチャとスキンの関係から作品性を語ることが重要なのではないかと思えてくる。


a0010575_176966.jpgそれぞれのストラクチャーがいわゆる美術システムの内部にあるか、その外部にあるかを見てゆくことでも面白い。


a0010575_1764381.jpgもしくは学校で教わる美術のストラクチャとはいかに無関係にあるかも重要かもしれないし、地域社会との関わりや家庭生活への介入性にストラクチャルなものを感じるものもある。


a0010575_1772037.jpgもちろん今回の展覧会タイトルにもある「日常」の中にそのストラクチャーの核のようなものが関与しているかどうかも興味深い。


a0010575_1793022.jpgところで、この作家は折り紙作家の神谷さん。

一枚の紙を折り紙してつくるという普段はなかなか出会えない出品作家。

出品作家のジャンルがさまざまであるのも面白い。


a0010575_17121775.jpg日常に関係しながら、実はその表現のレイヤーが、あるいはコンセプトやテーマ、ストーリーがまったくばらばらで、バリエーションに富んでいるのも面白い。

つまり多種多様の価値観ということ。


a0010575_17125094.jpg「・・そこをそうやっていじるのね・・・」とやたらと納得するものが多いのは僕の性質のせい?

日常には多種多様な価値観があふれていることの証明?

日常はまだまだ捨てたものじゃない。

日常の些細な行為が多種多様に拡張増幅されているんだな・・・きっと。


a0010575_17152890.jpg僕にとってはおいしい作家ばかりだったが、特にこのイスラエルの作家、ガイ君にはやられてしまった。

僕の中で久しぶりのヒット。映像は全部必見です。


a0010575_17162437.jpg常々、面白くて、深いこと! を求めたり、探したり、作ろうとしたりしているが、まさに面白くて深いものが集まってきたというかんじでしょうか。


a0010575_1718356.jpgストラクチャル・アートという言葉はないと思うが、明らかに過去のコンセプチャル・アートとは違い、90年代、00年代を経て発生しつつある表現の領域にかかわる傾向として、そのようなものが自然発生しつつあるのかな・・・。


a0010575_17184328.jpgこれまでもいろいろな時代のいろいろなところにそのような作品はあったのだろうが、そのような視点や切り口で編集されてこなかったのかな。


a0010575_17203163.jpgということで、まただれかこのあたりについて、しっかり論じて下さい。

いや、実はちゃんと論じ尽くされているのに、僕が知らないだけなのかもしれないな。
by fuji-studio | 2008-10-23 09:33 | ・思索雑感/ImageTrash
いわきから大河原へ日沼(大)さんとドライブ
午前中、いわきアリオスの壁面のplants!レポートの設営。
午後から宮城の大河原の現場へ移動。

a0010575_1042795.jpg青森の空間実験室の日沼さん(大きいほうと呼ばれている方)がまたアリオスplants!に来てくれて、そのまま次の日も壁面の設営を手伝ってもらう。

そのまま大河原駅前で行なっているAAFの参加プロジェクト「屋台プロジェクト」に手伝いに行くというので二人で福島のいわきから宮城の大河原まで3時間のドライブ。


a0010575_1044164.jpgその途中でみつけたのがこのよくある案内看板。
・・・・そうか、キャッスルか・・・シャトーでもなく、パレスでもなく、キャッスルだった!

こんなところで、こんな瞬間に次のベクトルがなでもない理由で決まってしまう。


a0010575_10442990.jpgよくみると、この看板のイラストのタッチって全国各地のいたるところにあることに気づく。

そういえば、僕が暮らす現在の地域、筑前深江に暮らすことになったのもこの看板のイラストと同じタッチのイラストが原因

これは同じ人のイラストなのか、それともこの描き方のイメージが何らかの形である時期日本全国に流通していったのか・・・?


a0010575_10451164.jpgいずれにしても、この主のイラスト・・・おそらく70年代から80年代にトタン板に油性のペンキで描く案内板には欠かせないイラストとして、日本全国のJRの駅、高速道路、登山道、自然公園、etc.の中にこの主のイラスト看板が流通して、かなり多くの人がこのイラストのイメージによっておおくの行動、・・・次に行くべきベクトルが誘発され、新しい行動を導き、その先の出会いへと繋げていたのかな・・・。

・・・つまり、「次はどこいこうか?」と悩んだときにこの看板をみて、そのイラストからかもし出される魅力だけで「ここにいってみようか!」と導くイメージとして・・・

しかし、この看板イラストの存在については誰もがそれほど気にしていなくて、それほど多く語られることもなく、つまり僕らの人生に浸透している存在・・・ということになる。

大げさですが・・・。

そんなあり方もいいですね。表現のあり方として。もちろんこれは流通目的に必然の中から形作られた描写スタイルなのでしょうが・・・。
by fuji-studio | 2008-10-11 17:42 | ・思索雑感/ImageTrash