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新しい場とか機能とかステークホルダーの拡がりによってなされるシステムの更新
地域の疲弊感。そこからどうにか脱しようと右往左往している地域は多いが、それが貨幣経済ベースの考え方から抜け出せなかったり、いまだに「活性化」というお題目に惑わされていたり・・・発言力のある大物に翻弄されていたり・・・なかなか難しい地域と接することも多い。

a0010575_8575710.jpg地域だけではなく、個人が運営している組織や団体、あるいは家庭の中でもそういう感覚はあるかもしれない。

とにかく、疲弊感というものをじわっと払拭する価値の転換が必要だということを・・・自分を含め・・・当事者が一番気づきにくいのかもしれないなぁ。


a0010575_8583272.jpg表現活動に関わるシステムの話になると思うが、いくら個人が自分の日常を超えようと表現活動を重ねてみたところで、その表現行為をちゃんと起動できるシステムとフォーマットに出会わなければなんでもない。

いくら素晴らしい表現行為や意識であっても、社会化というプロセスに無関係であれば、周辺に知れることもなく、興味を持ってくれる人に出会うこともなく、批判してくれる敵と戦うこともなく・・・存在すらしないことになる。


a0010575_8592654.jpg生物の遺伝子ですら永遠に変化し続けるわけだから・・・もちろん時代を超えた完璧なシステムもなければ、完璧なフォーマットもないということを前提とすると・・・、当然、だれもが表現行為の社会化の段階で、なんらかの不完全なシステムに関与することになり、その上で自分の表現行為を客観視することになる。


a0010575_90233.jpg「モノゴトの価値は「誰と」対峙するかで変わる。」という視点でとらえると、特に、そのシステムがいかなる人や企業、組織などに繋がっているかなどの、いわゆるステークホルダーの違いが問題になってきて、それが個人の表現行為をどのように展開し、予期せぬ方向に連鎖させ、その行為のあり方を変化させ、あるいは加速させるのか・・・に繋がっているということが重要であることは・・・いまさら言うまでもない。


a0010575_905199.jpgここで問題にしてみるのは、その不完全なシステムをどのように更新させてゆくのか、その手法と視点の問題。

秋田の大館で毎年開催されているゼロダテという地域づかいのシステムは、今年駅前の「御成座」という映画館跡の場を使い始めたことによって大きな更新をとげて新しい可能性と期待感を作り出していてとても興味深かった。


a0010575_912790.jpg僕が最初にゼロダテに関わったのは3年ほど前、その頃から大町商店街というほとんどがシャッターで閉じられた店舗の内部や裏側をかなりの規模で開放したシステムとして興味を持った


a0010575_92351.jpgシャッターが閉まっていることが前提で、そこに絵を描いて商店街をいじろうとする方向性は間違っていると感じていた頃に行われた企画だったので、商店街のシャッターを全部あけようとするこのシステムに興味を持ったし、いろいろな角度からまちを俯瞰できるこの企画の拡がりを期待した。


a0010575_922942.jpgしかし、商店街の空き店舗というフォーマットは、比較的小規模の閉鎖空間を自由にいじりたい性質の・・・どちらかというとワークショップ系とか、インスタレーション制作系の表現者にはいいかもしれないが、その空間の質に限界もあった。


a0010575_931341.jpgそれにしても、巨額を投資して風通しの悪いレジデンス施設や街から隔離されたギャラリー空間を作ってそこにアーティストを囲うシステムよりは・・・何か自分を超えたいと思っている表現者にとって、人が暮らしてきたまちの空間をある期間占拠し、寝泊りし、まちの人と関わりながら自由にイメージを立ち上げる活動を行う場が無数に拡がるシステムのほうがはるかに有効な気がする。


a0010575_944310.jpg実際にこの期間、秋田の大館の街には全国から多くの若手アーティストや研究者、社会学や都市計画、建築、美術、デザインなどに関わるかなりの数の学生などがかなり長い間滞在し、そのシステムの起動と運営に関わってきた。


a0010575_951570.jpgそれでもなお、個人的にはマンネリ化してしまいがちな空き店舗や空き地の拡がる商店街ベースのシステムにある種の限界を感じていたものの・・・ゼロダテはここにきて、駅前徒歩3分に位置する大館唯一の映画館だった場所を使うことに成功した。

市民にとって共通の記憶の宝物が幾重にも重なった映画館跡という場を利用し、ホールのみならず、バックヤードもずべて開放し、これからはじまる活動の拠点として整備し始めている御成座(オナリザ)の姿とそこで熱く語る地元の映画、映像ファンのおじさん達に接して・・・ゼロダテというシステムが新しいシステムとしてバージョンアップし、もしかすると商店街すらも変わるかもしれない・・・という期待感すら持ってしまった。


a0010575_954074.jpgその現場に接して、確信したことは、それぞれのシステムの更新の手法について・・・。

つまり、大きなシステムを大きな視点からバージョンアップしたり、更新しようとしたりするのではなく、あくまでも現状の関係の中から拡がる些細な関係を無視することなく、目の前に立ち現れる問題にちゃんと向き合い対応し、開かれた関係の中で、既成の常識や肩書きや大義名分、コンセプトや大きな力にだまされず、こつこつとシステムをいじってゆこうとする振る舞いが大切なんだなということ。


a0010575_961575.jpg現場の周辺にある場や人、組織の中から、ちゃんと感覚的に信頼できる要素、あるいは重要な問題を見つけだし、そこにちゃんと触れることができるかということ。

そこをいじっているうちに、そのシステムが大きな束縛を受けていない限りは、そのシステムって自然と更新されてゆくものなんじゃないかな。

逆に一番よくない疲弊感は・・・現場の些細な問題も見ようとせずに・・・大きなシステムそのものを大義名分やコンセプトの側から力のある人がそのフォーマットまでもいじろうとすることから生まれてくるんじゃないかな・・・。

あれれ? それって、90年代半ばまで多くの地域で流行していたやりかただったような気もするが・・・もう忘れてしまった。
by fuji-studio | 2010-08-28 09:08 | ・思索雑感/ImageTrash
移動の数とブログ書き込み数は比例する?
現場が長いといろいろと書き込みたいことがあるものの、現場にいると時間に隙間がないのでブログを書き込む時間を確保できない。

このブログを書き込むのは大体移動中の新幹線や飛行機の中、あるいは待合室・・・というケースが多いので必然的に移動が少なくなるとブログ書き込み数が減ってくる。

この夏、瀬戸内から青森、秋田、鹿児島、熊本、福岡そして豊島・・・と移動しているものの、書き込む隙間がなくて・・・と言い訳しとこ。

秋田のゼロダテについても書き込みたいけど時間がないなー。
by fuji-studio | 2010-08-23 08:29 | ・思索雑感/ImageTrash
日常的な行為と表現行為との違い。
青森の国際芸術センターでドローイングとデッサンのワークショップを高嶺と小山田と3人で開催してみる。

a0010575_16503225.jpg大切なのは、描こうとすることでも、つくろうとすることでもなく、自分が何をいじる性質なのかを自覚することなのではないかとつくづく思う。

しかし、それでも、いじる延長で何らかの形を立ち上げる技術なり手法なりが必要の場合もあり、それは手の延長にある道具類といかに接するか・・・の基本的な技術や知識があるのは確かだと思う。

写真は高嶺の根っこがぶら下がっているツリーハウス作品


a0010575_16554642.jpgそのあたりを意識しながらのワークショップ・・・のつもりだったが、その参加者から「日常的な行為と表現行為の違いは何なのか?」との質問がきて、その瞬間、ちゃんと答えられなかったのがずっと頭に残っている。

その時は日常的行為を客観視しているかどうか・・・客観視する延長に表現行為はあるとのことを話したに留まったが、それではもちろん足りない。 自分の性質を客観的に自覚したうえで・・さらに自分の日常とか常識とかを相対的にほんの少しでも超えようとする意志に表現という行為は存在するのではないかと考えている。

自分を超えようとするかしないか。


a0010575_1659758.jpgそこに表現行為と呼べるかどうかの境目がある。 

あくまでも個人の中の相対的なものでしかないが、それを日常的に重ねることに個人の中には確実に意味が生じてくる。

「超える」という相対的に+(プラス)の方向にある場合、その日常が蓄積されると膨大なものになる。

写真は小山田徹の測量のワークショップの様子


a0010575_1701518.jpgしかし、「超える」という意識がない場合、相対的にゼロかー(マイナス)だとすると、その日常が蓄積されても、ゼロかマイナスでしかない。

表現行為はその蓄積の延長に意味が生じてくるとは思うが、それが個人の領域のままではいくらその表現が凄いものであっても、それは社会的に存在することはない。

その意味で作品化のプロセスはまた別の話になるが、その前提としての表現行為というものはそんなことなのかなと・・・つくづく感じている。


a0010575_1713566.jpgで、今回の青森で開催された鹿児島県立甲南高等学校美術部出身の3人の展覧会、高校時代はごく普通の日常的な行為を行う学生でしかなかったが、それぞれの立ち位置でまったく違う方法で、それぞれが自分の日常の行為を超えようと重ねてきた結果なのだと思う。

それぞれいじるポイントはまったく違うが妙にシンクロする面もありながら、確実にそれぞれが自分自身の日常を超えようとした結果、ここにいるのだなと感じる。

そしてそれぞれが活動するアートのシステムも、それに対する編集の仕方も、少しずつズレていながら違うのがまた興味深い。
by fuji-studio | 2010-08-14 23:02 | ・思索雑感/ImageTrash
システムと拠点・・・卵が先か鶏が先か・・・あるいは両輪。
地域で何か新しい活動が発生するにはそれなりに新しいシステムが必要なのだと思う。

a0010575_17215796.jpg地域活動のシステム(仕組み)の多くはある時期、それなりの理由があり発生してきた。自治会とか子ども会とかPTAとか敬老会とか婦人会とか青年団とか青少年育成会とか商店街振興会とか連合会とかなんちゃら委員会とかかんちゃら会とか・・・

その多くがそれぞれの時代の必要に応じ発生し、それなりの拠点を持ちつつ、それなりにその地域活動に貢献してきたのだと思う。


a0010575_17232384.jpgただし、その時代にOSという概念があったか? システムは更新されるべきという常識が身についていたのか? 時代の価値観は変化し続けるということが前提としてあったのか?

場合によっては、多くの機能しない仕組みや拠点が、それなりの税金が投入されながら地域に染み付いていたりする。


a0010575_1724317.jpg・・・それはとこかく・・・とにかく新しい仕組みは必要に応じてつくられるものだが、各地で問題になっているのが拠点づくりが先か、システムづくりが先か・・・の悩み。

拠点がつくられることで人が集まり、活動が加速し、仕組みがつくられる・・・という話もあるし、仕組みができることで活動が発生し、それが加速することで拠点がつくられる・・・という場合もある。

そのどちらがいいというわけではなく、その場その状況なりにそれらのものが発生し、なんらかの活動が動き始める・・・その状況そのものが一番興味深い。


a0010575_17253814.jpgとにかくビジョンを先につくることに疑問を持っている僕としては・・・いや、正確には・・・ビジョンに縛られながら活動を展開しなければならない現場の状況に疑問を持っている僕としては、最近、アンカーポイントとベクトルを作るところからはじめる・・・という手法に可能性を感じている。

それは、拠点として展開する可能性のある場をアンカーポイントとし、システムとして形成しそうなベクトルをインストールするという手法。

今回の「藤島八十郎をつくる」という作品はまさにその実験だと捉えている。

でもこのことについてピンと来る人は、そう多くはない。

もうすこし動かないと見えないでしょうね。

地域の活動を作ろうと右往左往する「藤島八十郎の活動をつくる」というシステムによって発生する数々の地域実験と、その「藤島八十郎の家」という拠点。

そして、その活動は編集されることによってはじめて作品化される。・・・というところまで・・・。

だめかなぁ~・・・。
by fuji-studio | 2010-07-04 12:39 | ・思索雑感/ImageTrash
こころを揺さぶる・・・感動する。心をつくるために。
a0010575_23302936.jpg体をつくるには体のいたるところを動かしてつくる。運動、スポーツ、各種トレーニング。

いつもは使わない体の部分を使うことで体はつくられる。

同様に頭をつくるには、頭を使うことが大切だということはだれもが知っている。

考えてみると、小学校以来、いわゆる学校教育において、鍛えられてきたものは主に頭、そして体。

しかし、心をつくる機会は学校教育のプログラムの中ではほとんどない。

なぜなのだろう?

体や頭をつくるためには、使われていない部分をじわじわと使い、ある程度のプレッシャーを与えながら鍛えるのがいいというのは分かっているが、心をつくる手段というのはそれほどだれも意識していないのではないか。

心を揺さぶり、日常では使わない感情を動かし、プレッシャーを与えながら心を鍛える。

いわきアリオスでホールそのものの存在理由を尋ねる市民の声を聞きながら、・・・鹿児島時代に150人の混声合唱団活動で体験した音楽ホールでの常識を超えた感動や・・・(自分の声がまったく溶け込みホール全体と一体になっている感覚・・・のようなもの)、学生時代に没頭していた演劇の公演を終えた後の観客との熱気の中での感動体験を思い出していた。心揺さぶられ、体全体から涙がこみ上げてくる感覚・・・。

考えてみると、絶望と感動の触れ巾の大きさは、そのまま心を鍛えることになっているのではないか・・・などと考えながら、思わずディスカッションの会場でマイクをとり、個人的な意見としてその思いをぶつけてみた。

心をつくるトレーニングのようなものは実は地域教育に担われた責務なのではないだろうか?

もちろん、家族関係、兄弟姉妹との生活の激しい喜怒哀楽や、友人関係や先輩後輩との関係での摩擦などは人間の感性や感覚、心のありようが形成される上で重要だということは前提としても、いろいろな世代、いろいろな職業、いろいろな人格との関係の中で感動体験を作り出す仕組みは地域教育には大きな可能性がある。

・・・ってなことを考えながら瀬戸内海の島々を眺め、新たな舞台に向かう気持ちになる。

うーん、心を揺さぶる作品づくり・・・っか。ハードルは高い。
by fuji-studio | 2010-06-29 06:30 | ・思索雑感/ImageTrash
引越し作業でモノにおし流されそうになりながら、モノ年齢について思いつく。
a0010575_15272763.jpg引っ越し作業もいよいよ大詰め。

1996年のミュージアムシティ天神 でのプロジェクトで使用して、そのままもらうことみなった競艇用の
ボートを運び出す。 

ボートのファサードが外れると、ごく普通の民家が現れる。

うーん、普通にきれいな家だったんだ。

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しかし・・・、モノとの戦いの引越しだなー・・・

1996年末に、ここにくるまでは、実家を離れて20回以上、結婚してから10回以上引っ越してきた。

その頃までは所有するモノをかなりコントロールし、モノに束縛されない生活を目指していたというのに・・・。

そんな生活から、ある意味逃れるために、一度、すべてをストックするというあまりにも単純な試みの結果、今の苦労がある。

いったい、いくつのモノを無意味と分かりながらストックしているのか?

それぞれのモノの年齢をイメージしながら・・・

「僕が所有するモノ年齢を加算するとどなるだろう?」・・・という妄想が頭の中で渦巻く。

高校時代から使っているコーヒーミルやホットプレート、鹿児島でカフェを始めたときに仕入れた中古のシンクやポットやプレート類・・・

30年以上使っているものが100点以上はあるのかもしれない。

それだけでもモノ年齢に数を加算すると3000年。

友人の佐藤君から預かっている古本の平均年齢が30歳として・・・1500冊以上あるので・・・45000年度数。

・・・

このモノ年齢は、あたらしい指標になるのではないか?

・・・・・・・・・・・・・・・

家自体が昭和4年のものなので、80年クラス。

その付随するものが100点はあるので8000年。

骨董の食器や着物、漆器類が500点あるとして、50年モノとして25000年

いろいろ加算すると10万年度数程度のもの年齢の家になるのかな・・・。

・・・・・

このモノ年齢って、ある指標として使えるんじゃないかな?

いかがでしょうか?
by fuji-studio | 2010-05-16 15:27 | ・思索雑感/ImageTrash
例えば、「monster stick」・・・名づけと存在
この冬最大の寒波とかで、福岡でも積雪。 そんな中、スタジオでの作業。

a0010575_10581741.jpg例の松ノ木の枝を支持体として、かえっこで集まってしまったおもちゃ類の中からモンスター系のものを繋いでみる。

ということで、モンスタースティックのできあがり!・・・?・・って、これなんだろう?


a0010575_197721.jpg何?という疑問に対しては・・・「monster stick」という名称を与えることで、なんでもないものがある固有のものになる。・・・ということも興味深い。しかし、それは第一段階・・・

名称を与えたからといって存在するかというとそうでもなく、・・・社会のどのシステムにどのように関係を持つかで、その存在が位置づけられる・・・というのが第2段階? 

例えば・・演劇で使われる小道具になったり、こどもの遊びの道具になったり、地域の祭りの道具になったり・・・あるいは新興宗教の象徴になったり?・・・


a0010575_16155745.jpgそれと並列に街でのアートプロジェクトというシステムがあるとして・・・、その街飾りのツールとして利用された瞬間に・・・それは存在しはじめ、新しい関係性をつくりだすことになる。(無視されることも多いが・・・)

そこからが第3段階・・・

その存在が思いもよらぬ関係と展開をもたらし、そこからいろいろな意識や状態が流通し始める・・・場合もある・・・

そのあたりが一番興味深いところ。

こんなになんでもないものが・・・、もの凄くありえない連鎖を引き出したとしたら・・・

それはまさに、monster magic? あるいはart?
by fuji-studio | 2010-01-13 10:58 | ・思索雑感/ImageTrash
状態をいじる性質(タチ)なのかな・・・?
去年の今頃制作したUltra Tower(ウルトラタワー)が一年間、どこにも登場することなく前原のスタジオで眠っていて・・・、そのままひどい環境に放置していたら結構ひどい状態になっていたのでもう一度修復しつつ、再制作。

a0010575_159378.jpg制作しながら自分自身、ずっと何をいじっているのかを考えていた。

「なにをいじる性質(タチ)なのか?」という視点で作品や作家を見るとその作家の求めている方向性が見えてくるので興味深いということを最近ようやく認識する。

たとえば、絵描きと一言で言っても、何をいじっているのかで随分と違う。

絵の具をいじる性質、形をいじる性質、色をいじる性質、風景をいじる性質、湧き出る妄想をいじる性質、画面をいじる性質、絵画の文脈や美術史をいじる性質、あるいは絵画のシステムや権威をいじる性質・・・いろいろな性質の人がいるから興味深い。

しかし、絵画という文脈でひとつの地平にならんでいることに大きな違和感・・・


a0010575_1993757.jpg建築家にもいろいろな性質がある。素材をいじる性質、図面をいじる性質、空間をいじる性質、歴史や文脈をいじる性質、人の行動や関係をいじる性質・・・時代とともに流行があったり、常に新しいいじりどころが登場したり・・・

それぞれの性質については時代の中での流行り廃りはあっても、別に上下があるわけでもなく、・・・流通するかどうかはさておいて・・・性質なのだから仕方ない。

僕自身、最近になってようやく自分の中の性質が見えてきたような気がする。

常に「状態」をいじっているのではないか?

彫刻してみたり、空間を作ってみたり、まちを関わってみたり、いろいろなところでディスカッションしてみたり、絵を描いてみたり、廃墟を掃除してみたり、並べてみたり・・・

結局、状態を過剰にいじることで・・・、ある特別な状態にすることに喜びを感じる性質なのでないだろうか?

・・・ということで、ウルトラとかモンスターとか・・・通常ではありえない状態にしている作業の結果・・・
by fuji-studio | 2010-01-12 20:09 | ・思索雑感/ImageTrash
WishとDreamの違いのモヤモヤ
a0010575_0625100.jpg「夢」というと一般的にはDreamの夢をイメージしがちだが、将来の夢というときの夢はむしろWish=意志に近い意味だと思っている。

しかし、通常、その両者の違いをあまり認識せずに使われることが多いのでモヤモヤしてしまう。

例えば、を遠い将来のビジョンのようなものだとすると、意志は近い将来に対するベクトルのようなものなのではないか。

ベクトルとは方向性とその強さ。

ベクトルの先の将来のビジョンの類はぼかして見えない場合が多く、とにかく、今現在の地点での意志のありようが問題であり、それがとても大切だと思っている。

むしろ、将来どうなるかがわからないので興味深く、意味が深いことだと思っているが・・・、一般的には将来のビジョン・・・具体的な姿を思い描くことが大切だとされている。その常識が僕をモヤモヤさせる。

特に若者相手に「夢を持て! 夢はなんだ?」と自信満々に問いかける大人・・・。

「将来のことなんかわかるわけがない!」とひねくれてきた僕には意味不明の問いかけだった記憶がある。

遠い将来に目標を持ち、そこに向かうために盲目になることよりも、その次の瞬間にどのように動こうとするのかの意志と行動力、瞬発力、無意識に動いてしまう感性が大切なのではないかと感じてきた。

もちろん、一向に夢見て構わないし、夢やビジョンを持つことで何かが加速することは確かだが、ビジョンに囚われ、だまされ、大切なことを見失ってしまう場合がある・・・というのも事実・・・。

見えないものに向かう勇気を魅力的だと思ってしまうし、その先へ向かう強い意志の連続が結果の連続を連鎖させる現実のほうが興味深いので仕方ない。

無限に広がる未知の可能性に向かうことが可能だとすれば、つねに感覚を閉じずに現状と対話しながら、手探りで・・・見えない次の一歩を踏み出す意志こそが大切なのだと思う。

そのとき、遠い将来のDreamとかビジョンに類する夢が常識という壁になって阻害する場合もある。

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確実にいえることは・・・1年後の世界ですら誰も正確に予想することはできないのに、10年後の自分なんて予想することなんかできるわけがないということと・・・、明日の行動の連鎖が確実に一年後の周辺の状況を変化させているということ。

・・・とにかく・・・一年がまたはじまる。

僕の今年の意志は・・・実は弱く、か細く・・・揺らいでいる。

・・・そんな年があってもいいんじゃない?
by fuji-studio | 2010-01-02 23:58 | ・思索雑感/ImageTrash
社会システムとフォーマット
a0010575_11494824.jpg僕らが学生の頃・・・つまり80年代前半まではシステムとフォーマットという概念は一般的じゃなかったなぁ。

ハードとソフトといういわれ方が流行ったのが90年ごろだけど、OSとアプリケーションという概念はまだコンピューターの概念だった。

昔は記録メディアをコンピューターにインストールするとき、必ずOSに合わせてフォーマットするという作業があったけど、最近はフォーマットの必要のないものが増えてその概念自体が希薄になってきた。

・・・で、最近特にこのフォーマットという考え方が気になって仕方ない。ただし、地域社会の様々なシステムにおいてのフォーマットという考え方。

フォーマットというものが何を意味するかということを問題にしているのではない。

フォーマットがあることによって加速するナニモノかと同時に、それによって束縛されるナニモノかについて・・・

意味不明だが・・・気になっている。
by fuji-studio | 2009-12-23 11:49 | ・思索雑感/ImageTrash