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突然敵は目の前に立ち現われて、そこから闘いがはじまる。
敵はとても身近なところにいて、いつもは見えていないのだが、何かのきっかけで急に見えはじめ、怒りと悲しみがこみ上がり…闘いがはじまる。

自分が信じていた存在がいきなり裏切り、自分に向かって脅威を剥きだしてくる。

a0010575_14585125.jpgそれは自分の内臓や細胞だったり、好物の食べものだったり、自分の信じる家族の病だったり、日常利用しているメディアだったり、日常接している環境だったり、…一般的な常識だったり…

一度はじまった闘いは問題が深いほど長引き、元の状態には戻れないが、…その闘いを乗り越えたあと…積極的に捉えると、自分の愚かさを反省し、自分の見えていなかったものを見極める機会になり、平穏に隠された見えていないものを読み取ろうとする能力は長けてくる。

今回の様々な災害も予測されていたことだが、誰も見ようとしなかったし、まさか現実になるとは思っていなかった…と思っていた。

まだ災害は終わっていないので今の状態で今回の災害をとらえることは不可能だが、隠されてきたものが随分と見えてくるのは確かである。

a0010575_1051674.jpg3.11災害が起こる数週間前、瀬戸内海の玄関口(山口側)に原子力発電所をつくる着工の情報がきっかけとなり、氷見でのプロジェクトで知り合いになった鎌仲ひとみさんのドキュメント映画のDVD2本を妻がネットで購入していて、放射能汚染についての無知を認識しはじめていたところだった。

地震災害は自然災害としてとにかく収まることを願うばかりだが、原子力発電所での放射性物質漏えいの災害は明らかに電力会社と行政の責任にあり、その責任の重さを理解していない関係者の姿や声に触れるごとに怒りが込み上げてくる。

いかなる理由であろうとも生活に被害をうけている人は加害者から補償を受ける権利がある。

今回明らかに見えてきたことは、一度災害が起こると放射能は必ずある程度流出するという事実と、その放射能を受けないために避難し、生活の場を離れたり、あるいは家から出ないような生活を強いられることが起こるという事実。

そして「最悪の事態の場合」どういう状態になるのかの想定を電気事業関係者や政府は語らないという事実。

そして、まだ解明されていない脅威を数多く抱えた存在であり、数世代後には必ず問題を発生させる存在であるという事実。

僕が暮らす地域は玄海原子力発電所から25㎞圏の海岸にある。たとえばこの距離をどのように捉えて、ここでの危機がどういうものなのかイメージできないようにされているのも、結局だれも本当のことなんて知らないからなのだろう。

これまでもいろいろな現場を体験してきたように…今回もまた「わからない」「知らされない」ことの不安を実感した。

個人的対人関係でもそうだが、不都合なことは話したがらない。決して話さないことの奥に一番重大な知るべきことが隠されている。これは資本主義経済の…経済活動を行う上での常識なのかもしれないが、やはり僕らは知ろうとしなければならないし、知らないふりはできない。

違和感を無視できず、それに立ち向かおうとするのは性質なので仕方ない。

「ただちに影響を与えることはない」とされている放射能汚染と人体や地域環境汚染との関係についても、現在の段階では解明されていない…科学的根拠がない…つまりわからない状態…とされながらも癌の発生率の上昇という現象は無視できないし、現実的に放射能汚染された地域の農作物や海産物は地域ブランドとして相当なハンディを背負うことになる。

多くの苦しみが想定されているにもかかわらずそれを「関係ありません。安心です。」とすることに対して不信感は募るばかり。

そして具体的な経済的被害や精神的被害に対して国や都道府県、あるいは電力会社がどのような補償を行うのかという数字は今のところ目にしていない。

そのうち巨額の税金がまたこの補償に投入されるのだろうか…

災害直後より、災害の状況や被災・困窮している人の状況、そして復旧に必要な情報収集と行動に全てのエネルギーを注ぐべきところ…にもかかわらず…自身の身の危険回避の為に注目しなければならなかった「原子力発電所の事故」。

そのことにより情報伝達や救難救助、物資の輸送が遅れ、命を落とした人がどれほどいるのだろうか。そしてその命に対して東京電力の原子力発電関係者はどれほどの責務を感じているのか。

まだまだ続く天災と人災が収まり、その災害について見極めた上で、それぞれの間違いに向き合い、数世代も先に危険を引き継がせるようなリスクの大きい社会活動に対しては闘う姿勢を固めなくてはならないのだと覚悟する。

…そしてまた自分の無知と無能を知るのかな…

とにかく今、現場で闘っている人、みんな頑張れ。…勝たなければならない勝負には勝たなければ…

記録は存在している人によってしか作られない…というのも事実…。
by fuji-studio | 2011-03-19 08:38 | ・思索雑感/ImageTrash
結果として…連続することが多い。
自分として「こうありたい!」との強い意志を持たず、大きくは流れに身をゆだねているような感じで、誘われるがままに、行動していると、いろいろな物事がシンクロしてきたり、バイアスが見えてきたりする。

過去には渡辺さんと仕事をすることが多い年があったり、ナガタさんと仕事することが多かったり、近年は森さんとの仕事が多かったり…2008年の書き込みにも森さんとのことが書かれているが…

仕事の傾向としても、地域系プロジェクトが多かったり、美術館系が続いたり、廃墟いじりが続いたり…大学でのレクチャーが続いたり…その時々でなぜだか偏りが見えてきて興味深い。

で、明日からの出張、やたらと偏っている。

明日大阪の釜ヶ崎での散歩ツアーのあと、横浜の寿町での2泊の寿合宿。

いわゆるドヤ街の中での連続宿泊も希少だと思うが、その後のトークがありえない。

中村政人との3日連続対談。さらに中日を除いて森司と3人で話す…。しかもこれが全部別企画。

初日は日本文化デザイン会議でのフォーラムでの一コマ。テーマはASIA。日本文化デザイン会議はなぜだか北本で始めたため日比野さんとの関係もあり抜けられなくなってきたが、さらに3331に絡んできたのでさらに込み入ってきた。ちなみに僕と中村政人との最初の出会いが1994年に福岡市美術館で開催された「第4回アジア美術展」
このときのアジア各地から参加していた作家の活動がそれぞれ結果としてリンクしていった。

で、次がアサヒアートフェスティバル絡みのAAF Cafe 本来ここがコアとなって結果として連鎖した企画。中村政人の秋葉原とか富山、秋田などの活動をAAFの周辺の人に紹介したいし、なんだかいろいろ動いてきてここらでまた話したいと考えて実現した二人のトーク。

で、最後の締めが東京アートポイント計画のInsideout/Tokyoの可能性を語るセッション。地域系アートプロジェクトを東京と繋ぐ仕組みを模索するInsideout/Tokyo Projectだが、その拠点や事務局が3331にあるので、3331の代表の中村政人と東京都の森司と…九州を活動の拠点としながら彼らと相当な時間を過ごしてきた僕が…ある意味本音で話を深める…のか…な?

それにしても…2011年のこの時点でこれまでの地域系アートプロジェクトのアーティスト側からの仕掛けのプロセスを再認識することは、今後のベクトルを大きく作るような気がしてならない。

…だれかちゃんと文章化できる人がいればいいのにな…この3日を繋ぐ新しい編集の視線が欲しいな…

僕としては…こんなことしてる場合じゃないな…

珍しく、予告してみました。

そうそう。このようなシンクロやリンク、あるいはバイアスって何か大きな流れの中に身をゆだねていると結構頻繁に遭遇する出来事…じゃないのかなってこと。
by fuji-studio | 2011-03-10 10:19 | ・思索雑感/ImageTrash
自分の時間に向かい合うツール
PCの画面に向き合うようになってもう20年以上…

インターネットのサービスが始まるはるか以前に最初にパソコン通信のネットワークサービスに加入したのが1988年だったのでかれこれ23年前か…。

a0010575_012980.jpgそれ以前は自分の時間に向き合うツールはもっぱら書籍とノートだった。

情報を書物とか雑誌とか新聞とかから得て、ひたすら自分なりの考えをノートに記する日々。

それが情報ツールの変化とともに徐々に変化していったことになる。

このブログを使い始めたのが2004年3月。ブログ以前はウェブサイトの利用は情報の検索や閲覧とメールと掲示板、会議室への書き込みでノートと向き合う時間もまだまだあった。


a0010575_023649.jpgしかしブログを日記代わりに使い始めて時間の隙間がブログの書き込みに費やされるようになり白いノートのページと向き合うことが少なくなった。

特に僕が気に入ってずっと使い続けていたコクヨの定番のノートのデザインがリニューアルされ、何かこころのよりどころのようなものを失い、B5版の無印のノートを使ってみたり、A5サイズのシステム手帳を使ってみたり、スケッチブックを使ってみたり…紆余曲折しながら、自分と向き合うツールを模索し続けてきた。…ってことは以前書き込んだこともある。
ツイッターを使い始めるようになり、情報の入り方、書き込み方はまた変化した。


a0010575_03467.jpg真っ白のノートに向き合う時間は外からの情報は極力制限され、過去の自分の記述の痕跡の連鎖から思考や発想ははじまる。

もしくは自分自身の内部と向き合うことから始まり、思考と指先を経由してインクの表情を通してぼくの内部は表出されるプロセスをたどる。

ちなみにそれは…行為としてとても心地いい。時間として豊かな時間だと思っている。

一方たとえばツイッター等ソーシャルメディアなどへの書き込みは、まずはじめに他者の発言が目に入り、一度脳を経由して、それへの連鎖から発言がはじまる。

あるいはモバイル端末のトップ画面を経て、アプリケーションの画面を経てキーをたたくことで言葉を探し、…正確には言葉の変換を思いながら…というプロセス。


a0010575_043386.jpgちなみに行為としては…僕にとっては不安定で焦燥感と同居し、疲労感と空虚感を伴う…かも。

前提としてノートに向き合う時は原則非公開でプライベートだが、ブログやソーシャルメディアへのつぶやきは公開…。

そのフォーマットの有効性と魅力を感じながらも、一方で自分の思考を強制する危機感もある。

やはり基本的にノートと万年筆に向き合う時間の中からしか絞り出すことのできないイメージが存在するという幻想を大切にしたいし…、それでもソーシャルメディアが持つ力の魅力も探ってゆきたいとは思っている。

それにしても、ここにきて…もしかすると相当いい付き合いになるかもしれないノートと出会った…ような気がする。

ずっと昔からあるのになぜか使ったことがなかった。

ツバメノート社製のA4サイズの無罫のノート。

なぜA4かというと、単純にちらしとか書類とかが貼り付けられる。スクラップやバインダー代わりにもなる。

しかも紙が中性紙フルースという…何?10000年の耐久性!?

イメージプランを写真にとり画像処理して企画書にするときにいつも罫線が邪魔になっていた。

どうせ、罫線通りに文字を書いたことがないから罫線はいらない。

ツバメノート株式会社というのがなんだかとても信頼できそう。万が一いい落書きができたとしたら、美術館は喜ぶかも…。

ツバメとペリカンという組み合わせもなんだかとてもいい。

…ということで、僕がディスカッションの間とかにずっとノートをとっている姿に違和感を持った人も多いと思いますが…実は手を動かさないと頭が動かない性質なんです。

だから余計にこのノート…いいかも。

とりあえず通販で10冊ぐらい買ってみようかな…

そうそう。もうひとつ。分類されて並んでゆくのがたまらないんです。これが10年後何十冊と並んでいる姿を想像すると…たまらん。
by fuji-studio | 2011-02-23 23:59 | ・思索雑感/ImageTrash
製品と廃棄物の中間領域 (b_a)その2
僕が1997年に出会った福岡の養鶏場跡。

もともと9m×60~100mぐらいの養鶏舎が10棟あり、養鶏を廃業した大家さんがその利用法を模索しているところに出会った。

a0010575_1575886.jpg制作スタジオとして必要な分だけ借りれるシステムを模索し、僕がそこで作業を始めると、いろいろな人の利用が連鎖し、みるみるうちに空き鶏舎は制作スタジオに変わっていった。

結局、数十名の陶芸家、木工家、大工、施工スタジオ、造形スタジオ、人形劇団、バイク工房、倉庫等いろいろな人が利用を始め、木工家が共同でギャラリーをオープンしたり、教室を行ったり…ついには大家さんがダンススタジオを手作りしてその利用が活気づいたり…気づいてみると最近の地元の地図には「芸術村」と表記されるようになっている。正式名称はRSミサカなのだけれど…。


a0010575_164417.jpg 利用しはじめて数年がたち、建物の利用が活発になり、空き部屋が無くなりつつある頃、大家さんに中間領域を作って欲しいと提案して、現在でもそのまま利用されている。

ここでの中間領域ははっきり言うと廃材置場

廃材置場には基本的に廃棄処分するにはもったいないと思われるものをこの芸術村の利用者は無料で置くことができるし、芸術村の利用者ならば、だれでもここにある素材は利用していいということになっている。

※写真は2003年頃の写真。懐かしい。当時はまだ夕方になると乗馬用の立派な馬が放し飼いで散歩していた。一人で作業しているときとか癒されたなー。 


a0010575_15111055.jpg 鹿児島の実家の改装で出てしまったたくさんのアルミサッシ(窓と窓枠)も、廃棄処分するにはあまりにもったいなかったので鹿児島からトラックで運んできて、そこにおいていた。結局大家さんがダンススタジオを作るときに全部使ってくれた。

僕もたまに木材とかパネルとか、家の隙間風を埋めるのに利用したりする。


a0010575_15114969.jpg 学生時代に廃材置場からいろいろなものを拾ってきて制作に利用したし、大学の近くには秘密の廃棄物置き場があり、これも秘密だが、後輩たちはそこに忍び込んで利用できそうなものを拾ってきてイメージづくりに役立てた。

廃材置き場には思わぬ出会いがある。


a0010575_15122555.jpg 今の地域社会のシステムではこの廃材置き場に類する中間領域がない。

去年、地元の小学校の体育館の建て替え工事に伴って体育館の床材を処分すると聞いて相当欲しかったのだが、もちろん、無視された。

※写真のグランドピアノの廃材は亡き伝説のパフォーマーの風倉匠が福岡でパフォーマンスに使い、その後作品としてミュージアム・シティ・福岡に設置した作品の処分されたもの。廃棄されるのがあまりにももったいなくてしばらく置いときました。<br clear=all>

a0010575_15132464.jpg 先月、家の横の防風林の松の木の植え替え作業をやっていて、相当立派な松の木が何本も廃棄処分されていたが、運搬の手段と置いとくところさえあれば全部もらいたかった。 

商品や製品は安全でなければならないという裏側で廃棄物は危険であるというのが常識で、廃棄物には特別な資格をもった者しか会う使うことができない…のだと思う。そこに中間領域はいまのところ用意されていない。


a0010575_15155850.jpg廃棄物処理場は廃棄物処理法によってつくられた施設であるという縛りから…だと思うが…危険な場ということにして、一般人は立ち入ることができないが、製品と廃棄物の中間領域が社会的に位置づけられることで状況は変化するのだと思う。

この養鶏場跡のスタジオも養鶏場から廃墟の間のボーダーエリアにあるとも言える。確固たる常識的な領域にないし、どこまでいっても完成することなく変化し続ける「つくる現場」でもあるし。


a0010575_15272772.jpgそのように考えるとkaekkoのシステムもVinyl Plastics Connectionのシステムも、この製品と廃棄物のborder area(b_a)から発生した活動なのかも。

昔から地域に根付いている廃品回収などのリサイクルシステムも、ある意味中間領域だが、リサイクルという単一の価値観ではなくて、もっと新しい可能性を作り出す領域として多彩に深める視点があってもいいと思う。


a0010575_1525146.jpg使わなくなった台所用品や洋服、家電、家具などを廃棄処分、あるいはリサイクルする前に、無料でやりとりできるリアルフリーマーケット(完全に無料でやりとりできる場)のようなシステムも地域には必要だと思うし、これからの大きな課題のような気がする。 


a0010575_15281320.jpgたとえば、中心市街地の商業施設の巨大な廃墟ビルが東急ハンズのような品揃えで、全く無料でやりとりできる現場ができたとしたら、そこに人はいろいろなものを持ち込み、そこからいろいろなものを持って帰る。

少なくとも人が集まる現場はできる。それをどうやって流通に結び付けるかは人と物とお金の動きをつくるマネジメント力であり、それを形にするデザイン力だったりする。


a0010575_15295162.jpgモノを作ってモノを売るという発想ではなく、クラウド的な…地域社会全体の中のネットワーク上で動く大きな経済流通の中に位置づける視座が必要なのだろうと思う。

いや、単純に「会員制のリアルフリーのゼロバザール」のよな場をつくるだけでもいいような気がするが…。

「リアルフリーのゼロバザール」いい響きだなー。使えそうですね。

ググってみたけど、ゼロバザールという言葉はまだ見当たらないですね…。やったー。リアルフリーはビールとかでありそうだけど・・・。

…そういえば、僕の周りは…生活空間にせよ仕事仲間にせよ、中間領域ばっかりだな…。
by fuji-studio | 2011-02-16 10:20 | ・思索雑感/ImageTrash
作業と仕事、そして労働の違いとその間・・・中間領域(b_a)について
先日の川西市の廃棄物処理場でのトークの時もその話をしていたし、西成でのディスカッションでも、近江八幡でも話をした。

a0010575_13919.jpg…去年の夏の豊島の現場でも感じていたモヤモヤ…中間領域…ボーダーエリア=(b_a)について。

常識的にくっきりと線引きされ、意図的に、あるいは無自覚に排除されてきたのが(b_a)なのではないかと…

たとえば、商品あるいは製品から廃棄物に移動する間の(b_a)、就学と就職との、国と国の、海と海岸の、作業と労働の、私有地と道路の、就業者と退職者の、友人と恋人との、境界線によって明確に分ける理由は管理上の都合によるのだろうと思う。おそらく法律とか規制とかと税金とか責任とか義務とかと無関係ではない。


a0010575_1394436.jpg豊島もそうだったが、地方には「仕事がない」と多くの人が嘆く。実際にそこで充分な現金収入を得ることができる仕事の選択の幅は狭いのかもしれないが、実は膨大な量の「作業」が潜伏している。

先人が開拓してきた棚田をはじめ、田畑に手をいれる作業。

人が暮らすことがなくなった空き家や空き地の草刈りや庭いじりや掃除整備。墓守や伝統的祭事。

森林の間伐や海岸清掃、道路や共有地の清掃整備…


a0010575_1403154.jpg清掃整備に代表されることだと思うが…単純に乱雑で荒れ放題の人の手を離れたところに手を入れる作業はその場の質を変えてしまう。

台所の掃除をするだけでも家族の中での妻との関係が少しは良くなるように、作業の積み重ねは周辺環境を変化させ、周辺の人との関係を変えてくれる。

自然成長型の(荒れ放題ともいわれる)庭を好んで抱えていた僕としては何度も経験していることだが…荒れ放題の庭は近隣に暮らす人に不安を不満を与えるが、上手に手入れされた庭を嫌がる人はいない。


a0010575_141470.jpgとにかく、作業は周辺との関係をよくするという意味でも自分自身の気持ちを豊かにしてくれる。

それが仕事に繋がるかどうかは別の話として、活きるうえで(生きるうえで)とても大切な行為が作業だと思う。

言葉のイメージとしては「仕事」とは「仕えている」事なのだろう。(字のままじゃん)

根が仕事人間だし、濃厚な仕事人間遺伝子を受け継いでいるので体に染みついている言葉。自分のためではあるが、成長のためとか収入のためとか責任感であるとかと無縁ではなさそう。しかし、仕事を重ねると収入と直結しているイメージがあり、英語だとbusiness。

その収入と直結したイメージがあるために、収入のない仕事を行うことは許されない気がする。


a0010575_141442.jpg労働という言葉も嫌いではないし、性質として労働者の類だと思っている。英語のイメージではLaborかな。

なんとなくしんどそうだし、労働という言葉を聞いただけで労働後のおいしい一杯のイメージがこみあげてくる。

それだけにねぎらう(労)べき働きだろうから大変そうでどちらかというとやらされている仕事のイメージがあるし、重たいイメージもある。

苦を労ったり、働きを労ったりとのイメージからだと思うが、大変な分だけそれだけ大きな対価を得てしかるべきというイメージがある。


a0010575_1422760.jpgことばのイメージからするとしんどさでは作業<仕事<労働だし、対価の大きさでも作業<仕事<労働…しかしこれは僕の感覚で、それぞれの体験により、実はその感覚は人それぞれ全く違うのかもしれない。

とにかく、対価や収入に関係なく、作業は自らを豊かにし、周辺との関係を変えるという事実が地域社会の中で無視され排除されてきたのではないかという疑問…


a0010575_143512.jpg地域社会にはやるべき作業で溢れているというのに…仕事と労働の束縛で作業の機会と時間が奪われているのではないか…とか…

労働と仕事から得る金銭の束縛が無償の作業から拡がる自分自身の可能性を奪い取っているのではないかという疑念…

労働には労働基準法があり、いろいろと社会的に多くのフォーマットがあり、社会的に保障がありそうな気がするが、逆に作業についての規制は緩やかな分、保障とかもなさそう…。


a0010575_1475232.jpgもちろん僕のモヤモヤは言葉の問題にあるのではない。

個人的な業を作る「作業」と「仕事・労働」の間に無限に広がる様々な社会への関わる態度について。

仕事や労働の常識や法律などによって見えなく隠れている膨大な作業周辺のボーダーエリアに何かが隠れているのではないかという感覚である。

全国各地のプロジェクトの現場で無償の作業に没頭し、それぞれの生活の深みや豊かさを模索する多層な年齢の人々の態度に出会う度、金銭では買うことのできない貴重な時間の存在を確信する一方で、過酷な労働や仕事に従事し、金銭的対価を多く得ている人ほど、商品化された娯楽の時間を当たり前のように高額で購入するものだと信じさせられている人が多いのではないかと感じたりもする。

さらに…釜ヶ崎等に集まる高齢者が求める労働の対価として存在する見えない搾取…

働けば働くほど奪われてゆくものがあるし、働かなければ失ってゆくものもある。

他人ごとではなく、僕自身についても…何を奪われて何を得ることができているのかを見極めるのはとても難しい。

その答えはボーダー(境界)を見つめることで見えてくるような気がしている。

…いや、単に…個人的になんでもない領域、ボーダーが好きなのかもしれない。

もっと厳密に言えば…何でもない領域からなにか凄いことを作り出すのがやめられない性質なのかな…

※写真は先日西成の釜ヶ崎周辺を歩いた時のスナップ。窓を眺めて中の部屋の様子を想像してみると興味深い。釜ヶ崎そのものがボーダーエリア。作業したい。いじりたい。

by fuji-studio | 2011-02-14 23:21 | ・思索雑感/ImageTrash
基礎超識: 地域イベントと地域実験の大きな違い。
川俣さんとの大型アートイベントに関するトークを終えて、ほとんど語れなかった印象をぬぐえないでいたが、次の日の朝、横浜でアサヒアートフェスティバル(AAF)の関係者と話していて、AAFがサポートしている地域系の…どちらかというと小さなプロジェクトと前日テーマになった大型のアートプロジェクトとの「違いはなんだ?」との視点を問われ…そのとき別のことを答えてしまったような気がして…その後もモヤモヤが染みついていた。

a0010575_23362185.jpgで、さらにアートイベントを研究しているという学生から質問がきて、それに答えようとしつつ…いちばん大事な前提を話していないことに気づいた。

これも僕自身の超識だと思うが

そもそも地域系のイベントと地域実験はまったく性格が異なる。…というか、前提が異なってくる。

イベントは「成功すること」を前提として成立し、失敗しないことが配慮され物事が仕組まれてゆくが、実験は「失敗することで問題を見出す」ことが前提として仕組まれてゆく。…と考えている。

僕の超識では地域は(もちろん個人や組織も…)もっと様々な実験を含む経験を積み重ねることで豊穣化してゆくと考えているので、失敗も含む地域の経験値の増大そのものに価値があるとする…そのことが前提となっている。

地域の中から新しい価値を見出す活動は実験も経験もなしに「簡単に発生させようとする」こと自体が暴力だと思っているし、成功するために「失敗を見ようとしない」視線からは何も生み出されないのではないかと考えている。

とにかく、アートプロジェクト、アートイベント、フェスティバル、トリエンナーレ、ビエンナーレ、芸術祭など地域をベースとして繰り広げられる様々な出来事が並列に語られがちで、混乱してしまう部分もあるが、あきらかに「イベント系であるか、地域実験系であるかの違い」はその呼び方に主催者の意識の違いを垣間見つつも、「何をもって成功としたか」がどの部分で語られているかを見るとその関係者の意識が明らかになる。

地域は多くの表出していない問題を抱えているし、地域で暮らす人はそれぞれ違う問題を多層に抱えている。その見えないモヤモヤ(潜在的問題)がイメージ化され、その解決に向かう「新しいベクトルを見出せたかどうか!」が地域実験における成功だとすれば、「来場者数の増加や経済波及効果の上昇」は地域イベントとしての成功なのかもしれない。

僕は個人的には大型のフェスティバルやアートイベントそのものが、実は社会実験ともいえる大型の地域実験として成立しているという視点で興味を持ち参加している。しかしもちろん、主催団体や実行委員会、あるいは事務局がそれを実験として認識していない場合があってもおかしくないし、小さなアートプロジェクトであってもそのケースはありえる…が、それほど問題だとは思っていない。

ただ、地域実験としての意識を持ち、地域のいかなる問題が浮上し地域の中にこれまで出会ったことのない新しいベクトルのイメージが発生したかどうか…それを地域の誰と関係者の誰と共有できたのか! そして「そこで暮らす人が次に動くべき行動のベクトルと出会えたかどうか!」ということなのではないかと思っている。

そのあたりについてまったく話できなかったんだけど、この部分ってたぶん重要なんだと思う。

そんなことってたぶん常識的じゃないんだろうな…。

評価の話していてもそのような話題にはならないし…。
by fuji-studio | 2011-01-22 18:18 | ・思索雑感/ImageTrash
基礎超識3:作品は味わうもの。美味しいかどうかが問題。
そもそも美術作品は味わうものだと思うので、美味しいか美味しくないかが問題だと思っている。決して、わかるとかわからないで判断するようなものではない。

a0010575_11472958.jpg食事をわからないから食べないという人はなかなかいないんじゃないかな。

食わず嫌いというのもあるが、食べてみないとわからないものほど美味しかったりする。

美味しそうに見せているものには毒が含まれる場合もある。(そういえば昔僕の作品をそのように論じた人がいたな…)

料理と一緒で「どうやって作ったのか、なぜそんなものまで作ったのか?」はわからないもののほうが美味しい場合が多い。

いい食事かあるようにいい作品もあるし、悪い食事があるように悪い作品もある。

そして旬もあるし、賞味期限切れもある。腐ったものもあるが、腐ったものほど美味しい場合もある。

味にたとえるの感覚に直結しているからかな・・・?。

作品は好き嫌いで食べることもあるし、健康のために食べる場合もある。

美味しいかどうかの判断はその日の体調や前日に何を食べたかによもる。

…ってこのあたりのこと以前詳しく書いたのでそちらをぜひご覧ください。
by fuji-studio | 2010-10-08 13:23 | ・思索雑感/ImageTrash
基礎超識2:人の作り出したモノゴトに関する時間軸。
モヤモヤからイメージを立ち上げ、イメージが流通し、編集されて価値化されるという時間の流れがある。

a0010575_11533230.jpg芸術祭とか展覧会とかのフォーマットの中では、どうしても、あれもこれも「美術作品」と単純に一括りにされ、均一化されて見られてしまうが、実は作品にも時間軸がある。

発芽の時期があり、旬があり、完熟期があり、保存加工期があり、醸造期があり・・・あるいは告別期もあるかもしれない。


a0010575_11544269.jpgもともと博物館は役割を終えた…ある意味死後の適正な墓場として、その慰霊を尊重し保存、伝承するためのものだったろうし、近代美術館はその意味では保存加工、醸造施設だったのかもしれない。

とにかく、さまざまな活動にはイメージとして立ち上がる瞬間があり、それが時代と関わりがうごめきはじめ、存在感を放つことで次の時代の価値観へとつながってゆく流れがある。そこを旬の時期と捉える。


a0010575_1156153.jpg価値化されたもので希少なモノが高額な商品として流通するが、価値化されるプロセスにはいろいろな人の思惑が絡み合う時間の経過がある。それが完熟期とか醸造期とか…かな。

そうやって作られたものは確かに多くの人心や欲望を突き動かしただけのことはあってそれなりに凄い。


a0010575_11572422.jpg多くの具現化された作品はイメージ化されたものだが、イメージ化される前の状態があり(個人的にはそれをモヤモヤと呼んでいるが)モヤモヤからイメージが発生する瞬間がもっとも僕にとっては魅力的だと思っている。

しかし、その発芽物はまだ流通していない意識や価値観なので「なんじゃこりゃ~」だったり、「じわー」だったり、「ムムム…」だったり「がっぴょーん!」だったり…とにかく今まで出会ったことのない感情を伴うだけで、その後それがどのような連鎖を引き起こすのか、それが何を意味するものなのか理解不能のことが多く、それに価値があるのかすらもまったく保証がない。


a0010575_11584714.jpgだからこそ次の時代の価値観の種や卵になりえるし、可能性と期待感にドキドキする。だからこそ価値がある。

そこに注目する多くの人は価値化され流通してしまった過去の表現作品に多く接するうちに段々と価値化される前のイメージ…つまりまだ見たことのない、まさ体験したことのないイメージを求めるようになり、そこに出会わなければなかなか心が動かなくなってしまったのかも。

・・・


a0010575_1214453.jpgとにかく、数百年前や数十年前に価値化された美術館の作品から美術の授業が構成され、美術の常識が流通しているために、価値化される前の発芽期や旬の状態の作品について「わかりにくい」との評価で切り捨てようとする常識に違和感を覚える。

わからないから面白いと思う感情こそ小学校で一番教えなければならない感情なのだと思うが…

・・・・・・・


a0010575_11595419.jpgもっともわかりやすいフェイスやスキンのレイヤーをまといつつ僕自身が理解不能なところで活動している僕がいうのもなんだけど…。ね。

そうそう。熱烈なアートファンはわかりにくいスキンやフェイスのものを好む傾向にあるよね。

さて、ここで超識1の33年1世代の超識とリンクさせると、一人の人間の時間軸にも3段階の世代の変化があることに注目してほしい。

地域とアートを語るときにそれぞれの時間軸の掛け合わせがキーになると思うのだが…



※写真は文章とは直接関係ありません。豊島に設置されている美術作品の周辺で撮影してしまったモノたちです。
by fuji-studio | 2010-10-08 12:45 | ・思索雑感/ImageTrash
超識ってどうだろう?
基礎超識という言葉をブログタイトルについてつけてみた。超識は常識や知識ではなく…超常識のようなもの…。

a0010575_11505696.jpgたとえば…僕の台所や八十郎の台所では食器洗いの洗剤の入っていたボトルを醤油さしにしたり、オイルさしにしたりとかなり貴重なものとして利用するのが常識だが、どうやら一般的には超常識らしい。

食料品のパッケージやペットボトルなど家庭から出る生活廃材はいろいろな活動を作り出す素材として洗って分別して倉庫にストックすることが我が家の常識だが、あまりやっている人は少ないらしい。

カセットコンロと電磁調理器を数台必要に応じて机の上に取り出して料理するスタイルが我が家の最近の常識になっているが、それも一般的には超常識らしい。

我が家にはテレビがないが…それはまあ、普通のことか。

家庭の中にテントを張ってそこで生活しているのも超常識?

そうか。超常識という言葉も常識じゃないんだな。ずいぶん以前から、個人的に使っている言葉なので慣れてしまった。

常識でないことを非常識というが、非常識という言葉はネガティブなので、ポジティブな方向に常識を超えている物事を超常識と呼んでみたのが…10年近く前ぐらいからかな。

超常識をさらに訳して超識というのはどうだろう。

常識を知らないがゆえに、個人的にずいぶん前から思い込み、すでに自分の中では常識となっているのだが、周辺の人の常識を超えている状態のものごと?

とにかく、瀬戸内国際芸術祭の現場にいて、僕の常識が周辺の人たちとかなりズレているのだなと思うモヤモヤと出会い、個人的な基礎超識を紹介しなければならないなーと感じている。

そういえば、モヤモヤという言葉も僕の中の常識…超識なのかな。

モヤモヤとはイメージが立ち上がる以前の状態の呼び名。

モヤモヤは違和感やズレから発生すると定義しているが…それも僕の言葉かな。もう一般化したかな?
by fuji-studio | 2010-10-08 10:11 | ・思索雑感/ImageTrash
数の暴力・・・どのように向き合うのか。
東京都文化発信事業プログラムのひとつ、東京アートポイント計画。去年から動き始め、まだ1年半だというのにいろいろな種が蒔かれ始め、それぞれの現場での問題の一角が見えはじめてきた。

a0010575_1111179.jpg大きな「文化・芸術」という視点に縛られず、地域の小さなポイントに目をつけてそこからにじみ出てくる問題に対峙しながらいろいろな活動の連鎖やネットワークをはかろうとするのが「東京アートポイント計画」・・・大きな行政が行う事業としてはかなり画期的な視点のプログラムとして注目し、僕もそれなりの発言をしつつある。 


a0010575_11122034.jpgしかし、なかなか現場は難しい。

担当者の問題でもなく、個々に関わる現場の問題でもなく、・・・システム化しようとするときに働く荷重の問題・・・なのかな。

それは東京都のような大きなシステムの問題だけではなく、3331につくられたかえるステーションの運営システムのような小さな現場の問題も繋がっている。


a0010575_11285442.jpg最近、荷重の要因のひとつは「数の暴力」なのではないかと考えるようになった。

単純に数が重なると多数になる。多数になると暴力になりえる。

個人の中に発生する些細な違和感を無視することなく、ちゃんと向き合う態度にこそ・・・常識や偏見を超えようとする態度にこそ「つくる」ことの重要性があるということはわかっていながらも、その「つくる」状況をつくろうとする段階で・・・社会化しようとする段階で・・・流通の段階で、「数の負荷」が発生する。

そのことにどのように向き合うかが問題の鍵になる。

多数は暴力になりえるということは知っているというのに、相変わらず多数決が原則となっているこの社会のシステムに違和感を抱いている人も多いのではないか・・・。

多いということが力になりそう・・・ほら。暴力。

多数決の原理に基づく選挙という常識についても・・・いつもぶつかる違和感。

そろそろ新しいシステムがイメージ化されてもよさそうだと思うがなかなか見えない現状。

特に、日常的に・・・東京という大勢が動いている現場をなれて暮らしているので、たまに地下鉄や駅、交差点などで大量の人を体験するだけで、暴力を受けているような気がする。

・・・そういえば、瀬戸内の小さな島で起こっている問題も、数の暴力と無関係ではないのだろうな。

・・・昔鹿児島で経営していたカフェも、かなりイイ空間として作ったつもりだったけど、来客数が増えるごとにイイ空間は崩れ、数を維持する方向に流れ始め、閉店の道を辿った。

数の暴力の裏側には貨幣経済、資本主義の原則が張り付いている。

そういえば・・・かえっこの基本原則、原初的数の認識、「1、2、3、いっぱい」という数え方に立ち返る。

いっぱいという感覚は数の問題ではなく、相対的な感覚の問題なのだと思う。

この「いっぱい」に対する感覚・・・「いっぱい」は「欲」と密接な関係にある。

掘り下げる必要があるな・・・。

・・ああ、でも掘り下げるのが苦手なんだよな・・・堀さげようとしてもズレてしまう性質・・・。
by fuji-studio | 2010-09-14 23:58 | ・思索雑感/ImageTrash