カテゴリ:・思索雑感/ImageTrash( 99 )
地域活動での土、風、光、水の性質について(再考2)
数年前、とある地域でのシンポジウム会場で「土の人」と「風の人」の話題になり、違和感を持ちながら聞いたことがある。いろいろな地域で活動を行おうとすると、外から来る人に対して「どうせすぐいなくなるのだから何も期待していない」と拒絶する態度と出会うこともある。その会場では地元の人を「土の人」と呼び、外から来たアーティストを「風の人」と呼んでいたのだけれど…。確かにそういう面もあるが、そう単純なものでもないと思う…。

土・風・光・水・4種類の性質

a0010575_8384010.jpg人にはいろいろな性質(たち)がある。何か面白い種を見つけると、自分で所有して育てたがる性質。何かに使えるんじゃないかと思い様々なところに運び何かに役立てようとする性質。その素晴らしさを広く多くの人に伝えたがる性質。自分の楽しみとしてその存在そのものを面白がる性質。人はそれぞれ複雑にいろいろな性格を持っているので、単純に分類はできない。しかし、それぞれ接し方に性質の違いがあり、自分自身がどういう性質なのかについてはその複合度合も含めて自覚してもいいような気がしている。

それを仮に種が発芽し成長するために必要な4つの要素に例えてみる。

土の性質 自分のフィールドで育てたがる
風の性質 いろいろなところに運びたがる
光の性質 いろいろな人に紹介したがる
水の性質 とにかく興味関心を注ぎ面白がる

地元で地域のことを憂い考え、何かしなければならないと考えている人の多くは土の性質が色濃くあると思う。しかし地域の歴史も含めた様々な地域遺産に光をあて、地道に研究、発表している光の性質の人も地域には数多くいる。

地域の内側からは見えにくいかもしれないけれど、地域の特性や面白いものをちゃんとほかの地域で語り広げようと外で活動している風の存在も忘れてはならない。そして最も注目したいのはいろいろな興味深い活動に必ず登場し楽しんでくれる水の存在だと考えている。

土の豊醸化

a0010575_8392347.jpg土の性質の人は土地に根差している人が多いものの、意外と外からやってきたり、あるいは一度外に出て帰ってきた人も多い。その土壌の質について客観的に捉える視点を持っていて、愛着を感じつつ、そこで活動を育てようとする。

問題はその地域の土の質なのかなと思う。肥沃で豊饒な土地であれば問題はないが、荒れ果てていたり、傷だらけだったり、病んでいたり、枯れていたり、薬漬けにされていたりする場合もある。「文化なんて無縁の不毛の地だ!」と自嘲する声も聞こえるが、実は地域の豊醸化(ほうじょうか)は小さなきっかけから動き出す。

地域でなんらかの表現行為を行うことは、苗を植える行為に近いんじゃないかと考えてきた。

仮に開花しなくても、実が収穫できなくても、その苗は枯れて土に戻り、養分になり、つぎの苗の開花に繋がる。そのように考えると無駄な表現行為は一切ないんだと思えてくる。どんな些細なつまらない表現行為でもなんらかの養分として、その土地の経験として蓄積されるのだと考えれば、なんだってやってみたほうがいい。

まったく閉じた環境にある場合でも、土が熱を発することで上昇気流が起こる。突然、なんらかの要因でその地域に光があてられはじまる場合もある。あるいはその地域で何か事件がおこり、ヒートアップする場合もある。もしくは地域で誰かが動きだし、何かが始まり発酵し、それが地域の熱になることもある。

とにかく土が熱を帯びはじめると上昇気流が生じ、風が吹く。その風に乗り様々な人、モノ、情報等が流れ込んでくる。たまには新しい種を運んでくる。あるいは風は雨雲を運び、地域に水を注ぐ。適正な水と適正な光があり、土に十分な養分がある場合、種は発芽し、成長し、開花し、実る。もちろん開花しなくてもその繰り返しののちに地域は豊饒化に向かい、いずれ花は咲く。

そもそも種は地域に多種多様に眠っていると考える方が自然なのかもしれない。何らかの要因で、土の中に深く眠っていたり、光の当たらないところでじっと発芽を待っている。それが外的要因で、外からの種の為に耕され、光があたることで地域の環境が変わり、眠っていた種が地域の中から様々に発芽する。

水の存在の特性と重要性

a0010575_840126.jpgこの豊醸化のプロセスにおいて、あるいは種の発芽・成長においても、水の存在がとても重要であることは分かっているものの、地域における水の存在についてあまり語られてこなかった。

土の存在はすべてを育てるベースとなるので地域の主体として語られる。また風の存在は珍しいモノ、情報、人、意識を運んでくるので話題になりやすい。光の存在はまさに活動そのものに光をあてるメディアであり、助言や批評であり、影響が見えやすい。土、風、光の存在は仕事に直結している場合も多くそれぞれの立場に束縛されてしまうこともある。

しかし、水の存在は仕事上の立場に束縛されることなく興味・関心の範囲で自由に動くことを志向しているので、いいものはいい、ダメものはダメと利害関係を超えて明確に発言してくれる。その意味ではとても信頼できる存在なのだが。興味を失うと何のためらいもなく他のところへ流れてゆくので、名前が残ることが少ない。

そもそも水のあり方も様々で土壌の発酵の為の湿気であったり、発芽の為の水分であったり、朝露であったり、あるいは蒸発して大気に溜まる雨雲であったり、注がれる雨であったり、流れる川であったり、常に状態を変えて変化し続ける触媒の存在ということも興味深い。

水の在り方が地域の風土をつくる。

a0010575_8405165.jpg地域の風土を知るには地域の水の在り方を認識しておくことが大切だと思う。砂漠にも熱帯雨林にも低湿地帯にも文化は育つ。その在り方の違いは水の在り方、人と水との関係の在り方の違いなのではないかと考えるようになった。

水の流れは濁流になれば多くの文化を破壊する恐怖にもなる。あるいは一見清らかな清流には養分はなく生物は存在せず、淀みの中に多くの生物が生息する場合もある。ささやかな流は和みにもなり、安らぎにもなる。水は感性に直結している存在のような気がする。生きる上で水は必要不可欠なように、地域活動にも水の存在は不可欠だということがあまり語られてこなかったように思う。

とにかく興味や関心を注ぐ水の存在がなければ、どのような活動も発生することもなければ育つこともないのかもしれない。

何か些細な活動を思いついた人がいたとして、その人の横で「面白いね」とささやく無名の誰かがいたからあらゆることは動き始めたのだと確信している。

※一部の写真はいわきの田中さんちの田んぼ

過去の関連ブログとか・・・
水…か。風土…土と風をつなぐものだな。
Miracle Waterについて
東京事典でのインタビュー「水の溜まりと水栽培」
by fuji-studio | 2012-06-02 07:30 | ・思索雑感/ImageTrash
イイという価値観について(再考1)
イイ家族とか、イイ作品とか、いい地域というときのイイという価値について、基本的に子どもの頃から周辺とぶつかってきた。ぶつかるかゆえに考えざるを得ないことも多かった。

a0010575_17384864.jpg僕は即答できるタイプではないので、多くの場合その場では答えられずに、黙ってしまい、その分じわっと抱え込み、かなり時間がたって自分でも忘れた頃、ふと自分なりの考えを思いついてしまう。その時には周辺の話題や関心は他に移っていて、だれも聞いてくれないこともしばしば。

イイという価値判断はだれがつくりどこから流れてきて、どのように定着しているのだろう?

イイという価値が大量にメディアや街に溢れ、あるいは先輩や先生から押し付けられ、とにかく濁流に流されているような気がしてならなかった。自分としての価値を考える前に多くの価値が与えられ、そのなかで上手に泳ぎわたることができなかったのだと思う。


a0010575_17394226.jpgイイという価値観は絶対的なものだという話もあったかもしれないけど、そんな幻想はもう通用しない。誰かにとってイイものが他の誰かにとってはダメなものはいっぱいある。ある人にとってのイイ関係でも他の人には迷惑な場合もある。

イイという価値観は相対的なものであり状況によって変化する。それを確信してから楽になった。そして…イイという価値は「誰と」語り合うのかによって一番変化するというあたりまえの事実に気付いてから目の前は明るくなった。

駅前に何十年もたち続けている裸の姿の女性像を具象彫刻を目指している作家とみると、その表現力の凄さ視線が行き凄い作品だなと思ってしまうけれども、女性の権利の問題を行っている人と見ると、女性を裸で立たせていることそのものが問題だと思ってしまう。思春期の子どもとそこを通るときはなるべく見ないようにして無視してしまう。


a0010575_17403595.jpg上質の水が湧き出る自然の泉の横でペットボトルに入った市販の水はほとんど価値がないと思われがちだが、その水の研究開発者といると、自然に湧き出る水よりペットボトルの中の水のほうが美味しく感じることだってある。砂漠の中でペットボトルの中に入った水はどう考えても貴重品で価値が高いが、横にペットボトル不買運動の厳しい人が登場するとペットボトルに入っていることそのものが悪いのでなんだか水の価値もなくなってしまう。

いつも通っている見慣れた駅前から次の通りまでの50mの通勤路を足の悪い両親と歩く。少しの段差が気になり交通量が気になり、信号の変わる速さにいらだつ。生まれたての赤ちゃんを抱えた妻と歩く。排気ガスと大気汚染が気になり街の騒音と下品な看板を迷惑だと思う。社会学・歴史学の専門家と歩く。まちにしみついている時間の襞がやたらと目につき石碑や表示物や地名を興味深く思う。


a0010575_17414874.jpgイイという価値は誰との関係の中で変化する。ということは何か行動を行う時に一番重要なのは、誰と行うかということだということがわかる。

あらゆることをネガティブに捉え、つまらないつまらないとつぶやく人といると何も作りたくなくなってしまうし、面白い面白いとつぶやく人といると、なんだかなんでも作れそうな気がしてくる。

地域づくりにおいても「誰と」つくるかの関係が変化しつつあるのだと思う。何をつくるかではなく、その前提として、「誰と」つくるのか。そのことが一番重要なのだと思う。

イイという価値はそれぞれの層によって全く違う。圧倒的にイイとされる大きな価値観を持ち込むのではなく、様々な層との小さなイイ関係を複層的に綿密に重ねてゆくイメージなのかもしれない。

ミルフィーユ的にじわっと積層された強度。そんなかんじかな。

でもイイは時代によってかならず変化し続ける。



※写真と本文は何の関係もありません。

これまでにブログに書いた関連記事もリンクしときます。
いいもの、いいところ、いいまち・・・の条件。あたりまえのことですが・・・。

学校の先生に向けて書いた原稿 「と」の関係性
by fuji-studio | 2012-06-01 23:40 | ・思索雑感/ImageTrash
地域系アートプロジェクトに関する雑感の再考をしてみようかな。
アサヒアートフェスティバル(AAF)がかれこれ10年になるねと話をしはじめたのがもう2年近く前。

そこからなんだか単なる10周年の記録本とかつくっても面白くないよなぁと思い、ついついメーリングリストに投げかけた文章から10年本をつくるプロセスがAAFスクールという形になってはじまってしまった。それが去年。

a0010575_1931139.jpgいろいろ書籍とウェブの役割について日ごろから考えていることを編集者の影山君とかと話しているうちに同じことを考えている人が数多くいることに気付き、気が付いたら入江さんとかも参加してもらってAAFの10年をいろいろな角度から記録してゆくことが結構重要なのかなという話に拡がってきて、ウェブでのアーカイブのプロジェクトまで進みそう…

なんだかんだと紆余曲折あり、AAFスクールの参加者が全国各地のAAFの現場を訪れ独自の形で取材した文章もそろい、そろそろ原稿を書かなければならないというところまできた。

みんなの取材した文章はそれぞれ興味深く重要で、心に響くものばかり。それを横目で見ながら僕は僕でこれまで考えてきたことをまとめて文章化したほがいいということになってきた。

ちょうど…メルボルンの現場に滞在中で夜の時間は今のところこうやって原稿に向き合うことができるのでちょうどいいと思っていたのだが、ワードの作文の中にいると一人ぐるぐる考え込んでしまってどうも文章が暗くこもりがち。

で、いろいろな地域系アートプロジェクトに関係するような文章を再考するために、ここのところめっきり使うことのなくなったこのブログサイトを使って整理してみることにした。

いろいろ意見もらいながら書くのもいいのかなと。

ということで、再考シリーズ、これから夜な夜な、レジデンスの部屋で書いてみます。
by fuji-studio | 2012-06-01 19:37 | ・思索雑感/ImageTrash
十和田での「わからないことだらけ」の一か月。
とにかく慣れないことはするべきだ。

a0010575_22335081.jpgそもそも慣れないことだらけの中で人生は始まっていたし、慣れない状態から自分がなじんでくるときの振る舞いの奥底に自分自身の大切な部分が垣間見れするような気がしてビビッドだ。

しかしどうしても時間が経つと慣れてしまうし、慣れてしまうということはなんだか「わかったような気になってしまう。」のでそれが気に入らない。

本当は何も知らないしわかっていないのに、わかってしまうような気がすること・・・それが一番危険な気がする。

自分自身は自分自身の思い込み(わかっているつもり)によって規制され、束縛されているのだと思う。

以前の僕の周りには時折「わかっている」人達がいた。「わかっている人」はそれ以上をわかろうとしないし、自分の考えを変えようとしないので、一緒に話していてもあまり興味を持てなかった。

しかし、わからない人と話をしていると・・・いや違う・・・わかろうとしている人と話をすると、とにかくいい時間が過ごせる。

しかし、人生せめて死ぬ前ぐらいにはなんだかすべてをわかった気になって死んでみたいと思っている。

a0010575_22344423.jpgそこまでどのような「わからない旅」を連鎖させるのか…に興味がある。

いい時間を過ごすために人生があるのだから、もっと「わかろうとする人」と過ごす時間・・・に価値がある。

逆転すると…自分自身が「わかろうとする人」にならなければいい時間は発生しない・・・のかもしれない。

この一か月、久しぶりにわからないことだらけ。

あれだけわかっていたつもりの「アート」も多分いま一番わからなくなっているのだと思う。

ちょっと以前の僕であれば「いや、アートはわかるべきものではなく、感じるべきものだったり味わうべきものだったりだから・・・」と説明していたかもしれない。

しかし、今はわからなくなっている状態がとてもここちいいかも。


一度「美術館」についてここで語りたいですね。・・・っていうか、動画にしようかな。しかし、さもわかったように話す自分が嫌だな。
by fuji-studio | 2012-05-06 22:21 | ・思索雑感/ImageTrash
3331での311のモヤモヤ会議
3・11をどのように過ごしたのか・・・という自分自身の行動や思い、ありようを客観視することで、なんだかその人の本質的な部分が理解できたり、そのひとの置かれている状況がわかるような気がする。

a0010575_0465544.jpg僕自身は東京のアーツ千代田3331で行われてる震災復興関係の展示の仕込みに悩みつつ、案のじょうモヤモヤしつつ、モヤモヤはなんだか次の「イメージの種になる!」などと言い訳をつけながら、「モヤモヤ会議」なるものを行って、モヤモヤしていた。

a0010575_0474192.jpgモヤモヤは現状に対する違和感やズレからくる「言葉にならないなんとも居心地悪い中途半端な状態」だけれども、そのモヤモヤを形にしようと…「右往左往しつつ作業に没頭すること」…はかなり面白い状態を獲得できる。

だからといって、そのモヤモヤに直接答えが出るわけではないのだけど、確実にもやもやの状態はスリップする。そしてスリップの向こう側で別の課題や作業が発生し、モヤモヤがいつの間にか別のイメージに繋がる。

とにかく、モヤモヤを無視することなく、モヤモヤをいじろうとすることが大切だと思っているし、その向こう側に次のイメージが発生し、・・・それは必ずしもモヤモヤへの直接の答えではないけれど次のイメージへの連鎖の種になる…という法則。

そもそもモヤモヤはもやもやであって、具体的な問題とか課題ではないので、それでいいんじゃないかなってこと。しかし具体的な問題とか課題がある場合は別でしょうね。

でもでも・・・具体的な問題や課題だと思っているその命題そのものや仮定や前提条件が間違っているかもしれないことを思うと…モヤモヤだよね。

ああ、モヤモヤ。

でもモヤモヤは可能性の始まりだと・・・そう思おう!
by fuji-studio | 2012-03-11 23:11 | ・思索雑感/ImageTrash
損害賠償請求預金ってどうだろう?
多くの人がそうであるように、この数か月ずっとモヤモヤし続けている。
特にいろいろ抱えてモヤモヤしている人との対話を重ねているとさらにモヤモヤは累積する。


a0010575_12103983.jpgこの累積をどうにかできないかと考えてきたが…一番のモヤモヤの原因はこのモヤモヤをアートでどうにかしようというどうにも違和感ある方向性。

確かにモヤモヤは活動の種だと思っているし、そこから何か凄い表現が生まれてくる期待感が大きい…しかし、放射能被害に対してアートも糞もないだろうと内心つぶやき続けてきた。

はっきり言って被害を被ったと自覚した段階で「闘い」だろうと。

いや、事故が発生した段階から闘いは始まっている。 しかし…モヤモヤの問題は被害を被ったという意識が拡散されていることにもある。


a0010575_12181766.jpg意識のどこかで損害賠償請求したいと思っている人は多いが、問題はその対象…請求するべき相手にあるのだなと気づいた。

ちなみに一番精神的負担を抱え損害賠償請求をしなければならないのは当の電力会社の社員や従業員を含め原子力発電所の事故現場に近い人に違いない。そして、一番の受益者はその現場からシステムの上でも遠くに身を置いていながら多くの利益を手にしている人…


a0010575_12324365.png累積すると精神的被害も含め当事者たちは相当な額の請求ができるだろうがその分給料をもらっているので相殺される金額も多い。問題はその差額がどうなのか…だと思う。

とりあえず損害賠償請求額を計上するアプリケーションをプログラムするプロジェクトを提案したい。

避難にかかった移動費、経費、その後の日常の飲食費、水代・食費、医療費、通院費、通常仕事をしていたら当然入るだろう収入、現実の放射能汚染被害による物損。除去作業の金額や危険作業費、そして精神的負担の慰謝料等々…。


a0010575_20333129.pngそれは過去に遡るだけではなく、今後将来にわたりずっと加算されて計算されるべきものなのだろう。

それをだれもが簡単にタッチパネルで入力できるアプリをつくるのだどうだろう。

そしてそれぞれアップロードするとネットワーク上で累積計算され、地域別とかで現在の、あるいは数年後の請求されるべき損賠賠償額が見えるシステムの構築が必要だと思う。

それを貯金感覚で累積し、将来必ずもらえる貯金として蓄積してゆき、累積金額が一目瞭然に見えるアプリケーション。 もしかするとそれは世代を超えて貯蓄し続けることになるのかも。

問題はそれをどこに請求するのか…だと思う。


a0010575_2035869.pngそれをとりあえず、「放射能汚染を引き起こしてしまった精神」に対して請求するのはどうだろうかと考えてみた。

僕の中にも無自覚に…、原子力発電所周辺の住民は特に、それを認めていた精神がある。そして多少の利益を受けてきた。

損害賠償請求額の累積からその精神の量に応じて相殺される部分もあってしかるべきだと思う。


a0010575_2036473.png原子力発電所建設に反対運動を続けてきた人ならともかく、ずっと無口に無関心を装い無視することで放射能汚染を結果的に認めてしまった精神も含めて損害賠償請求を受ける必要がある。

あるいはそれを認め推進してきた知事や市長や議員、あるいは政党を当選させてきた責任もマイナス部分として累積すべきだと思う。

その算出もまたアプリケーションでしっかりフォローする必要がある。

問題はその差額が将来的にいくらになるのか…だと思う。


a0010575_12192375.pngいつでも金額入りの損害倍所請求書のフォーマットを多くの被害者が持つことのできるとても便利なアプリケーションを作るプロジェクトはどうだろう?

法律家や専門家の知恵を借りて東京電力が配布している書類や、これまでの損害賠償額の事例や過去のあらゆる慰謝料請求の事例に基づいた現実に即したアプリケーションの開発はこのモヤモヤを少しは解消してくれるんじゃないかな。

特に現場で放射能汚染にどのような態度をとっていいかわからずモヤモヤしている人はとにかく一度計算してみて、将来登場して来る「受益者」に請求する用意をするのがいいんじゃないかな。

損害ではなく将来絶対とりもどす「貯蓄」として。

…などと…最近いろいろな人に話を詩ながら意見を聞いています。

とはいえ…問題は放射能汚染を除去することなのでしょうが…数世代抱えなければいけないんですよね。地球全体で…。

…てなことをいわき湯本でもお話ししてしまいました。

こんなのいかがでしょうか?
by fuji-studio | 2011-12-06 20:40 | ・思索雑感/ImageTrash
過程と結果は…実は自己の視点と他者の視点なんじゃないか。
ワークショップや展覧会、あるいはプロジェクトで「プロセス優先か、それとも結果優先か」のような言葉を耳にすることが増えてきたように思う。

a0010575_11301279.jpgもちろん結果も大切だが、そこに至るプロセスが重要視されるようになってきた…ということ。

今回蒲生で行ったワークショップも結果を想定せず、プロセスを作り出すワークショップ。


a0010575_11312163.jpg僕の仕事…いわゆるアートプロジェクトの現場でも最終的なイメージ…つまり、結果を予想できないものとして、その広がりや可能性を担保しながらそのプロセス、あるいは初動のベクトルを提案することに力を入れた提案が…決して一般的とは言えないものの…それなりに受け入れられてくる素地が見え始めている。


a0010575_11322640.jpgそのほうがいろいろな活動の連鎖が生まれ、関係者の予想を裏切るほど面白い結果が発生する可能性が高いのでは…という経験から導き出された手法のような気もする。

ところが、このプロセス…つまり過程と結果という対立項目の設定自体に罠があることに気づいてきた。


a0010575_1133347.jpg過程と結果というと時間軸の問題に捉えられやすい。ところが視点を変えると…プロセス重視のプログラムは主体それぞれの自己の内発を促すことが問題視されているのに対して、結果重視・最終形態重視のプログラムは他者の視点を考慮した社会的な効果や訴求力が問題視されている…のではないかな…。

つまり時間軸の問題ではなく、自己へのアプローチか他者へのアプローチかの問題…かな…と。

そこに先の時間軸が絡んで来るというのが自然なのかな…と。


a0010575_11341175.jpgつまり…時間軸でその向き合う視点が変化してゆくという感覚がプロセス→結果の間にはあるという感覚、結構重要なんじゃないか思うんだけど…そんなことって皆さんの常識なのかな?

問題はその結果のイメージが内発を引きだすイメージとしてオープンにゆるやかに設定されていたらいいのかもしれないけれども、外発…つまり外から発せられたモチベーションとして束縛や重石になって参加者、あるいは当事者の主体的モチベーションの発生を抑圧するようなケースもあることに気づかってほしい。


a0010575_11353654.jpg地域系のアートプロジェクトが結果重視に向かうのもわかるが、それが故に外部からのモチベーションをてんこ盛りにすることで地域の主体、あるいは参加者の内発的モチベーションを阻害するプログラムの在り方はいかがなものかな…。

すべてはバランスの問題…ということで。

※写真は鹿児島県蒲生町で成長してきた蒲生どんと秋まつりのワンシーン。25年前に蒲生に太鼓の集団、蒲生太鼓坊主が発生し、紆余曲折あり韓国との交流が始まり、さらに紆余曲折あり毎年高校生の音楽を通した交流事業が定着し、韓国の伝統芸能を学ぶエリート高校生が蒲生町に来て地域の祭りとしていろいろな活動が連鎖していて素晴らしい。そのプロセスがいいがゆえに舞台のクオリティが感動するほど高くてびっくり。結果が素晴らしい理由にその過程の素晴らしさがある。しかもしれを地域住民はちゃんと知っていて皆が誇りを持っているがゆえに、新しい地域の祭りは盛り上がっていた。
by fuji-studio | 2011-11-21 09:27 | ・思索雑感/ImageTrash
ブログから離れていく自分の時間
a0010575_929182.jpgこの一ヶ月、このブログへの書き込みをまったくしなかった。これは2004年にブログを使い始めて以来はじめてのこと。

自分に向き合うメディアとして10代にクロッキー帳に出会い、20代の前半にコクヨのノートになり…ノートと万年筆というスタイルを続けて20年が過ぎ…2000年ぐらいからウェブ上の掲示板を使うようになり2004年からこのエキサイトブログを利用してきた。

ノートは公開されないものだが、このブログは公開される。最初はそのシステムが新鮮でいろいろな利用法を模索することにはまってゆき、ほぼ毎日のように書き込むことが義務のようになっていた時期もある。

メディアに振り回されないように3年前ぐらいから再びノートとこのブログの使い分けを模索するようになり、もっと手を動かすノートに向き合うようにしつつ、意識的にウェブメディアはルーズに使うように心がけ、自分の動き方に合わせて最低限にレポートするように心がけてきた。

そこに襲い掛かってきたのがフェイスブックとツイッター。

最初はそのシクミを理解するために興味本位で利用し始めたが、多くの人がそうであるように3.11以降ツイッターに侵され、自分に向き合い、自分を記述する時間がまったく失われ、ひたすら情報を収集した。

そもそも、自転車操業の自営業者には休みという時間というのがないので、だいたい自分に向き合う「自分の時間」というのは朝食前や昼食後のわずかの間だったり、移動時間だったり、就寝前の時間だったり、仕事の隙間のわずかな時間しかない。

そこをツイッターに侵され、つぶやく以上に情報をあさり始めた時期があった。それが落ち着いて数か月…おそらく同じような理由だと思うがツイッター利用者がフェイスブックに移動し始めた。

毎日のように届く友達リクエストは結果的にフェイスブックの利用を加速することになりフェイスブックの複雑な構造を徐々に理解するにつけ、ブログの書き込む時間を必然性をまったく奪ってしまうことになりつつある。

どうなるのかな、このブログ…と思いながら、夏休みの宿題がまだ終わっていない小学生のような状態で夏以降の僕自身の動きはここには何もない。

・・・ということで、ここにもぼちぼち報告しますが、今はフェイスブックにいろいろアップしていますのでそちらもよろしくお願いします。

http://www.facebook.com のページで藤浩志で検索してください。
by fuji-studio | 2011-10-20 09:15 | ・思索雑感/ImageTrash
いないのにいることと、あるのにないようなこと。
もう5年ぐらい前からだろうか…。 関係と存在の在り方についての思いが染みついていて、なんだかいつもそのことについていろいろな角度から思いを巡らしている。

a0010575_10315329.jpg去年、瀬戸内国際芸術祭に出品した「藤島八十郎をつくる」という作品も存在しない人を存在させることで、関係の在り方を探るような表現から発したものだった。

で最近、僕の中に、もうずいぶん以前に亡くなってしまった友人や後輩たちが活き続けていることを自覚するようになった。


a0010575_10332371.jpg彼らはことあるごとに僕に関係してくる。だから余計に彼らの存在は僕の中で大きくなってゆく。この世の中に存在していても関係がないともちろん存在を知らないし、知っていても、存在を意識することすらない。

今回青森ねぶたの廃材の針金の塊をほぐしながら「龍」を作っていて、龍の存在に思いをめぐらす。

存在しないものは関係をつくることで存在するということ。

龍が意図的に「ありえない存在」を作り出すものとして様々な関係が歴史の中で、風習の中で作られてきた人間の意志を思うにつけ、その裏側で、存在しているが消そうとしてきた悪意の所在を考えざるをえなくなる。

つまりなるべく関係を持たないようにし、なるべく存在感のない状態をつくろうとしている人間の意志があるということ。その存在は密室の中で物事を動かそうとし、閉鎖状況をつくることで保身を保とうとする…。

実は太古の昔より…そのような性質の存在が地域社会の仕組みの中枢を作り上げてきたのかもしれない…閉鎖関係の中で仕組まれているのかもしれない。…という疑念。

そんな仕組みに対して開示せよといったところで…開放しオープンなシクミをつぶやいたところで…届かないのかもしれない。

しかし、そろそろ、そんなシクミ、崩れてもいいと思うのだが…。

隠さなければならないことはそんなに大切なことなのか…
by fuji-studio | 2011-04-30 18:51 | ・思索雑感/ImageTrash
存在しないのに龍はなぜ存在してきたのか?
決して好きというわけではないし、どちらかというと趣味的には避けたいところもある。

a0010575_091958.jpgあり方としても小さなアマガエルとかヤモリとかポニョポニョして、つるりんとしたもので、なんだか弱そうで、存在感のないものの方がよっぽど好きなので、その真逆な強そうで巨大な「龍」のような存在はどちらかというと苦手。

しかし、昔からとても…なぜだか無視できないから仕方ない。


a0010575_095112.jpgおそらく衝撃的な出会いをしてしまい、無視できなかった最初の「龍」の存在は大学時代の妙心寺の法堂の天井にいる狩野探幽が描いた「八方睨みの龍」で、なぜだか知らなければならないと信じ込んで、幾度となく法堂に通い、10m×10mのサイズの模写をろうけつ染めで制作するに至ったのが二十歳の頃。

その後、奄美大島の小さな集落で船大工だった祖父がその集落の丘に龍王神社の拝殿を作ったと聞いたことがあり、なんだか遺伝子の中に龍との縁が組み込まれているのかなと思ったりしたこともある。


a0010575_0104549.jpg1993年に鹿児島で水害に遭遇して、水は昔の地形の記憶をたどるように流れることを知り、川の流れと治水について考えを深める機会を得て、水辺でのプロジェクトに多くかかわるようになり、いろいろな地域で竜神をまつった神社や祠が目につくようになった。

1996年に広島県の灰塚エリアでダム湖ができるのに伴いアートプロジェクトの構想で関わった時に、そのダム湖の形が龍の形をしている事に気づき、それを何らかの形で表現しようとしたこともある。 1998年に博多の小学校跡地でプロジェクトを行うことになったとき、博多にもっとも古くからある禅寺、聖福寺の仏殿の中を見せていただいた時に、その天井にも狩野永真の雲竜図と出会い、それを素材として灯明で龍を描いたが…、その翌年の6月に博多でも大規模な水害が発生し、博多駅周辺は水没し、龍の存在する地域と水害との関係を確信するようになった。


a0010575_0114588.jpg龍は現実には存在しない。それが現実には存在しないことをだれもが知っている。しかし、龍は太古の昔より生活の様々なところに存在する。

神社の手水の水の注ぎ口に、法堂や仏殿の天井や襖絵の中に、十二支の中にも唯一の架空の動物として存在する。現在でもラーメンどんぶりのワンポイントとして、ファッションや刺青の強き者を象徴する図柄として、ゲームやアニメのキャラクターとしてまで広く様々な表情で浸透している。

人の想像のスケールをはるかに超える規模の「ありえない出来事」は必ず起こるということを知らしめるために、人の力を過信するあさはかな存在を否定する為に、太古の昔より龍の存在は語り継がれてきたのかもしれない。


a0010575_013517.jpg今回の3.11の地震で発生した津波の被害と東京電力の放射能汚染被害の拡大を知るにつれ、「あるはずがない」「想像を超えた」「想定外」と口にする人間がいかに愚かなことであるのかを思い知る。

「ありえないこと」はかならず存在する。

常識を超え、想像力を超えたことが現実に存在することを後世に思い知らせようとする知恵の象徴が「龍」という形で伝えられてきたのかもしれないな…と考えながら、「あまり好きではない」大きな存在を登場させようする作業に没頭するこの一か月…

青森ねぶたの廃材の絡まった針金をほぐしながら、やはりねぶた素材の和紙の切れ端でこよりを作り、それで針金を繋いでゆきながら…毎日8時間はこの作業に向かうように決めて一か月。

久しぶりに単純作業に没頭している。

作業に没頭できる状況に感謝…
by fuji-studio | 2011-04-24 19:19 | ・思索雑感/ImageTrash