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土佐の高知の桂浜
a0010575_20215163.jpg土佐の高知のはりまや橋、桂浜・・・なぜ知っているのだろう? 全国各地になぜか有名なところってあるが、なぜ僕らはそれを知っているのかということを考えると怖い。知らず知らずのうちに歌や昔話あるいは様々なメディアによって名称と漠然とした実像ではないイメージがインプットされている・・・。
a0010575_20305168.jpgある時代のある策略家がもしかすると個人の利益の為に膨大な額を投資して広報を重ねた結果、現在の多くの人々の脳裏に刻まれているのか、・とそれともふとした些細な表現が人づてに伝わり誤解が誤解を生み出しとても重要な場所になってしまったのか。人物に絡み歴史や地理の教科書に載っていて勉強して暗記させられたのか・・・ 
a0010575_218326.jpg たぶん坂本龍馬とセットで記憶に刷り込まれているにちがいなが、名所のような気がするのはなぜだろう。その知名度をあげたプロセスに興味がある。名月で有名だとか、観月の名所であるとか・・・。微妙な季節の月と海の方角の関係や、砂の素材感によるものか・・・。個人的には京都に桂川というのがあり、僕はそこの川沿いの道を大学に通っていたことがある。その桂川との連想による僕個人だけが感じている価値観なのか。
a0010575_2185761.jpg・・・と四万十川のプランを考えながら僕にとってのイメージ上での高知のシンボルの桂浜に行って見ると・・・左のすべての写真は桂浜の周辺に現実に展開している風景。テトラポットの島や護岸、超大型クレーン、桂浜の風景をぶち壊すために作られたような国民宿舎、なぜか桂浜に面した水族館。入り口のへたくそな闘犬場の案内。くたびれかけている観光全盛時代の亡霊のようなみやげもの屋。最近の学食のほうがましな食堂。料金が高い駐車場。駐車場からみやげもの屋への導線を無理矢理つくるための海岸沿いの不揃いの鉄格子と金網。暗いトイレ。桂浜を歩くためのコンクリート固めの歩道。で、高知市街地から桂浜へ入る入り口にある廃墟となったファッションホテル「リバティ」・・・ある種の見方をすればこれがそれぞれ昭和の観光時代を彷彿とさせるキッチュな田舎観光地の典型的な原風景。利用の仕方によっては闘犬もホテルもみやげもの屋も廃墟と化したファッションホテルも編集と加工しだいで相当面白い状況となる素材。四万十川のプログラムそっちのけで桂浜再生計画構想のイメージならばいろいろ企画書におとせそうです。しかし、坂本龍馬、まさか自分の知名度だけで、これだけの人にお金を稼がせているとは夢にも思わなかったでしょうね。
by fuji-studio | 2005-06-12 21:12 | ・思索雑感/ImageTrash
動きすぎだなー
a0010575_9515712.jpgこの1年ぐらい特に動きすぎですね。今週は水曜日から、神保町の美学校、練馬区立美術館、取手アートプロジェクト、ひたちなかワークプラザと打ち合わせで周り、今から福岡に戻るもののそのまま家に戻れず、神戸の名谷駅前でのカエルキャラバン第3弾の実施。六甲山牧場のワークショップには行けず。それが終わると四国の高知の四万十川へ下見に・・・。ちょっと動きすぎですよね。なにやってんだか・・・。明日は娘の小学校の「楽しい楽しい運動会!」だというのに。・・・考えてみるとこの20年、ずっと動き続けていますよね。東京にいたころは東京都内をうろうろしつつ、地方都市へ仕事の合間で数日単位でうろうろ。鹿児島にいたころは鹿児島県内をうろうろしながら、数ヶ月に一度、1ヶ月単位で国内海外をうろうろ。それが福岡に来て数週間に一度1週間単位ででかけるようになり、最近は数日に一度1日単位で家に戻るようになった。で、今回は1日も家にもどれない。は~。

a0010575_10554957.jpgそんな移動の途中で水戸に立ち寄り、日比野さんが展覧会の準備をしているところをたずねてみる。8月から水戸芸術館で開催される「日比野ひとり万博」の準備の為に用意された元デパートの廃墟の最上階。ダンボールが敷きつめられ、水戸市民が自由にダンボール工作ができるための工房ができていて、7つのコーナーに日比野さんからの7つの指令が出ている。面白い。
子ども向けの工房というよりは大人が子どもの時に体験しえなかった(当時削除されていた?)遊び感覚を疑似体験するための場のよう。
日比野さんの独特の手わざや所作がそこの現場に生であふれているのだが、80年代前半から情報や商品として流通してしまっている日比野イメージの為に、それが本人の手作業によるオリジナルな空間であるにも関わらず妙にフィクショナルな商業空間の匂いがして不思議な空間だった。
a0010575_10583091.jpg妙に商品化された空間の中でビルの内装をはがしたコンクリート面があちこちにむき出しになっていてそのバランスが絶妙で心地いい。天井や壁がやぶれ、日比野さんの作品に登場するようなテクスチャーを持つ素材がむき出しになり、商業施設の破綻の現実を強く見せ付けているはずの廃墟空間を覆うように、僕らには懐かしい感じのする80年代の商業施設のウソっぽさがつぎはぎに重ねられ、僕にとっては逆に心地いい空間になっていたのかな・・・。
しかし、あれが廃墟を離れ、ホワイトキューブのギャラリー空間に展示されたとき、どうなるのかな・・・?とにかく楽しみ楽しみ。ねえ、Mさん。
by fuji-studio | 2005-06-03 23:53 | ・思索雑感/ImageTrash
おもいつき
ふと、おもいつくことがある。

たとえばこの瞬間は
「桜島のみえる芋畑でいもの天ぷら」

今は神戸のホテルの朝食会場で陳腐なクラッシックバックミュージックを聴きながら珈琲を飲んでいる状態でまったく関係ないふとした「芋」について考えている自分に気づく。

それを記録にとどめることはほとんどないが、いったい1日何回つまらないことを思いつくのだろうか?

そんなおもいつきのかけらが脊髄のあたりにこびりついて、何度も繰り返し思いつかれ、取りつかれ、蓄積してしまいどうしようもなくなったとき、動き出すのかな?何かが。

関係ないけど、今日は神戸NHK支局でのかえっこだー。
by fuji-studio | 2005-05-28 09:04 | ・思索雑感/ImageTrash
ステーションという場
a0010575_2251161.jpg先日岐阜からの乗換えで久しぶりに京都駅に降りる。いろいろ物議をかもし出した京都駅だがこれができてもう何年になるのかな? 僕が学生時代過ごしたころの京都駅はいつでも工事中。つぎはぎだらけのフェンスと通路でプレハブの駅だった。地下鉄の工事が始まる前ぐらいからおそらく30年近くはずーっとつぎはぎの京都駅だったように思う。その新築に向けて建築家の指名コンペが開催されたころ、かなり話題になり、僕自身も注目していた。京都の玄関がどのようなものになるのか・・・・個人的にはあのデザインが選ばれたことに裏切られた気がしていたが、完成してはじめて京都駅に降り立った時、感情としては批判しながらも内部空間のスケールの大きさに感動したのを覚えている。たまに乗り換え等でスキマの時間があるとエスカレーターを乗り継ぎ屋上まで上り、京都の街並みを臨み学生時代の思い出にふける。

a0010575_2255540.jpgこの日も30分ほどの乗り継ぎのスキマに駅の改札を出て屋上に向かおうとした。そこで眼にしたものは、もりあがる集団・・・京都のサッカーチームのサポーターのイベントで駅前の巨大な空間の大きな階段はなんだかすごく、すごく、すごく盛り上がっていた。なるほど。こういう使い方がされてたんだ。京都にそのサッカーチームがあることを示すデモンストレーション。予測しなかった京都の別のエネルギーにどきどきした。駅はまさにステーション、ステーションは拠点であり、様々な価値観が交差する施設であり。だれもが経由するゲートでもある。そこをキーとするネットワークの象徴的な場となりうる。
ステーションの機能はギャラリーやミュージアム的でなければならないし、ライブ会場やコンサート会場、劇場でなければならない。インフォメーションでなければならないし、ステーションとリンクする様々な地域の様子をブラウズできるトップページでなければならない。そして様々なものが俯瞰できなきゃいけない。様々な活動が展開でき、街中への導線を導く魅力的な空間である必要がある。人が溜まり、流れ、集い、別れ、様々な物語が展開する舞台としてふさわしい空間であるべきだと思う。
a0010575_22334624.jpg先日新聞に福岡の博多駅が作り変えられるという記事が出ていてぞっとした。もちろんこれは説明のための断面図でしかないのだろうが、人々のそのような行動がどのようにデザインされるのかとても気になる。博多駅に降り立つとしっかりと福岡が見えるのか。アジアが俯瞰できるのか。ホークスのサポーター達が優勝の瞬間を共有する場は確保されているのか。だれもが感動する劇場としての空間はどのように組み込まれるのか?九州各地、アジア各地へしっかりリンクされているのか、そこから魅力的な導線がデザインされているのか?福岡に帰ってきたときに「ああー、帰ってきたんだ」と誇りに思える場となるのだろうか?いまだにデザインコンペの話も聞こえてこないし企画のコンペも聞こえてこない。いったいどうなってるんだろう。いろんなアイデアや意見を持つ周辺住民や利用者がステーションづくりについて考え、話し合い、研究し、意見を交わし、かたちづくる最も楽しいプロセスに関わる仕組みがどのようにつくられてゆくのだろうか?福岡の力が問われ、2世代先まで影響を与える重要な現場なのだが・・・実は僕が知らないだけで福岡の市民はみなこの話題で盛り上がっているとか?
by fuji-studio | 2005-03-01 22:36 | ・思索雑感/ImageTrash
ブログ1年うーん、すごいかも
a0010575_10325450.jpg今日から3月、このエキサイトのブログを利用し始めて1年が過ぎる。エキサイトがブログのサービスを始めたのが1年前の2月からというので、サービス開始1ヶ月後からはじめたことになる。とりたててそれほど意味を感じているわけでもなく、日記をかく習慣もなく、なんとなく新しいもの珍しさにはじめてみたが、どうだろうか。周辺でどんどんブロガーが増え始め、彼らの日常と意識を共有しはじめ、なんだかすごいかも。BBSを使い始めたころ、2000年の1月、だれも来ないBBSの空間で一人佇みひとりごとをしゃべっていたりした。誰という相手もいずに、人に言えないことを一人書き込みどきどきしていたのが懐かしい。もちろん、サイトにリンクした時点でこれらの書き込みは消去してしまったが。BBSでは表面の会話や挨拶程度になりがちだったが、ブログでは結構自分自身に突っ込むところもある。基本的に一人の空間で自分の内側に向かいつつ書き込むので、通常の対話と少し自分自身のチャンネルが変わる。最近はmixiとの連携で友人の日記が更新されているのを知ることができるので、mixi&blog等のツールでリンクされている人の日常は一緒に暮らす家族の日常や、近くの友人、あるいは一緒に仕事をする同僚の日常よりも近い。不思議なことになってきた。

新しい人に出会う時もある人のことを知りたいときもこのツールにつながっているかどうかで理解度が変わる。これまでのウェブサイト上のホームページではその人の表面的なある面しか見れない場合が多かったが、ブログを続けている人についてはよりその人の内面に近づくことができるような気がする。そしてなによりもリンクしやすいところがすごい。トラックバックシステムなんてよく考えたものだ。

もちろんひとつの情報のツールとしての可能性でしかないが、人がその本人を表現するツールとしてますます興味深くなる今日この頃。来年にはもっと違うツールを使っているのかな?
by fuji-studio | 2005-03-01 10:40 | ・思索雑感/ImageTrash
目に見える風景
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上の写真は事務所の僕の机から見える日常の風景。モニターが7つもある。これがまた視力を低下させる原因のひとつ。メガネをかけて両目で視力が大体0.6程度。この道40年以上なので運転免許の視力検査のときは気合と感でクリアする。右目は生まれつきの不正乱視でメガネをかけても0.1程度。中心部は見えるがその周りが見えにくい。視界の中にぼけているところが多くあり、物音を見るのに頭や体を動かして見えるポイントを探す癖がある。たまに疲れると黒い斑点が見える。老眼が進行中で3年前より遠近両用メガネを使用。ここまで汚い風景ではないが・・・今日の風景はこんな感じ。昔から弱いのは立体映像と月や星の観測。満月でも三日月でも多重に見えるので気分は複雑。その分、多重に複雑な柄が拡がっていると安心する。だからいっぱい並んでいると安心するのかな? 遠近感がないので、子どものころやキャッチボールができずに高所恐怖症。斜面も吸い込まれる錯覚に陥る。美術大学受験のデッサンで、見たとおりに描けといわれてもよく見えないので認識で描く術を獲得する。

最近、どうも目の調子がよくない。緑内障と診断されてかれこれ1年。緑内障と飛蚊症と不正乱視と近視と遠視(老眼)が進行中で遠くも近くも周辺も中心付近も見えにくい。眼科で目薬をもらい、緑内障の進行をおさえているはずだが、どうしても出張で目薬を忘れ、無理して遅くまで起きていたりして疲れると次の日、飛蚊症も発生し、風景の中に黒いものがうろうろ見える。どうも目の中心周辺にも見えないところが発生しているのか、やっぱり見づらい。

見えなくなってくると逆に視覚にこだわる。認識の中で物事を見ようとする。生まれつき右目はほとんど視力がないのでほとんど片目の生活には慣れているが両方犯されてくるとまた日々の暮らしの風景がいとおしくなる。毎日の忙しさでほとんど気にしていない目に見える風景だが、ふと日常の生活に戻るとその風景をしっかり認識したいと思う。

僕が風景に関わりたいとこだわるモチベーションはもしかするとこの目の特性からきているのかな?自分では自覚していないが、見えない分、それだけに見えないものを捉えようとする努力をしてきたようにも思える。こんなときにいつもある感情が芽生える「あー、絵が描きたい・・・!」日常の風景の絵を描きたい。

B級動物彫刻家の楠丈以外にもう一人B級風景画家の人格でもつくろうかな。名前何にしようかな?風景画家っぽいのがいいね。誰か名前をつけてください。老後の楽しみにしようとしていたけど、目が見えなくなるといけないので、ぼちぼち描き始めようかな?
by fuji-studio | 2005-02-23 17:03 | ・思索雑感/ImageTrash
上海でのメモより
a0010575_091886.jpg人間力⇔都市力
生活臭
生命力
洗濯物
混沌
0層の露天、1層、2層、3層、5層、10層、15層、30層、50層、88層
自転車であふれる道
駐車場が見えない
路上の自転車修理屋
階層による居住区分
流と澱み
温度差
a0010575_23225734.jpg都市力と人間力をつなぐインターフェイス
象徴性
シンボリック
ギザギザの遠景
見栄と欲望
成功と挫折
a0010575_23464167.jpgキングとクイーン
ケーキの飾り
モニュメンタル
時代の襞
70年代の宇宙船
操縦している気分満喫だろうな
a0010575_23583336.jpg都市のどんな隙間でも使用する力
最低限の生活スキル
高齢者
人力
散髪と靴下
触覚と嗅覚
家族力
対話のはじけ
密集、密度、過密
滲み、歪み
灰色
壊れ
繋ぎ
a0010575_2349582.jpg銀色
メタリック
未来性
モニュメント性
デモンストレーション性
超高速
超高度
a0010575_2350213.jpg都市の暴力
都市の恐怖
災害によるパニック
失業対策
建設ラッシュ
中央集権
労働者
a0010575_0112738.jpg道端で羊の解体がはじまる
流れる血
見物客
新鮮さのアピール
冷蔵庫のない肉屋
喧嘩
喧騒
食し、語り、集い
都市の襞
価値観の襞
豚、犬、鶏
羊、蟹、蛇
龍、麒麟
a0010575_012988.jpg421mの高さのビル
431kmのスピードのリニアモーターカー
1600万人の人口
数千という高層ビル
膨大なエネルギー消費量
a0010575_0123039.jpg都心部の人口を減らすため上海近郊に80万人~100万人規模の重点都市と30万人規模の衛星都市を10個ぐらいつくろうとしている話
中心部の人口の分散
緑地の整備
a0010575_0131174.jpg上海周辺に10の衛星都市をつくり、その周辺にまたそこを拠点とした中心都市をつくるという都市政策
都市のネオンサイン化
ビルボード化
広告媒体としての都市
デジタル化
2産業から3次産業へ
金融、経済
HUB都市
なんでこんなに店員が多いんだ!
by fuji-studio | 2005-01-22 23:50 | ・思索雑感/ImageTrash
緑視率・・・窓からの眺め
a0010575_22398.jpg緑視率・・・
80年代の終わりごろ、都市計画事務所に勤務している頃、東京の不動産価値を高めるひとつの指標として、緑視率(緑が見える割合)、空視率(空が見える割合)について話しをしたことがある。都市の風景の持つ空との稜線の景観が住民の心理状態に与える影響とか、そんなものにも興味を持っていた。

もともと、窓からの眺め、特に部屋からの夕日の眺めを重視し、東京で引越しを繰り返していた僕にとって、そのことは日常生活にとってとても重要なことであり、部屋の広さと間取り、駅からの距離、建築物の築年数のみが不動産価格を決める当時の価値観に違和感を感じていた。実際、築年数50年以上の天井高の高い、水と緑が豊かな地域にある、眺めのいい窓のある物件をどれだけ探したことか。

出張が多く、格安ビジネスツアーのホテルの常習利用者である僕にとって、部屋の窓からの眺めはとても重要である。ホテルにチェックインして部屋に入ってまずその部屋からの眺めをチェックする。突然目の前に大きな壁がそびえていると落胆し、息苦しくなる。逆に空視率が高く、遠景率(遠景が見える割合)が高いと、それだけでいい仕事ができる気がする。

半年ほど前に飛蚊障にかかり、それがきっかけで緑内障の宣告をうけ、特に左目が30%程度見えなくなっている事実を知って以来、特に風景がいとおしく感じるようになり、視線が風景の中の緑を求めるようになっている自分に気づいている。

緑内障と緑視率、関係ないけどどちらも緑か・・・。

先日関西の出張で、京都と大阪に宿泊したついでに窓からの眺めを撮影してみた。一方は山も含め、緑視率は20%、そしてもう一方は0%、空が見えたことでまだ救われた気がした。
by fuji-studio | 2004-06-05 21:55 | ・思索雑感/ImageTrash
【client】
クライアント・・・
別に美術作家になりたかったわけでもなく、美術業界にあこがれたことがあるわけでもない。むしろそこから逃れようとしてかなり長い時間もがいてきた。そうこうするうちに40も越え、企業に就職なんてできない年齢になってしまった。

今日もまた、ろくな作業をするわけでもなく、コンピューターのトラブルと雑用に追われ、時間だけを消耗し、疲れ果て自宅までの道をドライブしつつ、ふっと「client」という存在が自分の中にいることに気づいた。

クライアントという意味は詳しくはわからないが、通常はクライアントが外部の顧客や相談者としていてそれに対応する側がいる。どうやら僕自身の中にはその両者がいるように思えてならない。実はクライアントが僕自身の中にいたんだ。

そこが大きく違うんだと思う。何をやっても、どこにいても、どういう状況でも、どんなに他者とのかかわりの中で仕事をしていようとも、1日24時間、実はクライアントは僕の中にいたんだ。

なんでいままでこんな単純なことに気づかなかったのだろう。
by fuji-studio | 2004-05-20 00:01 | ・思索雑感/ImageTrash