わー! すごい! ねーねー、なにかつくりたい!
2009年 09月 02日
「わー! すごい! 私も何かつくりたい!」という言葉。
そして入ってきて・・・
そこから先のアプローチとプロセスが一番大切なのに・・・。
「何かつくりたい!」という子どもの純粋な心から発した言葉をどのように捉え、どのように接するのか。
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今回の「かえる工房」という実験はその問題に具体的にアプローチするためにつくられたのだと思う。
つまり、僕がこれまで見て、体験してきたワークショップのつくられ方、あるいはプログラムへのアプローチへの違和感。あるいは企画側が無意識に、無自覚に行ってしまっている間違った常識。
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考えるべき点 その1
「何かつくりたい!」という言葉をどのように捉えるのか。
大人のつくるという概念と、子どものつくるという概念が明らかに違う。「つくりたい」」という言葉を大人の概念でまともに捉えると「完成させなければ意味がないように思われがちだが、果たしてそうだろうか?
「何かをつくりたい!」という言葉が発声される根っこの部分、あるいは核の部分にある感情に注目すると、「わあ、ここで遊びたい!」とか「わたしもこの素材をいじってみたい」とか「もっとここにいたい」とかいろいろだとは思うが、共通することは「関わりを求める」言葉なのではないかと理解してはどうだろうか。
「深く関わる。」
子どもは素材そのものにももちろん反応してその言葉を発したと思われるが、そればかりではない。素材が置かれている状況や、その裏に見え隠れする「何かを作ろうとしている姿」やそれでつくられたものたちが立ち並ぶ光景に心を奪われて興味が動いている。
それまで両親や大人たちのペースにあわせて歩き続けてきたので、ちょっと立ち止まりたくなっただけなのかもしれない。
もしも、その子どもが大人と一緒でなくて、一人で行動していたら、普段の自分の行動の領域を飛び越えてこちらの工房におそるおそる足を踏み入れてくるのだと思う。
その体験に意味があり、その子にとっての感動はさらに加速する。
しかし、中之島公園のような都市公園の場合はそうはいかない。
ほとんどの場合、子どもの意見をジャッジし、行動を抑制する保護者と一緒に訪れる。
(もうすでに毎日のように一人で遊びに来る近くの常連の子どもも数名いるけど・・・)
子どもは自分の行動を抑制する大人に向けてメッセージを発する。
「何かつくりたい!」
考えるべき点 その2
大人の都合が子どもの行動を抑圧する
「何かつくりたい!」と発した子どもの感情を尊重し、ちゃんとその子どもの行動を興味の方向へ深め導く大人は驚くべきほど少ない。
この公園ははやく通り過ぎてレストランに行ってご飯を食べさせて早くうちに戻り、片付けして、早く寝かせなければ子どもの成長に悪い・・・と思いつつ・・・「ちょっとだけだよ、さっさといっておいで」だとか・・・
早くうちに帰って、子どもを寝かしつけて、片付けて、10時からのあのドラマを見なければいけない・・とか思いながら「今日は時間がないからね。また今度にしようね。」とか。
ああ。我ながら反省点ばかり・・・
しかし、問題の深さはそこばかりではない。
この親達の都合に合わせてプログラムを企画する側に問題は深い。
「すぐにできて、だれでもできて、持ち帰れるもの。」
巷の多くのワークショッププログラムの企画者が求める要件の最優先事項だと思われているふしがある。
しかし、この要件のどれをとっても子どものイメージ力や想像力、行動力、発想力、接する力、対話力、問題解決力や個性、アイデンティティの成長を阻害し、子どもの地域社会との関係のあり方を・・つまり存在感を消滅させてゆく方向にあるようにしか思えない。
大人の都合で、ワークショップで制作するサンプルがつくられ、そのサンプル作品へもっとも短時間で効率的にたどり着く方法がプログラムされ、子ども達はそのプログラムどおりに行動するように大人によって監視される。
このおかげで子どもは「材料をいじり遊ぶ時間」から隔離され、最も楽しく重要な時間「何をつくろうかな?」と考えるチャンスを剥奪され、ファシリテータとしてそこにいるお兄さんやお姉さんたちと無駄話しながら考える時間を去勢され、自分の行為は自分の部屋や空間へと閉ざされる。
ところが・・・
子どもにとってみれば、とにかく「つくりたい」とい発した言葉の結果、保護者に導かれたところがもっと楽しく魅力的な場であったはずなのに、なんだかちょっと違う・・と違和感を抱きながらも、何が違うのかわからないし、自分が「何かつくりたい!」といった本人なので、実際何かを作っているその行為は少しは楽しいし、その苦行を乗り越えれば、ほめられることも知っているのでいつものようにプログラムをフォローする。
ファシリテータは上手く進行できることを褒め讃え、結果として、子ども達はそれなりに満足した気になり、企画側も子どもや家族が喜ぶ姿に満足する。・・・それでいいのか?
考えるべき点 その3
「何か」にたどり着く時間とプロセスはあるのか?
「何かつくりたい」の何かを探る時間。何かを探る時間がどれだけ与えられているのだろうか? 「何か」を探らせるように見せかけて、実は何かが用意されていて、そこに誘導してゆくように決められていないか。
「何か」を探る時間こそが想像力を育て、問題解決力を身につけ、行動力や対話力が必要となるのではないか。
そして、何よりも、何かを考える時間が一番可能性を含む豊かな時間なのではないだろうか。
素材をいじることから導入し、とんでもない何かに飛躍することもあれば、道具の使い方から導入し、とんでもないないかに跳躍することもある。
自分の中のイメージが飛躍したり、跳躍したりする瞬間が一番心地いいというのに、その跳躍や飛躍を阻害するかのように「完成イメージ」を目の前にぶら下げてしまっているのではないだろうか?
指先を動かし、手先を動かし、体を動かして、普段は会話しない人たちと対話し、日常とは違う空間の中で「何かをつくろうとすること」こそが意味があるように思えてならない。
考えるべき点 その4
だれとつくるのか。その「○○と」の関係がイメージの連鎖を促す
感性を刺激し、自由に使える素材が山ほどあり、しかも、その素材を加工するためのありとあらゆる道具がそこにあり・・・それは最低条件だが、もうひとつ。必死になって何かをつくろうとしている人がそこにいること。
これがもっとも重要なことだと思う。
だれとつくるのかで、その子どもが何を作るかは変わってくる。
基本的に子どもは真似をする。真似をしつつ、何かをつくり始めるが、すぐに真似からずれ始める。そのズレが面白い。
そのズレを許容して、真似をし続けると、真似からかなり離れてゆき、とんでもないものへと連鎖しはじめる。
その連鎖のありようが重要だと思う。
自分の想像を絶する物事に連鎖していった瞬間、人は感動する。心が動く。
物事の価値は「どのように連鎖したか」によって決定するといっても過言ではないと思っている。
さて、ここで、「真似る」ことをはじめるために必要なこと・・・「観察する」ということの重要性をいいたい。
基本的に「観察する」時間が与えられていない。いや、大人もそうであるが、「観察する」ことに慣れていない。
テレビ番組の音声とテロップ、コマーシャルの情報伝達力に犯されているのか、そこにあるものをしっかり見て自分で判断して、いろいろ想像して、いろいろ妄想して、そこにある事柄をちゃんと捉えようとする人がかなり少ない。
それ以前に、その時間が与えられていない。
観察力、洞察力、読解力、分析力を身に着ける時間を与えてほしい。
その時間を奪い取るように、退屈な「つくり方」をいきなり与えないでほしい。
考えるべき点 その5
つくる時間の何気ない無駄話が宝物。
「何か」をつくろうとしながら交わされる対話が貴重である。対話の内容によってはイメージが飛躍する。
アマンダ・ヘンのもやしの作品のように(リンク参照)、何か単純な作業をしながらのふとした自然な対話が心地いい。
何か作為的な関係なのではなく、抑圧的な関係ではなく、あくまでもフラットで、出入り自由で、安心感と信頼感がじわーっと拡がるような関係。
地域社会がそのような関係で満たされていてほしい。
とにかく・・・・・
「なにかつくりたい・・・」という感情をゆるやかに受け止め、自主的な行動へとしなやかに導き・・・とにかく楽しく豊かな時間を過ごすことが最重要事項。
もしかすると何かができるかもしれないという期待感を担保しながら・・・・
その結果、仮に、ふと思いもよらない何かが生まれる現場に居合わせることができたとしたら、それが素晴らしい。
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もうひといきだな。
お願いだから邪魔しないでください。
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