それぞれにコアがしっかりしつつも、開放系であるかどうか。そこがポイントかな。
2008年 12月 21日
拠点マメゲキでのエンディングのパーティには関係者40名ほどがあつまり、お世話になった新世界市場の中で仕入れた食事で深夜まで盛り上がった。
その瞬間の皆の表情と話ぶりから、そのプロジェクトがどうだったのかがわかる。
今回もまた、いい時間を実感する瞬間。
なんだかいろいろなものが溶けてゆく感覚。
今回の新世界でのアーツな実験は決して派手なものではなく、どちらかというと表現の強度としてはむしろ弱いものであったが、それゆえの興味深いことがいろいろと起こった。
なによりも、今後一緒にいろいろなことを展開できそうないろいろな人や場所、物事や素材、そして地域の団体やしくみに出会えた。
そしてそれらとの関係がじわーっと深まり、なんとなく期待度が高まった気がする。
表面的な仕上げを重視するイベント性の高いアートプロジェクトに見られるような、完成形を目指すところに視点をおかずに、春からの地道なディスカッションと参加者の発想で実現した「地域アーツ実験」として位置づけていたので、それぞれがそのプロセスに視線と感性を配ることができたのが適正だったのだと思う。
途中、アートプロジェクトの束縛の罠を感じつつも、それなりに等身大の感覚を麻痺することなくそれぞれが動いていたように思う。
これはこれまでブレーカープロジェクトが6年間にわたり、この地域との信頼関係を地道に築いてきた結果である。
地域とアートが絡むアートプロジェクトは近年増えてきているが、いろんな疑問や違和感を抱えているアーティストや地域も多い。
地域でのアートプロジェクトは化学反応を引き起こす実験のようなものだと思っていたが、どうも何の反応も起こらなければ、あるいはマイナスな摩擦ばかりがおこり、消耗しきっている現場もあるという話も聞こえてくる。
その原因が今回のプロジェクトを通して見えてきたような気がした。
それはそれぞれが開放系であるかどうかということ。
商店街に固執せず、街の人が仕事の領域を犯されまいと身構えず、あるいはアーティストとして固執せず、またはデザイナーとして領域を守ろうとせず、お互いが何かをそこから得ようとする態度と感性を開放しているかどうかということ。
お互いがお互いを理解しあえるなどと、安直で嘘っぱちな状態ではなく、あくまでもそれぞれが理解困難な状態であることを理解しながら、常識的な商店街という枠組み、あるいは地域づくりという枠組みの殻の浸透性を高め・・・ちょっと緩めた状態なのかな・・・、同時にアーテイストや研究者やデザイナーもそれぞれのこれまで培ってきた概念や表現手法を崩す覚悟で・・・いっそのこと「なにものでなくてもいいんだ!」という態度と感性で、何かを一緒にやってみようかなとする状態。
それがとても重要。
お互いが頑固な殻をもったままでは何も変化しないし、そこから新しい何事かは発生しない。
お互いに楽しもうとする余裕がなければ、何の感性も動かない。
それぞれがしっかりと与えられた役割を演じてこなす、分業の義務とノルマの社会システム・・・つまり、閉鎖系あるいは固執タイプもしくは、保守隠蔽系同士では摩擦はむしろストレスとなる。
これまでとは違う何かを求めようとすれば、自然に開放系になる。
逆に何か立場や建前を守ろうとすればどうしても閉鎖してしまう。
いかにオープンであるか。いかに開放型の人が交差する状況ができるか。
あるいはいかに殻を打ち砕き、開放へと向かう状況をつくるのか。
そこに重要なポイントを見つけたのだけど、どうだろうか。
あ、そうか、それは何もまちとアートのことだけではないですね。なんでもそうなんだ。家族との関係も、企業と、も。 行政と、でも。