学校の先生に向けて書いた原稿。
広島の学校教育委員会にいる先生から頼まれて以下の文章を書いてみました。

「と」の関係性

関係ないところ

ある街に関するヒヤリング調査を行ったときに女子中学生に投げつけられた言葉が心に沁みた。

「ここ、関係ないとこ、多すぎぃ~!」

自分か生まれて育ってくる中で自分の暮らす街には自分には関係のないところばかりだという。

住宅地、マンション、企業ビル、大型商業施設、文化施設、公園、海岸、河川・・・大人の価値観からすると、とても暮らしやすそうな場所だが、確かに子ども達だけでは立ち入れないところばかり。公園や河川、海岸も、もはや危険地域ということで子ども達だけでの立ち入りは禁止され、企業や文化施設、大型商業施設の入り口では警備員が監視の目を光らせる。住宅地やマンションは塀で囲まれ、監視カメラが不審者の侵入を拒否している。

街のあらゆるところから子ども達は関わることを拒否され、自由に使うことも触ることもできない。
もちろん、それなりの手続きを踏めば使えるシステムを持っているのかもしれないが。
大人たちから許されている空間は自宅と学校。
そこが自由に関わり、使える場所であればいいが、果たしてどうだろうか?

結局、彼らを受け入れる空間がメディアやアニメの空間、子どものためにデザインされ、管理された空間だけだとすれば、成長の段階で悲劇が起こってもおかしくない。
多様な空間が子ども達を多様な人々との関わりに導き、子ども達はその中から様々な対話力を身につけ、判断力を養う。学校や家庭の中の、固定され束縛された関係ではなく、選択可能で更新性の高い人間関係が子ども達の社会への興味や可能性を導き出し、その存在を裏付ける。

関係性と存在

a0010575_12582199.jpg2004年12月、インドネシア・スマトラ島沖地震で発生した津波によって、ある村が壊滅するほどの被害をうけた。村の住人のほとんどは亡くなり、被災時にたまたま外の村に出かけていた数名の住民だけが生き残った。

彼らは家族、親戚、友人、家、街、学校、職場、生まれ育った風景のすべてを瞬時にして失ってしまった。つまり自分自身の存在を位置づけていたすべての関係性を失ってしまったのだ。

彼らは生き残ったが、自分自身が何者であるかその存在を失っていて、それを回復させるのが大変であるという。関係するすべてのものや人を失うことは、自分の存在を失うことに繋がる。

人は関係性の中に存在するということを忘れてはならない。

束縛の中にあるのではなく、選択可能で自由で多様な関係性が、子どもだけではなく人間の存在には欠かせないという視点が重要なのだと思う。「だれと」その時間を過ごし、「だれと」出会い、様々なモノゴトに対峙するのかでその個人の存在の意味や価値は変容する。

はたして子どもの周辺にそのような多種多様な関係性をつくりえる多様な空間が開放されているのだろうか?

大人たちは、あらゆるリスク回避のために可能な限り子ども達の侵入を拒絶しているのではないか?


いじる→使う→できる→つくる

a0010575_125859100.jpg幼い子どもはとにかく「いじる」のが好きだ。
体をいじり、身の回りのものをいじり、道具をいじり、場をいじる。いじるという行為において目的は存在しない。
何らかの結果を求めていじるのではなく、何かを作ろうとしてでもない。ただ、いじりたいからいじるのである。

いじる行為は「使う」行為に繋がる。
指を使い、手を使い、体を使い、頭を使う。身体を使うことの延長に道具を使うという行為がある。
言葉や文字、数字を使うという行為もある。
身体を使うことを覚え、その延長で様々な道具や言葉、文字、数字などを使うことを覚える。
そしてそこと繋がったところに様々な空間がある。

社会のすべて、大げさな言い方になるが、宇宙の存在のすべては身体の延長にあるという感覚が大切だ。
そしてできるならばそれらのすべてをいじる行為が大切だ。
いじることが使うことに繋がり、その結果として何かができてしまう。
その順番がとても大事なのだと思う。
手の延長にある様々な道具。鉛筆を持つのか、絵筆を持つのか、ナイフか、楽器か、ボールか・・・その結果生まれるものが変わってくる。
声を過剰に使うことによって歌が生まれ、言葉を過剰に使って詩が生まれる。
そのプロセスには脅威の発見があり喜びがある。

結果が前提となる罠


a0010575_12591980.jpg物事の認識は結果からしか捉えられない。
近年ようやく「結果ではない。プロセスだ!」と言われるようになったものの、相変わらず結果が提示され、最短距離で導き出すプロセスが求められているように見える。

100のプロセスの結果、100通りの結果が生じているのが最も興味深い現実であるというのに、その中でたまたまひとつの結果があたかも正解のように提示され、そこを目指して「がんばれ」という風になってしまうという罠に気付くべきだ。

子どもにとって必要なのは「何かを作ろうとする行為」なのだろうか。
いじった結果何かができてしまうという脅威の体験なのではないのか。

身体の向こう側に繋がっている世界はすばらしく驚異に満ちて面白く、興味深いところなのだ。

「いじり」と「使い」の経験を経てはじめて「つくること」の喜びを体験できる。
「いじり」、「使う」ことの延長にある「つくる」こと。この順番を大切にしてほしい。

プロセスは記録に残りにくい。
その理由から、制作プロセスにおいてはまず完成がゴールとして設定されることが多い。
その途端にそのプロセスはある流れをフォローすることになり、子どもの創造性や感性とはかけ離れたものになる。
何ができるかの驚き以前に答えが用意され、それをなぞるように強いられる。
そこに驚異の発見も喜びもない。
もしかすると声や音、道具をいじること以前に音楽や図画工作があり、文字や言葉以前に国語があり、数字以前に算数があり、周辺の空間以前に社会や理科が用意されているのかもしれない。
そしてそれらは身体的な行為の延長にはなく、情報という遠いところで発光している無縁のものであるのかもしれない。

「だれと」の関係が決定付ける。


いじり、使うプロセス。その時間と空間をだれと共有するのか。
それがすべてを意味づける。

何でもない行為に方向性が与えられ、許可され、賞賛され、あるいは否定される。それは親や兄弟や祖父母だったり、近所の人や友人、先生、メディアの向こうの人だったりする。

「だれと」の関係性、「だれ」かの価値観がじわっと伝わり様々な結果を導く。

先日妻が興味深い話をしてくれた。
つい最近まで、ただ色や形を楽しんでいた5歳の息子が保育所で描いた絵が突然児童画の模範解答のような絵に変わったのだそうだ。
不思議に思い他の子ども達の絵も見てみると、同じような構図の羽を広げた力強い鶏の絵が並んでいたという。
先生に悪意はないはずだが、その先生と絵を描くことによって子ども達は羽を広げて正面から見た鶏という記号を力強いタッチで描くことを覚え、そうすることによって「ほめられる」ことを覚えたのだ。
「だれと」の関係が子ども達の絵を変え、価値観を変えた瞬間なのだと思う。

1年ほど前、当時4歳の息子と砂浜に行ったときのこと、一緒に散歩していた犬が穴を掘り始めたのを見て、息子は猛然と犬のまねを始めた。
僕はそこで躊躇しながらあえて面白がった。
結果息子はしばらくの間、砂を見ると犬の真似をして穴を掘る行為に熱中していた。彼の行為は僕との関係においてほめられもしなかったが認められたのだ。

子どもの周辺には「○○をつくりましょう!」という結果を前提とした、いかにも創造性に乏しく陳腐なプログラムが溢れている。

教育というミッションを隠れ蓑にして、実は貨幣経済上の利益を前提とした商品もたくさんある。
いかにも魅力的な「答え」や「ゴール」を用意して子どもにつきまとう大人「との関係」が子ども達を危険な方向に導いているように思えてならない。

子どもがいじり、使いまくった結果たち現れるイメージのなんと興味深いことか。
それを面白がり、認め、褒め、あるいは批判する多種多様な魅力的な大人「との関係」が子どもの存在を裏付ける。

子ども達は「だれと」数字や言葉や音をいじり、自然や街や歴史をいじり・・・そのプロセスにおいてどれだけ驚異の発見を繰り返しているだろうか。

大人はちゃんと多種多様な価値観に興味を持てるような魅力的な存在にならなければならない。

そして子ども達との関わりを積極的につくってゆこうとする意思が必要なのだと思う。もっと楽しみながら・・・ゆっくりと・・・。

藤浩志
by fuji-studio | 2008-09-01 12:44 | ・思索雑感/ImageTrash


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