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父親のお別れの会。

父親のお別れの会。_a0010575_0274748.jpg先月末、ちょうど水戸芸術館のオープニングの次の日、父親が逝った。

その直後に家族だけでの密葬をささやかにおこなったが、今日はあらためて、父親が長い間お世話になっていた会社が父親の生前の功労をたたえてお別れの会をおこなった。


父親のお別れの会。_a0010575_0283776.jpg会社の施設の中に父親の故郷の奄美大島の風景をイメージして飾られた会葬会場がもうけられ、父親とある時代一緒に仕事をした人たちが数百人集まってくれる。

数十年ぶりにみかける懐かしい顔もあり、父はさぞ喜んだと思う。

ありがとうございました。



父は大正14年。奄美大島の大熊という小さな漁港の大工の次男として生まれた。

生まれてすぐに昭和になるので、父の年齢は昭和の年号と一致しわかりやすい。まさに昭和史とともに生まれ育った世代。

父親のお別れの会。_a0010575_0571818.jpg大島での尋常小学校卒業後、徴兵や長崎の造船所での仕事を経て戦後鹿児島市内で友人と鉄工所をはじめたが、父の兄(藤都喜七、のちに都喜ヱ門)が経営していた大島紬の会社を手伝うことになり、鹿児島県内の各地に大島紬の手織りの工場を作る仕事をまかされることになる。

当時、離島をはじめとしたいわゆる僻地で現金収入を得る手段が少なかったこともあり、大島紬の手織りの工場は歓迎され、昭和30年~40年、鹿児島県内に116の工場を建設し、手織りの指導員とともに各地の工場を廻る仕事をしていた。

奄美大島の生活に根ざした伝統的な民芸としてあった大島紬が、戦後の高度経済成長の波とともに鹿児島県を代表する産業として扱われるようになり、質の転換がおこってしまったのもこの頃だと思う。

(・・・この事実は僕が大学時代、工芸科で染織作品を探求する上で、大きな問題として影響をうけた・・・。)


父親のお別れの会。_a0010575_0584643.jpgその問題はおいといて、とにかく鹿児島の辺鄙な地域で暮らし、子どもの大学進学の為に少しでも多くの現金収入が必要だった家庭の主婦達にとって、同じ問題を抱える人達が集まり一緒に機織という伝統的な作業を学びながら、休憩時間には会話を楽しみながら、現金収入を得る場としての手織りの工場は重要だった事実は否めない。

昭和の50年代に入り、つまり、父親が50代に入り、量産される大島紬の販売網を確保するために日本国内各所に営業所を設け、大島紬の営業に奮闘する仕事を任される。

この時期、もっとも勢いのある右肩上がりの日本経済の時代を血気盛んな仲間達と謳歌した。

しかしその絶頂期、兄の圧力により突然の解任。


父親のお別れの会。_a0010575_0592395.jpg平成に入り日本の経済成長に歪みが生じた頃、大島紬が産業として生産される状況は崩れ、本来の伝統工芸、手工芸のありかたにもどる道を余儀なくされる。

それにともない、・・・時代の要請に応じて作られた地方の手織り工場は閉鎖され、多くの職人は職を失うことになる。

60代半ば以降の父はこの職人達の再就職先の確保のため、あるいは会社が所有する土地の有効活用や売却の為に動き続け、去年足を患い、車の運転ができなくなるまで地方を廻り続けた。

とにかく地方をあちこちと廻ってばかりで、ほとんど家にいなかったので、その時代の多くの父親と同様、子どもと一緒に遊ぶということがほとんどなかった。家族とのコミュニケーションは極めて苦手で・・・僕自身にもその部分はしっかり連鎖してしまっている。

父は給料のすべてを土地や建物の取得のための借金返済にあてていたので、あれほど仕事をしていたのに家計が潤っていた記憶がない。いつも母親がお金のやりくりで苦労をしていた印象しかない。

実は昭和20年代、結婚直後、はじめてたてた家を台風で吹き飛ばされ、床上浸水状態で大変な思いをしたトラウマからか、やたらと盛り土と丈夫な家、あるいは安全な土地にこだわり続けて土地の取得の為に借金を重ねた。

おかげで僕の兄弟は皆、金銭面には厳しく、金欠状態でもなんの苦労も感じない性質に育てられた。この点についてはある意味感謝している。

おかげで、抵当権つき土地建物を負の遺産として相続することになるので、相続税とかには縁がないので助かった。 相続として分けるべき現金や有価証券、金品も見事にないので兄弟で取り合いの醜い争いをする必要もない。

ちょとぐらいあってもいいのになぁ・・・。

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ちょうど33年ほど前に亡くなった祖父の藤三太郎は晩年、盛んに水車を作っていたのが印象的だった。

それとどう関係しているのかについてはわからないが、父ははなぜか数年前から風車の制作に没頭し始め、ついには自宅と生まれ育った奄美大島の集落に風車の発電機をたてた。

風で廻る仕組みがどうやら気になって仕方なかったようだった。

地域を廻る父親は、地域の人にとってまさに風の存在だったと思う。
僕もいろいろな地域を巡りつつ、風と土の存在・・・まさに風土について考えることが多い

風の性質は父親ゆずりなのかな・・・。

・・・そういえば最近、全国各地に自由工房を作ろうとしていうなー・・・。

父はまさに風になったというわけ・・・か。
by fuji-studio | 2008-11-18 19:49 | ・縁の深い人・家族