いわゆるモノとしての、あるいは空間としての作品?
2007年 12月 25日
もちろん、表現以前のモヤモヤと表現することの間にもズレがある。
つまり・・・必ずしも同じことではない。・・・ということ。
さらにその作品化することと発表することはまたまったく別の種類のことである。
ズレ、ズレ、ズレとズレが三段階程度重ねられて作品はそこにあり、作品の体験者はそこでまた決定的にズレた捉え方をし、ズレた情報を得る。
そのこと・・・つまり4段階以上のズレがあるという事実は一般的な常識ではない。
これらが全くイコールの人がいてもおかしくはないが、・・・うらやましいが、・・・いや、やっぱりありえないだろう・・・。
ところが一般的には、発表されたものが、作品としてみなされ、個人の表現物そのものとしてみなされ、あるいは作家そのものとしてみなされる。
それがさらに大きなズレをうみだす。
そのズレを楽しめるうちはいいが、そのズレが亀裂となり自分にのしかかってくるとつらくなる。
その重圧に耐え切れなくなり潰れる作家も多い。
僕の場合、モノを集め、分別し、並べるという日常の表現行為があり・・・、
そのなかでも特定の行為が編集され、モノゴトやシクミとして作品化され・・・、
そのシクミを可視化するためのデモンストレーションとして編集され発表されるというパターンが増えてきた。
その説明が複雑なので、結局、今回の作品はモノとして、あるいは空間の作品として、極力語ることなく発表された。
だから、物足りないんだなー。
モノとしての、あるいは空間としての作品ならば、最低でもこの10倍の広さの空間で、10倍の時間とエネルギーをかけてやるべきなんだろうなー。
ああ、やりたりない感じが僕としてはいたたまれない。
ところで、この会場の床のおもちゃ、北京の会場ではいらなくなったものを一つ持ってくると欲しいおもちゃと交換できることにして展示していた。
この広東での展示の為におもちゃを減らしたくなかったからという理由。
結局、北京展を終えて、3割ぐらいは中国のおもちゃに交換されていたかな・・・。
ところが今回の展示であとは日本に戻るだけなので、おもちゃを減らそうというもくろみで、欲しいおもちゃみつけてその絵を描くとそのおもちゃがひとつもらえることにしてみた。
おもちゃやぬいぐるみを欲しい子ども達が床にへばりついて絵を描く風景を想像した。
ところがオープニングに押しかけた観客で・・・
わずか2時間程度でものの見事におもちゃ、ぬいぐるみの7割が消えた。
中国、都心部といえどもまだまだ凄い!
日本ではだいたいぬいぐるみはなくならないんだけどなー。
中国人はぬいぐるみ好き?
バングラデッシュではビニール袋だけになっていたが・・・
さて、広東では何がのこるか・・・乞うご期待!
しかし、すごい勢いだったなー。
日本のかえっこユーザーの皆さん、このようにかえっこのおもちゃたちはまだまだ欲しがる人は世界中にたくさんいるようですよ。
オープニング後の食事中に、中国の作家が冗談で話してくれました。
「ああ、じゃあ、そのおもちゃ達はいまごろマーケットで売られてるかも・・・。そうそう。さらにその中からいいおもちゃがコピーされて、今頃量産されているかも・・・。」だって。
あながち冗談に聞こえないところが凄いなあ。 ・・・中国。
ちなみに広東でさえ東京より大きい街なんじゃないかなー。