マスキングテープ
マスキングテープ。

ちょっと上の世代のグラフィックの世界にいる人なら、あるいはある程度ちゃんと塗装をやったことがあるひとなら使ったことがあると思う。

a0010575_15224977.jpg絆創膏のテープと同じだと思っていたがどうも粘着性の点で違うということを気づき、素材として注目し始めたのはもう30年以上前。

そのマスキングテープをピッ! とちぎる感覚。

ごく僅かであるが「うれしいかんじ。」

エアキャップのプチプチを潰すかんじが「プチわる+心地いいかんじ。」であるが、こっちはもっとなんだか正義感に裏付けられている。

なんともいえなく、いい感触。


a0010575_15313498.jpgテープをびびっと引っ張るときの触角もまたいいが、ちぎる感覚よりは後ろめたさをともなう。

ある種のフェチ的要素があるかもしれない感覚であるが、ほとんどの場合、その微かな感覚は無視されがち。

写真撮影をするときに、写真そのものへの興味よりも、あのシャッター音に微かな喜びを感じる性質と似た感覚かもしれない。 

さらにマスキングテープに絵の具やドローイングがのっている感じが捨てがたくいい。

ドローイングや水彩画、建築パースなどを描いていた頃、作品が仕上がり、最終的に縁取りしていたこのテープをはずすとき、このテープの微妙な透明感とそこに積層した絵の具等の状態の耽美さを無視できないでいたのが20年以上前のこと。


a0010575_15315567.jpgしかし、テープをはずした後に現れる想像を絶するほど見事な顔料のエッジの劇的な登場を見たい為に、とたんにマスキングテープは脇役となり丸められる運命にあった。 その丸められたマスキングテープの団子も数分間はもてあそばれるものの、せいぜい残っても数日間。

僕の活動歴の中で決して表には出てこなかったけれど、確かに心を捉えてきた素材だ。

展覧会の搬入に向かうとき、マスキングテープとマジックを数本携帯してゆくだけで、作品の仕上げを担保するような気がしていた時期もあった。

小学校の時、水彩絵の具を使って描いた水彩画の作品よりも、水彩画を描いたあとのパレットの状態や、それを洗い流しているときの永遠に続くかのような絵の具色の水の流れに興味を注いでいたのが初期体験だとすると、マスキングテープは受験以降中期の体験に位置する。

作品を作るためのツールでありながら、ある種作品よりも感情的に親密だったと思う。


a0010575_15321522.jpg確か、80年代半ば頃、同じような感覚でマスキングテープを扱っていた作家もいた。

去年、横浜でマスキングテープの上に植物を描き、増殖させてゆく作家、浅井君に出会って、そのマスキングテープに感じていたフェティッシュな感覚を再び呼び覚まされた。

今回、高校時代からの友人の小山田君に会場構成を依頼している関係で、彼からも「フジサンは昔からマスキングテープ好きやったもんなー」と指摘され、再認識してしまった。

あー、今回の防災EXPOの会場設営の現場、マスキンゴテープをいっぱい使うことになりそうだ・・・。どきどきするなー。

楽しい人のところに楽しい人が集まる感覚と同じことであるが、制作している人たちが最低でも必死に楽しもうとして、ある種フェティシュに、ある種マニアックに、ある種感覚的に納得しながら作業を重ねてゆく現場でなければ・・・、言い方を変えると個人的価値観に裏づけされた状態をしっかりと積層してゆかなければ、魅力的は空間なんて立ち現れることはない。

関わるだれもが責任を転嫁するために、仕事上の立場だけで、実体のない公共性と実感のない常識をガイドラインに取り繕うことによって成立した物事のなんとつまらないものか。

それを作ろうとする人のなんと多いことか。

仕事に対するスタンスを少しでも変えたい人は、マスキングテープを100回ちぎるトレーニングからはじめるのはどうだろう。

脳内に小さな喜びの感覚が発生することで何か価値観が大きくかわるかもしれない。

そうか。いい仕事って仕事に対するフェティシュな感覚の積層の上に発生するのか・・・?
by fuji-studio | 2007-12-13 13:00 | ・思索雑感/ImageTrash


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