ものすごく小さな関係だけにおいて発生する価値の例を見つけた!
奈良の義父と義母が他界し、彼等が残した遺品の整理を手伝う。
ソーラーエネルギーの実用化に向けて生涯をささげた義父とそれをささえた義母であったが、その七十余年の人生を物語る家具、日用品、衣服、書籍、論文、資料、写真等…。

モノゴトの価値はだれにとって、どのような時期に、どのような状況で接するかによって変化する… つまり様々な関係性の中に価値が生まれ、ある状況の変化とともに価値は失われてゆく。

ある個人にとって、とても大切だったモノがある時期を過ぎると何でもないものになってしまうこともあるし、なんでもないものがある時間と場所を経由することでとんでもない価値を生み出すことだってある。

つまり絶対的価値ではなく相対的価値…。

しかもそのなかでも近年一番興味深く深めたいと思っているのが、だれとそのモノゴトに対峙するかによって変わる価値について…。

a0010575_1161065.jpg義父の遺品の中にあった1970年代のソーラーエネルギーに関する研究報告書は当時その実用化を夢見た開発者達にとっては相当価値の高いものだったに違いないし、数百枚はある老夫婦の旅行の写真はその旅行に同乗した家族や友人と一緒に見るから価値がある。

逆に、たまたま知り合った人の家で彼等の結婚式や彼等の子どものアルバムを見せられる苦痛を体験したこともある。彼等にとっては大切なものだとは思うが・・・。

ということで、ほとんどいつかは廃棄処分される運命にある数百枚におよぶ旅行の写真・・・。

そんな中、義父母がカラオケを歌っている数枚の写真が目に留まった。1997年の友人達との旅行写真の中の一コマ。彼等にとってもそれほど意味深い写真だとは思えない。


a0010575_1165382.jpgもちろん、つい最近までは僕にとっても誰にとっても価値のあるものではなかった。
ただ富山県の氷見のアートプロジェクトに参加して、その途中で訃報を受けて直接ここに来た僕と妻とわずか数名の友人関係において妙な価値が発生していることに気づいてしまう。

つい数日前まで10日間もの長い間お世話になっていた氷見の永芳閣の浴衣をきている10年前の義父の姿。

これは多くの人にとってなんでもないものだが、僕と妻と永芳閣のおかみと対峙したときにほんの少しだけ価値が発生するかもしれない予感。

ということで永芳閣のおかみのブログにトラックバックするという行為によって始めて発生する価値。

まあ、モノゴトの価値なんて多かれ少なかれそんなもんかな。で、表現というのはこうやって写真を撮影し、文書を書きブログにアップしたりしてトラックバックをつけるという小さな行為全体。

この表現は作品とは呼べないが・・・・しかし、この延長で…

想像を絶するぐらいすごく大きな関係を作り出したものが数億円の絵画になったりするのかな…。

興味あるなー。
by fuji-studio | 2006-08-05 23:14 | ・思索雑感/ImageTrash


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