ヨゼフ・ボイスと化学反応と・・・飽和状態…
展覧会とかパフォーマンスとかワークショップとかに関わらず、人の体験に関わることすべてについていえることだと思うが、あることがら、出来事、物事に接したときのその対象からの伝わり方って様々にある。

出会った瞬間にガツンと衝撃を受ける「ガツン型」、そのときはなんでもないことだけれどもジワーっと浸透してくる「ジワーット型」、なんじゃこりゃと不可解に思った疑問が腫瘍のように残つつも知らず知らずのうちにモノゴトに侵されいく「ナンジャコリャ型」、嫌だなー、嫌いだなーと思いながらもそれが気にするうちに無視できない関係になってしまう「イヤヨイヤヨ型」、他にもいろいろ…

これらは個人の意思というよりは、趣味志向というよりは、むしろ化学反応に近い状態で反応が引き起こされるような気がする。

おそらく条件として主体が化学反応を受け入れる状態にあること。そしてその反応を充分に促す触媒があること。(この触媒の問題から美術館とかの施設の問題とか地域環境の問題とか深めれそうな予感が…)


a0010575_126592.jpg経験値と年齢が反比例する状況を捉えると年齢をとればとるほど主体の経験値…つまり化学反応歴は多くなるので、化学反応しにくい体質になっているのかもしれない。

それに比べると年齢の重層が少ない主体は化学反応を受け入れやすい状態になっているといえる。

…なんてややこしい表現をしたが、最近の僕の周辺の活動を研究対象にしようとしている人からヨゼフ・ボイスとの関わりを質問されて、1984年のノートの記録を探し出した。


a0010575_1271078.jpg僕としてはまったく無自覚で当時衝撃的な出会いをしたわけでもなく、それほど意識したわけでもなく、むしろあまり詳しく知らないが…当時のノートの記述を見る限り、ボイスの活動に興味を持って当時京都から東京までパフォーマンスを見に行っているし、そのパフォーマンスや展示についてむしろ批判的なことを書いているが、ちゃっかりと当時のノートの表紙にはサインももらっているし、かなり意識していることがうかがわれる。


a0010575_1284792.jpg僕にとってボイスはジワーッと浸透型? とにかく経験値の少ない状態で多くの化学反応を受け入れようとしていた状態であることは確かで、当時経験した多くの事柄が確実に現在の僕自身の活動の根っこの部分を作っている。

それからすれば、今周辺の現代美術といわれているものの何を見ても飽和状態に感じるし僕自身になんの浸透性も衝撃もないのはそういうことなのか…。

とにかくこの飽和状態をどうにかしなければ…。
by fuji-studio | 2006-06-02 12:10 | ・思索雑感/ImageTrash


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