ホームからの眺め
駅について以前からいろいろ考えてきた。博多駅に九州新幹線がいよいよ開通するということで大規模改修を行われた時も、ディスカッションの場をもうけていろいろ話してきた。
駅の在り方について意識しはじめたのは東京の都市計画事務所に勤めていた頃、電車通勤をしていて、毎日電車を待つ駅のホームの環境をもとめて引っ越し先を決めたこともある。
地下鉄の駅を利用して通勤していた頃、閉鎖空間の空気の淀んだ暗鬱とした地下鉄駅で通勤電車を待つ時間がとても重ぐるしかった。しばらくして郊外に引っ越し、最寄りの駅で電車を待っているときに空を見上げ、解放されている自分に気づいた。山々が見え、桜がほころび、空気の流れが気持ちよかった。一日の始まりにほんのしばらくだがホームで立ち止まり、空気の流れや四季、匂いを感じ、気分が解放される時間がとても大切だと思った。その意味でも、あるいはホームにはじめて降り立つ人にとってみても、ホームからの景観はとても大切だと感じた。あるいは帰ってくる人をどのような景観が迎えるのか。そこはやさしく暖かく、ここちよく、誇りに思えなければならない。
美術館を考えるところから
しかし、もっと駅について考えることになったのは2004年頃? 兵庫県の芦屋市美術博物館が閉館しそうになったときに、あらためて美術館の在り方について考えて、文章をかいた中で、地域の美術館と駅の関係を考えるようになった。
美術館が地域に仕組みとして機能するのであればインフォーメーション機能は地域のステーションに隣接していなければならないと考えていた。
つまり駅にゆくとその地域の文化、歴史、別の言い方をすれば、地域のスペックが見えなければならないのではないかという話。その駅から広がる可能性を、リンクできるすべての要素が見える、もしくは感じることができなければならないのではないか。…という話。
逆にとらえると、駅に降り立つと、その地域が見えるのだ。その地域になにがあるのか、何が接続しているのか、その地域の人がどのような暮らしをしているのか。逆にとらえると、その地域に何が足りないか、何が欠けているかも見えてしまう。恐ろしいことだ。