仕組みが先か拠点が先か。それは問題ではなく、その在り方について(再考6)
地域の活動を作ってゆく上で、活動を作り出すための仕組みとして、アートプロジェクトというフォーマットがとても有効に利用できるのではないかと考えている。仕組みをつくることで、地域資源としての様々な場を使い、いろいろな表現が展開することで、そこから活動の連鎖を促すことができる。

a0010575_21174622.jpg仕組みがなければただの空き地だったり空き家だったりで、そこにまさに様々なアプリケーションが起動するかのようなOS的な仕組みを組み込むことで、場は活きはじめる。 

一方で仕組みをつくる為には様々な人とのつながりが必要だし、活動を作りたい人を集めるための場…つまり拠点が必要だという考え方もある。とくにまちをどうこうしようというのではなく、とにかく場を設けることでそこが吸引力となって面白い人たちが集まってくる。集まることで何かそこから活動が滲み出てきて、結果的に地域の活動の仕組みができてしまう。

仕組みと拠点の問題は鶏が先か卵が先かの問題で、地域のプロジェクトの現場では必ず論議される時期の来る問題だと思う。実はどちらが先かなんてことはあまり重要ではないじゃないような気がする。実はたぶん、何らかの形で成長する段階でどちらもが必要になってくるのだろう。問題はその在り方だと思う。

a0010575_21181514.jpg拠点をもたない仕組みの場合、不必要に集まるところや集まる時間がないがゆえに、目的志向の会議、目的志向のイベントになりがちで、不必要な、無駄な要素が排除されがちになる。目的に合致した要素を集めることができても、目的以外の要素は集まりにくい。場を持たないメリットももちろんある。 場所の運営費用に束縛されないという面はとても大きく、予算を活動そのものにかけることができる。束縛されるものが少ないので、プロジェクト事態に色が付きにくいこともあり、変幻自在に変化してゆける可能性を持っている。また逆に自由であるがゆえにプロジェクトの継続性を保ちにくい面もある。

a0010575_730363.jpg一方拠点を持ちつつ運営する場合、いつでも常時予期せぬ誰かと出会う可能性が出てくる。その場の持つ空気感のようなものが人をひきつけ、こちらから声をかけなくても、場そのものが魅力的だった場合、そこに人が集まってくる。エネルギーを持つ人が集まるとそこから自然と活動は湧き出てくる。一方で家賃、光熱・通信費、その場を運営するための人件費などの問題も発生する。場を運営してゆくために活動を作らなければならないという束縛をうけることになりがちで、場の方向性に自然と色や傾向がつくことが多い。

この仕組みと拠点が成長してゆく段階でぶつかる問題…。それはそこで展開される表現の完成度や強度に対する意識との葛藤のようなものかな…。

ここで再認識する必要があるのは、「活動をつくる」ための仕組みであったり拠点であったはずだということ。しかし当たり前のように「しっかり見せる活動」も必要となってくる。

ここで再認識しなければならないことは、「完成された活動を見せる」ための仕組みや拠点とは根本的に異なる性格のものだということ。つまりそこに過去における美術館やギャラリーのシステム、あるいは劇場等のシステムや国際芸術祭などのシステムとは異なり、あくまでも「つくること」にベクトルがあるかどうかによる。ということじゃないかなと思う。

自分自身の活動を振り返り、「つくるための拠点」づくりと「つくるための仕組み」づくりにどれだけの時間とお金を費やしてきたかを考えるとぞっとする。そしてその運営のためにもろもろの右往左往を余儀なくされてきた。

僕自身の性質として、完成されたものを楽しむ時間よりも、つくるというプロセスにいる時間が好きなだけなんだと思う。もちろん完成されたものを楽しむ時間も楽しいし、生活の中には必要だと思う。しかし、つくる時間にいる面白さを捨てることはできない。だって誰かが作らなければ、次の時代の完成品はできないんだものね。

仕組みと拠点が車の両輪のように必要だとして、その縦軸に「つくる」ところと「みる」ところはやはり両輪のように必要なのだと思う。その限りなく「つくる」ところに近い現場にもっとも興味があるということだと思う。
by fuji-studio | 2012-06-06 01:01 | ・思索雑感/ImageTrash


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