イメージはどこから来るのか。(再考5)
「自分の内側からイメージが湧き出てくる…。」

美術大学で美術を勉強していた頃、イメージというのはアーティストの内側から湧き出てくるものだとばかり思っていたし、そのように教えられているような気がしていた。(誰に教えられたのかさっぱりわからないが…)

確かに周りには自分の内側からイメージが湧き出てくる人もたくさんいて羨ましかった。

a0010575_23131486.jpgしかし、僕の場合、どうも自分の内側を覗き込んでみても何かを吐き出そうとしても、たいしたものはなく、自分の中には何もないということを思い知った。

自分の中から出てくるイメージはせいぜいアニメや漫画で植えつけられたイメージと、どこかで見たことのある教科書やメディアからの知識と、あまり思い出したくないような数々の体験の記憶と…。

とにかく自分の内側から湧き出てくるイメージなんてろくなものではないとあきらめた時から、意外な形でイメージが湧き出てくることに気付いた。

人との対話の中からイメージは湧き出て来る。場所との、素材との、様々な対話の中からイメージは湧き出て来る。

作家は自分の中からイメージを作り出すものだという教訓のようなものを無視して、むしろ作家なんかにならなくてもいいと思った頃から、興味深く実現したいと思えるイメージが後輩や友人との会話の中から湧き出てきた。

やりたいことがあったわけではなかった。「何かがやりたい。」という思いは強かった。自分自身をエネルギーの巨大なゴジラに例えるぐらい、単に動きたかった。動ければなんでもよかったんだと思う。

たまたま演劇をやりたいと思っていた友人が横に座っていたので、演劇をやりはじめたし、なにか面白いことをやりたいと思っていた後輩がいたから面白いことをやろうと思った。

劇団の仲間や後輩と嫌になるほどの対話を重ね、演劇空間に対しての対話をはじめ、その挙句に京都のまちとの対話の中で活動をつくってゆく面白さに出会い、右往左往して、パプアニューギニアの奥地で社会学者のフィールドワークという手法と出会う。

a0010575_23142781.jpg日本に帰り土地再開発業者・都市計画事務所での修行を経て紆余曲折の後…

地域のリサーチから始め、地域に対話の場をつくり、そこから出てきたイメージを地域実験として活動を立ち上げるという手法を導き出してみた。

ある時、イメージが立ち上がる前の状態があることに気づき、その状態を「モヤモヤ」と名付けてみた。

モヤモヤはイメージを作り出す種だとあらゆるところで話はじめると、そのモヤモヤという言葉が一部ではやり始めた。モヤモヤは個人の中にも、家庭や企業の中にも、地域社会の中にもいろいろな形であり、共感する人が多かったのだと思う。

モヤモヤはどこから来るのか。それは日常の対話の中で抱く違和感やズレのようなものから発生するのではないかと考えるようになった。多くの場合無視するように心がけている違和感やズレ。それが実はイメージを発生させる大切な種なのではないか。

あらゆる種類の対話の中でふと抱く違和感。それを無視することなく、それに向き合い、これを語ろうとする、なんらかの具体的な、具現化された形にしようとする。そこから実はイメージが発生するのじゃないかな…と思っている。

個人の違和感、地域の違和感をしっかり、なんらかのイメージとしてしっかり形にできるとすればそれはどのような手法がいいのか。それは様々な手段で表現しながら考える…というのがいいと思う。



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by fuji-studio | 2012-06-05 23:15 | ・思索雑感/ImageTrash


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