イイという価値観について(再考1)
イイ家族とか、イイ作品とか、いい地域というときのイイという価値について、基本的に子どもの頃から周辺とぶつかってきた。ぶつかるかゆえに考えざるを得ないことも多かった。

a0010575_17384864.jpg僕は即答できるタイプではないので、多くの場合その場では答えられずに、黙ってしまい、その分じわっと抱え込み、かなり時間がたって自分でも忘れた頃、ふと自分なりの考えを思いついてしまう。その時には周辺の話題や関心は他に移っていて、だれも聞いてくれないこともしばしば。

イイという価値判断はだれがつくりどこから流れてきて、どのように定着しているのだろう?

イイという価値が大量にメディアや街に溢れ、あるいは先輩や先生から押し付けられ、とにかく濁流に流されているような気がしてならなかった。自分としての価値を考える前に多くの価値が与えられ、そのなかで上手に泳ぎわたることができなかったのだと思う。


a0010575_17394226.jpgイイという価値観は絶対的なものだという話もあったかもしれないけど、そんな幻想はもう通用しない。誰かにとってイイものが他の誰かにとってはダメなものはいっぱいある。ある人にとってのイイ関係でも他の人には迷惑な場合もある。

イイという価値観は相対的なものであり状況によって変化する。それを確信してから楽になった。そして…イイという価値は「誰と」語り合うのかによって一番変化するというあたりまえの事実に気付いてから目の前は明るくなった。

駅前に何十年もたち続けている裸の姿の女性像を具象彫刻を目指している作家とみると、その表現力の凄さ視線が行き凄い作品だなと思ってしまうけれども、女性の権利の問題を行っている人と見ると、女性を裸で立たせていることそのものが問題だと思ってしまう。思春期の子どもとそこを通るときはなるべく見ないようにして無視してしまう。


a0010575_17403595.jpg上質の水が湧き出る自然の泉の横でペットボトルに入った市販の水はほとんど価値がないと思われがちだが、その水の研究開発者といると、自然に湧き出る水よりペットボトルの中の水のほうが美味しく感じることだってある。砂漠の中でペットボトルの中に入った水はどう考えても貴重品で価値が高いが、横にペットボトル不買運動の厳しい人が登場するとペットボトルに入っていることそのものが悪いのでなんだか水の価値もなくなってしまう。

いつも通っている見慣れた駅前から次の通りまでの50mの通勤路を足の悪い両親と歩く。少しの段差が気になり交通量が気になり、信号の変わる速さにいらだつ。生まれたての赤ちゃんを抱えた妻と歩く。排気ガスと大気汚染が気になり街の騒音と下品な看板を迷惑だと思う。社会学・歴史学の専門家と歩く。まちにしみついている時間の襞がやたらと目につき石碑や表示物や地名を興味深く思う。


a0010575_17414874.jpgイイという価値は誰との関係の中で変化する。ということは何か行動を行う時に一番重要なのは、誰と行うかということだということがわかる。

あらゆることをネガティブに捉え、つまらないつまらないとつぶやく人といると何も作りたくなくなってしまうし、面白い面白いとつぶやく人といると、なんだかなんでも作れそうな気がしてくる。

地域づくりにおいても「誰と」つくるかの関係が変化しつつあるのだと思う。何をつくるかではなく、その前提として、「誰と」つくるのか。そのことが一番重要なのだと思う。

イイという価値はそれぞれの層によって全く違う。圧倒的にイイとされる大きな価値観を持ち込むのではなく、様々な層との小さなイイ関係を複層的に綿密に重ねてゆくイメージなのかもしれない。

ミルフィーユ的にじわっと積層された強度。そんなかんじかな。

でもイイは時代によってかならず変化し続ける。



※写真と本文は何の関係もありません。

これまでにブログに書いた関連記事もリンクしときます。
いいもの、いいところ、いいまち・・・の条件。あたりまえのことですが・・・。

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by fuji-studio | 2012-06-01 23:40 | ・思索雑感/ImageTrash


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