いないのにいることと、あるのにないようなこと。
2011年 04月 30日
去年、瀬戸内国際芸術祭に出品した「藤島八十郎をつくる」という作品も存在しない人を存在させることで、関係の在り方を探るような表現から発したものだった。
で最近、僕の中に、もうずいぶん以前に亡くなってしまった友人や後輩たちが活き続けていることを自覚するようになった。
彼らはことあるごとに僕に関係してくる。だから余計に彼らの存在は僕の中で大きくなってゆく。この世の中に存在していても関係がないともちろん存在を知らないし、知っていても、存在を意識することすらない。
今回青森ねぶたの廃材の針金の塊をほぐしながら「龍」を作っていて、龍の存在に思いをめぐらす。
存在しないものは関係をつくることで存在するということ。
龍が意図的に「ありえない存在」を作り出すものとして様々な関係が歴史の中で、風習の中で作られてきた人間の意志を思うにつけ、その裏側で、存在しているが消そうとしてきた悪意の所在を考えざるをえなくなる。
つまりなるべく関係を持たないようにし、なるべく存在感のない状態をつくろうとしている人間の意志があるということ。その存在は密室の中で物事を動かそうとし、閉鎖状況をつくることで保身を保とうとする…。
実は太古の昔より…そのような性質の存在が地域社会の仕組みの中枢を作り上げてきたのかもしれない…閉鎖関係の中で仕組まれているのかもしれない。…という疑念。
そんな仕組みに対して開示せよといったところで…開放しオープンなシクミをつぶやいたところで…届かないのかもしれない。
しかし、そろそろ、そんなシクミ、崩れてもいいと思うのだが…。
隠さなければならないことはそんなに大切なことなのか…