自分の時間に向かい合うツール
2011年 02月 23日
インターネットのサービスが始まるはるか以前に最初にパソコン通信のネットワークサービスに加入したのが1988年だったのでかれこれ23年前か…。
それ以前は自分の時間に向き合うツールはもっぱら書籍とノートだった。
情報を書物とか雑誌とか新聞とかから得て、ひたすら自分なりの考えをノートに記する日々。
それが情報ツールの変化とともに徐々に変化していったことになる。
このブログを使い始めたのが2004年3月。ブログ以前はウェブサイトの利用は情報の検索や閲覧とメールと掲示板、会議室への書き込みでノートと向き合う時間もまだまだあった。
しかしブログを日記代わりに使い始めて時間の隙間がブログの書き込みに費やされるようになり白いノートのページと向き合うことが少なくなった。
特に僕が気に入ってずっと使い続けていたコクヨの定番のノートのデザインがリニューアルされ、何かこころのよりどころのようなものを失い、B5版の無印のノートを使ってみたり、A5サイズのシステム手帳を使ってみたり、スケッチブックを使ってみたり…紆余曲折しながら、自分と向き合うツールを模索し続けてきた。…ってことは以前書き込んだこともある。
ツイッターを使い始めるようになり、情報の入り方、書き込み方はまた変化した。
真っ白のノートに向き合う時間は外からの情報は極力制限され、過去の自分の記述の痕跡の連鎖から思考や発想ははじまる。
もしくは自分自身の内部と向き合うことから始まり、思考と指先を経由してインクの表情を通してぼくの内部は表出されるプロセスをたどる。
ちなみにそれは…行為としてとても心地いい。時間として豊かな時間だと思っている。
一方たとえばツイッター等ソーシャルメディアなどへの書き込みは、まずはじめに他者の発言が目に入り、一度脳を経由して、それへの連鎖から発言がはじまる。
あるいはモバイル端末のトップ画面を経て、アプリケーションの画面を経てキーをたたくことで言葉を探し、…正確には言葉の変換を思いながら…というプロセス。
ちなみに行為としては…僕にとっては不安定で焦燥感と同居し、疲労感と空虚感を伴う…かも。
前提としてノートに向き合う時は原則非公開でプライベートだが、ブログやソーシャルメディアへのつぶやきは公開…。
そのフォーマットの有効性と魅力を感じながらも、一方で自分の思考を強制する危機感もある。
やはり基本的にノートと万年筆に向き合う時間の中からしか絞り出すことのできないイメージが存在するという幻想を大切にしたいし…、それでもソーシャルメディアが持つ力の魅力も探ってゆきたいとは思っている。
それにしても、ここにきて…もしかすると相当いい付き合いになるかもしれないノートと出会った…ような気がする。
ずっと昔からあるのになぜか使ったことがなかった。
ツバメノート社製のA4サイズの無罫のノート。
なぜA4かというと、単純にちらしとか書類とかが貼り付けられる。スクラップやバインダー代わりにもなる。
しかも紙が中性紙フルースという…何?10000年の耐久性!?
イメージプランを写真にとり画像処理して企画書にするときにいつも罫線が邪魔になっていた。
どうせ、罫線通りに文字を書いたことがないから罫線はいらない。
ツバメノート株式会社というのがなんだかとても信頼できそう。万が一いい落書きができたとしたら、美術館は喜ぶかも…。
ツバメとペリカンという組み合わせもなんだかとてもいい。
…ということで、僕がディスカッションの間とかにずっとノートをとっている姿に違和感を持った人も多いと思いますが…実は手を動かさないと頭が動かない性質なんです。
だから余計にこのノート…いいかも。
とりあえず通販で10冊ぐらい買ってみようかな…
そうそう。もうひとつ。分類されて並んでゆくのがたまらないんです。これが10年後何十冊と並んでいる姿を想像すると…たまらん。