作業と仕事、そして労働の違いとその間・・・中間領域(b_a)について
先日の川西市の廃棄物処理場でのトークの時もその話をしていたし、西成でのディスカッションでも、近江八幡でも話をした。

a0010575_13919.jpg…去年の夏の豊島の現場でも感じていたモヤモヤ…中間領域…ボーダーエリア=(b_a)について。

常識的にくっきりと線引きされ、意図的に、あるいは無自覚に排除されてきたのが(b_a)なのではないかと…

たとえば、商品あるいは製品から廃棄物に移動する間の(b_a)、就学と就職との、国と国の、海と海岸の、作業と労働の、私有地と道路の、就業者と退職者の、友人と恋人との、境界線によって明確に分ける理由は管理上の都合によるのだろうと思う。おそらく法律とか規制とかと税金とか責任とか義務とかと無関係ではない。


a0010575_1394436.jpg豊島もそうだったが、地方には「仕事がない」と多くの人が嘆く。実際にそこで充分な現金収入を得ることができる仕事の選択の幅は狭いのかもしれないが、実は膨大な量の「作業」が潜伏している。

先人が開拓してきた棚田をはじめ、田畑に手をいれる作業。

人が暮らすことがなくなった空き家や空き地の草刈りや庭いじりや掃除整備。墓守や伝統的祭事。

森林の間伐や海岸清掃、道路や共有地の清掃整備…


a0010575_1403154.jpg清掃整備に代表されることだと思うが…単純に乱雑で荒れ放題の人の手を離れたところに手を入れる作業はその場の質を変えてしまう。

台所の掃除をするだけでも家族の中での妻との関係が少しは良くなるように、作業の積み重ねは周辺環境を変化させ、周辺の人との関係を変えてくれる。

自然成長型の(荒れ放題ともいわれる)庭を好んで抱えていた僕としては何度も経験していることだが…荒れ放題の庭は近隣に暮らす人に不安を不満を与えるが、上手に手入れされた庭を嫌がる人はいない。


a0010575_141470.jpgとにかく、作業は周辺との関係をよくするという意味でも自分自身の気持ちを豊かにしてくれる。

それが仕事に繋がるかどうかは別の話として、活きるうえで(生きるうえで)とても大切な行為が作業だと思う。

言葉のイメージとしては「仕事」とは「仕えている」事なのだろう。(字のままじゃん)

根が仕事人間だし、濃厚な仕事人間遺伝子を受け継いでいるので体に染みついている言葉。自分のためではあるが、成長のためとか収入のためとか責任感であるとかと無縁ではなさそう。しかし、仕事を重ねると収入と直結しているイメージがあり、英語だとbusiness。

その収入と直結したイメージがあるために、収入のない仕事を行うことは許されない気がする。


a0010575_141442.jpg労働という言葉も嫌いではないし、性質として労働者の類だと思っている。英語のイメージではLaborかな。

なんとなくしんどそうだし、労働という言葉を聞いただけで労働後のおいしい一杯のイメージがこみあげてくる。

それだけにねぎらう(労)べき働きだろうから大変そうでどちらかというとやらされている仕事のイメージがあるし、重たいイメージもある。

苦を労ったり、働きを労ったりとのイメージからだと思うが、大変な分だけそれだけ大きな対価を得てしかるべきというイメージがある。


a0010575_1422760.jpgことばのイメージからするとしんどさでは作業<仕事<労働だし、対価の大きさでも作業<仕事<労働…しかしこれは僕の感覚で、それぞれの体験により、実はその感覚は人それぞれ全く違うのかもしれない。

とにかく、対価や収入に関係なく、作業は自らを豊かにし、周辺との関係を変えるという事実が地域社会の中で無視され排除されてきたのではないかという疑問…


a0010575_143512.jpg地域社会にはやるべき作業で溢れているというのに…仕事と労働の束縛で作業の機会と時間が奪われているのではないか…とか…

労働と仕事から得る金銭の束縛が無償の作業から拡がる自分自身の可能性を奪い取っているのではないかという疑念…

労働には労働基準法があり、いろいろと社会的に多くのフォーマットがあり、社会的に保障がありそうな気がするが、逆に作業についての規制は緩やかな分、保障とかもなさそう…。


a0010575_1475232.jpgもちろん僕のモヤモヤは言葉の問題にあるのではない。

個人的な業を作る「作業」と「仕事・労働」の間に無限に広がる様々な社会への関わる態度について。

仕事や労働の常識や法律などによって見えなく隠れている膨大な作業周辺のボーダーエリアに何かが隠れているのではないかという感覚である。

全国各地のプロジェクトの現場で無償の作業に没頭し、それぞれの生活の深みや豊かさを模索する多層な年齢の人々の態度に出会う度、金銭では買うことのできない貴重な時間の存在を確信する一方で、過酷な労働や仕事に従事し、金銭的対価を多く得ている人ほど、商品化された娯楽の時間を当たり前のように高額で購入するものだと信じさせられている人が多いのではないかと感じたりもする。

さらに…釜ヶ崎等に集まる高齢者が求める労働の対価として存在する見えない搾取…

働けば働くほど奪われてゆくものがあるし、働かなければ失ってゆくものもある。

他人ごとではなく、僕自身についても…何を奪われて何を得ることができているのかを見極めるのはとても難しい。

その答えはボーダー(境界)を見つめることで見えてくるような気がしている。

…いや、単に…個人的になんでもない領域、ボーダーが好きなのかもしれない。

もっと厳密に言えば…何でもない領域からなにか凄いことを作り出すのがやめられない性質なのかな…

※写真は先日西成の釜ヶ崎周辺を歩いた時のスナップ。窓を眺めて中の部屋の様子を想像してみると興味深い。釜ヶ崎そのものがボーダーエリア。作業したい。いじりたい。

by fuji-studio | 2011-02-14 23:21 | ・思索雑感/ImageTrash


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