俯瞰症
2010年 09月 20日
そういえば・・・、実は子どものころから「石橋をたたいても渡らないタイプ」と言われてきたほど慎重な性質。
右側の目が生まれつき見えにくいことも大きな原因だと思うが、自分のあらゆる感覚は人より劣っていると思い込んで育ってきた要因も大きい。 片目の生活は人よりも遠近感が捉えにくいので、高いところや尖っているものがやたらと怖かったり、キャッチボールが苦手だったり、はやく走ることを避けたり・・・まあ、一般的にはノロマだと思われていた。 だから余計に何かを行うときにうろうろしながら多角的に観察して、いろいろ推測してから慎重に動いてしまうことが身についているのだと思う。
しかも動き始めたらとことん動いて自分を超えようとする性質なので始末が悪い。
喫茶店でも飲み屋でも宴会場でも会議室でも・・・必ず端っこの全体が俯瞰できる場所にいないと落ち着かないし、住んでいるところも日本の西の端っこの福岡のさらに端っこの糸島を選んで暮らしている。
美術でも王道や中心を歩くことはできずにいて、周縁をうろうろしている。
鳥瞰ではなく俯瞰だと思うが、とにかく全体を捉えないと動けないのは体質だと思う。
とりあえず、その症状を俯瞰症(ふかんしょう)と呼んでみるとして・・・そんなことはどうでもいい。
瀬戸内国際を俯瞰するのは難しい。いろいろな違う視点から見る必要があるが、実はその部分がもっとも興味深い。 豊島の中だけに目をむけがちだったが、この数日間でようやく小豆島、男木島、犬島のプロジェクトサイトだけ、観客としての体験をし・・・たったそれだけだったが、いろいろな意識が発生した。
何が悪いのかもだんだん見えてきた。
ちゃんとした態度でちゃんと島に対峙しようとしている作家が見えたり、これまでのアートシステムの方程式を空き家に変換しただけでそのまま個人の事情を持ち込み、地域の属性と乖離した状態が見えたり、コーディネート不足が見えたり、地域の人のいろいろな関心や無関心が見えたり、その場の時間軸の特性と作品の賞味期限がうまくかみ合っていない状態が見えたり・・・辛抱強く我慢する地域の人や観客の姿が見えたり・・・多くの笑顔や高揚感、驚き、期待感も見えたり、予算不足、時間不足であきらめたものが見えたり、逆にやたらとお金が見えたり。とにかく移動が大変で無駄な時間が流れてゆくのが見えたり。島のよさをほとんど体験できない悔しさが見えたり。
とにかく地域実験としては壮大で多岐にわたる要素があるのだが・・・はたしてそのどれだけが記述され、表現され、論議され、検証されるのか・・・。
その要素が現在のシステムにどれだけ組み込まれているのか、あるいはどれだけ発生するのか。
どうみてもパツパツの限界状態の事務局、運営システム。そこに余裕はなさそうだし、いや、あるいはちゃんともう動いているのかもしれないが、イベントとして動いている部分があるとすれば、失敗は許されないという「前提」が邪魔するだろうから、いづれにしてもシステム外部の記述行為、表現行為、分析、解析、検証などの作業が本当に多角的に必要な時期に突入していると思う。
地域の問題をちゃんと捉えよとしている大学機関もそうだけど、個人研究者も意見のある住民も関係者も、立場を超えてちゃんとした発言をしてゆける現場が数多く欲しい。
事務局にはそのリンクサイトぐらい作ってほしいなあ。告知サイトではなくて・・・。
とにかく・・・有益な意見や記述があれば教えてください。
藤島八十郎の活動、ぼちぼち考えはじめてゆきたいしなぁ~。