数の暴力・・・どのように向き合うのか。
2010年 09月 14日
大きな「文化・芸術」という視点に縛られず、地域の小さなポイントに目をつけてそこからにじみ出てくる問題に対峙しながらいろいろな活動の連鎖やネットワークをはかろうとするのが「東京アートポイント計画」・・・大きな行政が行う事業としてはかなり画期的な視点のプログラムとして注目し、僕もそれなりの発言をしつつある。
しかし、なかなか現場は難しい。
担当者の問題でもなく、個々に関わる現場の問題でもなく、・・・システム化しようとするときに働く荷重の問題・・・なのかな。
それは東京都のような大きなシステムの問題だけではなく、3331につくられたかえるステーションの運営システムのような小さな現場の問題も繋がっている。
最近、荷重の要因のひとつは「数の暴力」なのではないかと考えるようになった。
単純に数が重なると多数になる。多数になると暴力になりえる。
個人の中に発生する些細な違和感を無視することなく、ちゃんと向き合う態度にこそ・・・常識や偏見を超えようとする態度にこそ「つくる」ことの重要性があるということはわかっていながらも、その「つくる」状況をつくろうとする段階で・・・社会化しようとする段階で・・・流通の段階で、「数の負荷」が発生する。
そのことにどのように向き合うかが問題の鍵になる。
多数は暴力になりえるということは知っているというのに、相変わらず多数決が原則となっているこの社会のシステムに違和感を抱いている人も多いのではないか・・・。
多いということが力になりそう・・・ほら。暴力。
多数決の原理に基づく選挙という常識についても・・・いつもぶつかる違和感。
そろそろ新しいシステムがイメージ化されてもよさそうだと思うがなかなか見えない現状。
特に、日常的に・・・東京という大勢が動いている現場をなれて暮らしているので、たまに地下鉄や駅、交差点などで大量の人を体験するだけで、暴力を受けているような気がする。
・・・そういえば、瀬戸内の小さな島で起こっている問題も、数の暴力と無関係ではないのだろうな。
・・・昔鹿児島で経営していたカフェも、かなりイイ空間として作ったつもりだったけど、来客数が増えるごとにイイ空間は崩れ、数を維持する方向に流れ始め、閉店の道を辿った。
数の暴力の裏側には貨幣経済、資本主義の原則が張り付いている。
そういえば・・・かえっこの基本原則、原初的数の認識、「1、2、3、いっぱい」という数え方に立ち返る。
いっぱいという感覚は数の問題ではなく、相対的な感覚の問題なのだと思う。
この「いっぱい」に対する感覚・・・「いっぱい」は「欲」と密接な関係にある。
掘り下げる必要があるな・・・。
・・ああ、でも掘り下げるのが苦手なんだよな・・・堀さげようとしてもズレてしまう性質・・・。