日常的な行為と表現行為との違い。
2010年 08月 14日
大切なのは、描こうとすることでも、つくろうとすることでもなく、自分が何をいじる性質なのかを自覚することなのではないかとつくづく思う。
しかし、それでも、いじる延長で何らかの形を立ち上げる技術なり手法なりが必要の場合もあり、それは手の延長にある道具類といかに接するか・・・の基本的な技術や知識があるのは確かだと思う。
写真は高嶺の根っこがぶら下がっているツリーハウス作品
そのあたりを意識しながらのワークショップ・・・のつもりだったが、その参加者から「日常的な行為と表現行為の違いは何なのか?」との質問がきて、その瞬間、ちゃんと答えられなかったのがずっと頭に残っている。
その時は日常的行為を客観視しているかどうか・・・客観視する延長に表現行為はあるとのことを話したに留まったが、それではもちろん足りない。 自分の性質を客観的に自覚したうえで・・さらに自分の日常とか常識とかを相対的にほんの少しでも超えようとする意志に表現という行為は存在するのではないかと考えている。
自分を超えようとするかしないか。
そこに表現行為と呼べるかどうかの境目がある。
あくまでも個人の中の相対的なものでしかないが、それを日常的に重ねることに個人の中には確実に意味が生じてくる。
「超える」という相対的に+(プラス)の方向にある場合、その日常が蓄積されると膨大なものになる。
写真は小山田徹の測量のワークショップの様子
しかし、「超える」という意識がない場合、相対的にゼロかー(マイナス)だとすると、その日常が蓄積されても、ゼロかマイナスでしかない。
表現行為はその蓄積の延長に意味が生じてくるとは思うが、それが個人の領域のままではいくらその表現が凄いものであっても、それは社会的に存在することはない。
その意味で作品化のプロセスはまた別の話になるが、その前提としての表現行為というものはそんなことなのかなと・・・つくづく感じている。
で、今回の青森で開催された鹿児島県立甲南高等学校美術部出身の3人の展覧会、高校時代はごく普通の日常的な行為を行う学生でしかなかったが、それぞれの立ち位置でまったく違う方法で、それぞれが自分の日常の行為を超えようと重ねてきた結果なのだと思う。
それぞれいじるポイントはまったく違うが妙にシンクロする面もありながら、確実にそれぞれが自分自身の日常を超えようとした結果、ここにいるのだなと感じる。
そしてそれぞれが活動するアートのシステムも、それに対する編集の仕方も、少しずつズレていながら違うのがまた興味深い。