小山田徹と高嶺格だけど・・本当はもっと多くの複雑な関係が・・・
今回、青森の国際芸術センターで企画されている反応連鎖・・・

a0010575_11284215.jpg鹿児島の県立甲南高等学校の美術部の後輩で京都市立芸術大学のバレーボール部、演劇部といろいろな共通項が多いので今回不思議がられて企画され、家族という裏のテーマを持ちながら滞在制作が続いている。 

小山田徹は以前もこのブログで紹介したことがあったが、とにかく二人での出来事を本にしたとすると数冊は必要なほど関わりが深く、彼が高校に入学してきた時から始まり・・・嵯峨野のアパート、上桂の一軒家と生活もともにしながら、クラブ活動での演劇部、バレーボール部と一緒にすごし紆余曲折・・・。 

そんな時期に鹿児島で開催されていた高校生対象の美術系の実技講座の講師をしていた時期に学生として受講していたのが美術部の後輩の高嶺君。


a0010575_11293962.jpg実は彼が入学したと同時に僕はパプアニューギニアに2年間赴任していたので彼の1,2年の時期を知らない。 ただし、その時期ダムタイプが美術系の情報に載り流通し始めていたのでいろいろな角度から彼らの活動を知ることができて、その中に高嶺も関わっていることは知っていた。

彼が3年になった時、日本に帰国してから大学のバレーボール部のOBとして長野県での夏合宿に顔を出したり、金沢での四芸祭(4つの公立美術大学のクラブ活動の交流会のようなもの)に参加したりして後輩達と一緒にすごし、改めて高嶺の本領を知り始める。 

実は小山田と高嶺の間に何人もの関係する後輩たちがいる。

出身高校は違うが、鹿児島の美術実技講習会で教えることで出会い、京都市立芸術大学に入った瞬間から無理やりバレー部、演劇部と入部させられ、活動に巻き込まれ、表には絶対立たないながらも創設当時からダムタイプと深く関わっているT君とか、高校美術部の後輩で演劇部には巻き込まれずにすんだものの、バレー部に巻き込まれてそのまま工芸の世界に入ったU君とか、同じ講習会経由で知り合い、京都の家で浪人生として過ごし、当時のプロジェクトをいろいろ手伝ってもらいつつ京都芸大に入学し、バレーボール部に入学した高嶺と同級生のKさんとか・・・いろいろな関係がそれぞれの活動の連鎖を生み出し、それぞれにとって大切な生活を構築してきた。

鹿児島出身ではないにしろ、当時バレーボール部と演劇と掛け持ちしていたメンバーはぼくの同世代で4~5名したし、後輩たちになるといろいろな時期の違いはあるが10名ぐらいはいたのかなぁ。


a0010575_11301391.jpg演劇部ではないにしろ、バレー部の一学年下の後輩でかなり年上のT君は映画研究会の中心メンバーとして映画を作っていたので周辺のメンバーはクラブ活動を越えていろいろ関わっていたし、僕が演劇部引退後につくった京都情報社は当時バレー部に入部してきたメンバーとの関係で無理やり立ち上げた。

京都情報社というシクミがメンバーを固定していない緩やかなつながりで成立させていた活動だったので、演劇部とかバレー部とか染織科とかの枠組みとは関係なく、それぞれが、それぞれの手法で人の繋がりに頼りながら、とにかくいろいろな活動を加速していた感じがある。

個人的にはバレー部・演劇部を引退してからも、漫画研究会や軽音楽部に関わってバンドのようなことをしていたり、漫画をつくってみたり、自宅の2階に茶室をつくり、軽茶倶楽部(カルチャクラブ)という学外の部活のようなものを作ったりしていたので、活動の巾はより複雑になっていた。


a0010575_11305058.jpg同時にバレー部の繋がりで展覧会を行ったり、それを越えて京都市内でのアートプロジェクトを企画したり、東京芸大バレー部との関係で東京周辺都市での展覧会に誘われたり、クラブ活動ベースだった人の繋がりを核としていろいろな活動の繋がりが発生し・・・その頃から同時にいくつもの仕事をやりつつ、動き回りつつ考えつつ、完成しない活動の連鎖はその頃から続いているのだと思う。

当時できたばかりの京都駅新幹線口の商業施設での何度か行ったゴジラ系パフォーマンスとかにも、バレー部に入部してしまった伊達伸明とかヤノベケンジとかがいきなり手伝わされてしまったり、当時はバレー部でしか接点がなかった藤本隆行とか江村耕一とかは、結局数年経ってからそれぞれの卒業後の経験を活かしてダムタイプのメンバーとなったり、キュピキュピの活動を立ち上げたりとなんだか戻ってきた感じがしていた。

京都情報社で中心的存在だった中島隆章の活動の連鎖から発生したようにも見える石橋義正が作った映画「狂わせたいの」ができた当時、バレー部をはじめとして昔の知り合いがたくさん関わっているのでのけぞってしまったこともある。


a0010575_11312143.jpgとにかく、当時、大学生でありながら、学生の活動を越えていろいろ動いていた空気を共有していて、それは何なのかと昔からよく聞かれるたびに、その分析しづらい複雑な関係といろいろな出来事を語ろうとしてきたが、そのたびに感じてきたことがいくつかある。

ひとつは誰と話すかによって語るべき内容が変化してゆくということ。

活動が連鎖してゆく段階で情報の中では無名だけど、実はとても要な人が横にいたということ。

活動が加速する状況には横で無条件に面白がってくれている視線と、厳しく批判しもっと大切な活動へと導く視線が並列しているということ。

大きなビジョンとか価値観とか、どうあるべきか・・・とか重要なコンセプトだとか、権威だとか・・・とにかく勝手な振る舞いを抑制しようとする重石をかわせる状況にあること。

それぞれが何かを引き受けた瞬間からかなり強い意志を持ってなんらかの形にしようとする態度を持ち、多くの時間と労力を費やすことに疑問を持たないこと。

僕の周辺にはそんな人が多かったような気がするなぁ。
by fuji-studio | 2010-08-09 11:47 | ・縁の深い人・家族


<< 青森ねぶたの終わったあとの廃材... こもるはずだったのに・・・ねぶ... >>