豊島での瀬戸内国際芸術祭のシンポジウムで、周縁代表として・・・。
2010年 07月 21日
その豊島バージョンがあり、ボルタンスキーと浅田彰との対談のあとに僕らのトーク。
シンポジウムというより、簡単な自己紹介で、時間切れの会だったけど・・・。
出品作家も多いし、英語やフランス語とかの通訳もありで、同時通訳というわけにも行かず、時間的にも厳しいのも確か。仕方ない。
クーラーもない炎天下の小学校の体育館でカーテン締め切っての映像プレゼンテーション自体が無理のある設定。それも仕方ない。 興味深かったのは「拡大する美術と、その周縁。」というタイトル。
どうかんがえても、周縁は僕のことを意識してのタイトルだと思えてならない。(ありがとうございます)
浅田さんは周縁を終焉と読み替えて駄洒落をいったりしていたが、確かに人口1000人の島の小学校の体育館で、世界的に有名作家や批評家や彫刻家、美術作家の中に混ざって・・・周縁活動を自称する僕が平気でそこに並んで座っているのもおかしい話で、・・・いよいよ美術も終焉なのかもしれない。
実は、今まで島の人に対して、実行委員会に対しても・・・自分自身の事やこれまで行ってきたこと、あるいは今後行おうとしていることについて話をする機会は一度もなかった。
その意味では唯一与えられた5分程度の時間だったが・・・もっといろいろな立場の人と、この地域で行うべき新しいアートシステムの実験について語り合うべきだし、そのチャンスをもっと小さくてもいいので作らなければならないな・・・と感じている。
出来事が大掛かりになれば必ず生じてくるユガミやヒズミについてちゃんと捉え、現在のシステムの不具合について時間をかけながら検討し、修正し、更新してゆく姿勢そのものが大切だと思う。
今回の瀬戸内国際芸術祭というシステムについては、地域側の立場でコーディネートする視線を持つ人の介入がもっと組み込まれてゆかなければならないと思っている。
作家のイメージありきではじまる仕組みそのものにも問題はあると思うが、予算的問題でコーディネーターが圧倒的に不足していて、オーバーワークで・・・しかもその人の立ち位置はあくまでも地域側ではなく、アーティスト側で・・・どちらかというと事務局側ですね・・・。
まあ、それも現状をみれば仕方ない。
去年の水都大阪2009の時は、事務局と作家を繋ぐ間に地域寄りとアーティスト寄りのコーディネータに介入してもらい、その掛け合いに期待したが、どうしても不協和音が生じていろいろな問題が見えてきた。
地域側のコーディネータとして、都市計画やランドスケープ系のコンサルタントという立場の人たちが関わったが、そことアーティスト側のコーディネータが水と油でなかなか混ざり合わなかった。
個人の問題としてというよりは、役割の問題として、立場の問題として、あるいは興味の志向性の問題としての不協和音だったのかもしれないが、とにかく両者が「いい状態で・・・」仕事ができたとはいえない。
瀬戸内国際芸術祭というアートシステムについて内部からその全体を見ようとすると、地域側のコーディネータとしてはむしろ地域リサーチ型の社会学系の専門家との掛け合いが必要なのではないかと考えるようになった。
僕自身も含め、アーティストは危険な毒を持つナマモノだと思っているので、それを料理する専門家が必要。
その意味で、危険なナマモノの取り扱いに詳しい人も必要だし・・・
街や構造物あるいはモノゴトが作られる段取りが分かり予算を組めるコンサルタント系も必要だし・・・
そして地域の問題を読み込み、その両者を繋ぐような役割の社会学系のコーディネータも重要なのではないか・・・という視点。
少なくとも、作家の選考も含め、地域の人や地域主体で活動する人が作家の表現を作品化する上で・・・かなり突っ込んだ形で編集作業する視点が必要だと思うが・・・、現状は作家のプラン(具体的な最終形態のイメージ)を数名の力のある人がジャッジするというような仕組みになっている。
そのあたりの問題点は実行委員会の体質次第で、意外と簡単に修正できることだと思う。
ともかく、今後の可能性や不可能性についていろいろ問題が見えてくることは歓迎すべきことだし、無視され続ける地域であるよりは期待感の高まる地域であるほうがいい。
その意味でも、瀬戸内国際芸術祭という巨大な地域実験・・・もっといろいろな角度からの視線がほしい。
・・・・・・
ところで、浅田さん、1983年に岡山の牛窓のオリーブ園で開催された第一回牛窓国際芸術祭のシンポジウム会場で出会って以来・・・おお!27年ぶり。
雰囲気がぜんぜん変わっていないところが凄い。昔も若かったが今もとても若い。
当時のシステムはズタズタで、シンポジウムの会場で一緒に出品していた同級生の高橋君とか杉山君とかが怒り、そのときのコーディネータの千葉(茂夫)さんに激しい抗議と行動を投げかけ、押し倒し、暴力とともにある過激な行動をとろうとしていたことを・・・(未遂で終わりましたのでご安心ください。)・・・浅田さんも覚えていてくれた。
考えてみると、国際芸術祭というスタイルはこの牛窓ぐらいからこの瀬戸内の地域では連鎖して定着してきたといえるんじゃないかな。もう30年近く・・・。
そのシステムはかなり更新されてきたとはいえ、まだまだ不全でもっとちゃんと更新してゆかなければならないんだろうな・・・。
ちなみにそのときの牛窓国際芸術祭の翌年、リセットされて、第一回牛窓国際芸術祭が開催され、僕らが参加した第一回だったはずの国際芸術祭は抹殺されたという経験を持つ。
その後10年ぐらいは続けていたので、90年代半ばぐらいまでは開催していたはず。僕らはその時から国際なんちゃらに根拠のない不信感を持つようになったのかも・・・。
それが岡山市内での自由工場へと連鎖し、当時出来立てのベネッセハウスへと感染して、直島の家プロジェクトへと繋がり・・・
というようなことにも興味深いな・・・。